書評 グローバル・ガバナンスの歴史と思想 | 有斐閣
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遠藤 乾[編]『グローバル・ガバナンスの歴史と思想』<2010年1月刊>(評者:立教大学 小川有美教授)=『書斎の窓』2010年6月号に掲載= 更新日:2010年6月3日
「見えにくい」グローバル・ガバナンス
 ためしに国立国会図書館蔵書検索システムでガバ(ヴァ)ナンスをタイトルに含む資料を検索してみると、すでに和書だけで800冊近く出版されている。その中の一冊をひと味もふた味も違うと推薦するには苦労も要ると思われるが、本書はその苦労がないほど個性を放っている。
 本書は認識共同体やレジームといった言葉を殆ど使わず、ガバナンス理論について教えることにそれほど熱心でない。ガバナンスの諸理論が社会科学の眺望を大きく変える意義をもっていたことは過小評価すべきではないが、その成果の一部は、一般に知られている制度・システムの通常動作を用語を替えて写生したにすぎなかった。こうした「顕教的」で退屈なガバナンス論に対し、本書は「密教的」であるとまでいうと衒いすぎかもしれないが、グローバル・ガバナンスが実際にどこから生まれてきたかが見えてくるように書かれている。
 評者は政治学者であるせいか、「ガバメントからガバナンスへ」「国家からグローバルへ」というキャッチフレーズを目にすると、そこにもやはり権力関係があるのに見て見ないことにしているのではないか、と汎ガバナンス主義を批判したくなることがある。この問題について編者(遠藤乾)の序章は明快に答えている。つまりグローバル・ガバナンスは、「政治化を避け、多くの場合、機能主義に包まれた中で権力性を稀薄化する」ことをこそ特性とするというのである。「だれがどの次元でどう処理するのかには拘わらない」ガバナンスが、「責任主体の見えにくさと表裏一体」なのは当たり前である。だがそれゆえにグローバル・ガバナンスは新現象ではなく、歴史の中に堆積してきたものだ、と本書は主張する。越境する問題の解決に有効ならば、帝国であれ市場であれ移民ネットワークであれ、その機能が認められ継続していく。このように大胆に歴史を見直すことによって、本書は「グローバル化」について本当に知りたかったことを教えてくれる。

グローバル・ガバナンスの由来
 本書の第1・2部は、グローバル・ガバナンスが「誰」に由来するかを突き止める試みである。それは、あらゆる所にガバナンスを見出し分析することができると考えるガバナンスの「顕教」とは趣を異にするアプローチである。それぞれの内容を紹介する紙幅がないのが残念だが、序章に優れた要約があるのでそちらに任せよう。
 取り上げられている個人とネットワークは、英国官僚のアーサー・ソルター(第1章・城山英明)、官民を横断した実務家ジャン・モネ(第2章・遠藤)、米大統領ウッドロー・ウィルソン(第3章・篠田英明)、国際法学者ハーシュ・ローターパクト(第4章・寺谷広司)、南アフリカ反英闘争指導者から英国閣僚となったヤン・スマッツ(第5章・五十嵐元道)、サセックス大学開発問題研究所IDS(第6章・元田結花)と多様である。だがしばしば「周辺人」(第2章)、「先行する主流派のアプローチの代替案」(第6章)といった表現が与えられているように、その非主流性が共通項として浮かび上がってくる。非主流であるが、システムの中で決して孤立していなかったことに、彼らがグローバル・ガバナンスの新しい形を築くことができた秘密があったのであろう(米国大統領ではあるが、伝統的モンロー・ドクトリンを破天荒に読み替えようとしたウィルソンも「非主流」であった)。ソルターは余り表に出ない行政の執行責任者が直接的接触をしながら国際的調整を行うこと、また経済事業者の評議会が制度的自己規律を強めることに大きく期待した。そこに部門横断的なガバナンスのロジックの発見があった。

 グローバル・ガバナンスの「内部」と「他者」
 さて、学問的に楽しげな本はまた恐ろしい本なのかもしれない。本書は、欧州統合史研究者の中心的人物である編者遠藤氏が、国際行政学の開拓者城山氏、そして越境的な経済史をリードする籠谷直人氏の協力を得て実現されたと「あとがき」にある。この三氏とそれぞれの分野の第一人者である各執筆者からなる本書は、対象に惹かれつつ、それをあくまで客観的に描き出すことのできる学者の手腕と楽しみを味わわせてくれる。だが同時に本書は、まるでロアルド・ダールの子どものための物語が退屈な日常と違う道に分け入らせ、ふいに奇怪な世界の真実を見せつけるような面をもっている。
 グローバル・ガバナンスのモデルの一つ、国際連盟下で設けられた委任統治(国際連合下で信託統治となる)は、アジアやアフリカの旧植民地の暫定的統治と独立のための制度だと思われている。しかしスマッツが設計した本来の委任統治制度とは、第一次大戦で崩壊したオーストリアハンガリー、オスマン、ロシア帝国の「相続人」として、不安定地域の秩序を維持する総合的枠組であった。その原型はかつて自らが守ろうとした南アを編入した英「帝国」コモンウェルスであり、今後は国際連盟が中・東欧の新主権国家国を包摂するコモンウェルスとなるはずであった。だがそれは決して非白人「他者」のための枠組ではなかった。このように人種的ヒエラルヒーをともなう「帝国」が国際連合型秩序につながるという洞察は、細谷雄一氏も指摘するように、歴史家マゾワーの近年の議論にもみられるものである(1)。そこではガバナンスの「内部」と「他者」の境界が意外なほど重みをもって認識の転換を迫る。
 そのことをさらに考えさせるのが本書の第Ⅲ部である。第7章(田所昌幸)は、ヨーロッパ諸国の国籍・パスポート・移民制度によるメンバーシップの管理の変遷を辿る。国境・国籍管理は各国の経済や軍事的理由によるその都度の選択の帰結であったにもかかわらず、第一次大戦頃までには「固い国境で仕切られる体系が完成した」という。一方第8章からは、「立憲制・金本位制・自由貿易」による十九世紀ヨーロッパの「標準化」システムが、「他者」のシステムとしてのアジアとぶつかりあう、壮大なガバナンス紛争の歴史があったことを知らされる。朝貢から遠心的な互市システムに移行しつつ「標準化」を避ける柔らかい中国の帝国経済に対し、イギリスは自由貿易港、放射状鉄道、移民網、通貨レートなどを利用し浸透していった。近代日本の関税自主権の回復政策や広東商人の受容は、その内の一エピソードにすぎない。
 もっともガバナンス・ネットワーク間の紛争は、一方的な支配だけを運命づけられているわけではない。第9章(安武真隆)は、拡大するカトリック君主国家とプロテスタント・ユグノー・ネットワークの息詰まる生存競争ゲームそのものを「宗教ガバナンス」のあり方として描く。それは序文でもいわれているように、「マネージされている状態をもってはじめて成立しているとみなされる」グローバル・ガバナンスが実際には抵抗、紛争、管理不能のリスクをはらんで成立していることを歴史的に実証するものである。
 しかし、「他者」を含むグローバル・ガバナンスの共有は、どこまで可能なのだろうか。第章(池内恵)は、「「政治的イスラーム」のグローバル・ガバナンスは可能か」を両面から検討するが、その結論は厳しい。主権国家、国家間協力、NGOの連携による既存のガバナンスは無意味ではないが、「イスラーム世界」の「他者」にとどまる。では、イスラーム的な自生的ガバナンスの可能性はあるのか。「政治的イスラーム」は、脱領域的なネットワーク型組織構造と自発性を特徴としているが、そこから敵愾心とテロリズムも広がっている。池内は「イスラーム世界」と「他者」との関係を変えていく言説政治の機運にふれて結びとしているが、その時機と必要条件は門外漢である評者には分からない。

本書の視座
 それゆえ、本書の著者達にさらに教えられたいと思う。一部の章にふれられているグローバル・ガバナンスの「自己/内部」と「他者」の区別、あるいは時間的・地理的・文化的な境界線はつねにどこかにあるのだろうか。別の問い方をすれば、本書のそれ自体の豊かな内容は、グローバル・ガバナンスの The「思想と歴史」をとらえようとするのか、あるいはその Some(例示)なのか、ということでもある。もちろん本書一冊でグローバル・ガバナンスの歴史全体を通史的あるいは網羅的に扱ったわけではなかろう。だが本書の視座として、時間的には二〇世紀前半、地理的にはイギリスに重心があるように見える。ウォラスティンが「世界(経済)システム」が特定の時代地域から発生したと論じたように、その辺りにグローバル・ガバナンスの経路分岐点があったと読んでよいのだろうか。
 またモネとソルターが戦時の共同作業で数回交錯しているように、第一次大戦から第二次大戦にかけての時期が現代的なグローバル・ガバナンスの揺籃期であったことが示唆される。この時期には、社会国家化や移動の管理により制度的ナショナリズムが強まったが、グローバル・ガバナンスも同時に「戦時」総動員により現代化したのだろうか。第2章の結論には、モネはアメリカ発テクノクラシーの潮流に乗った、ともある。その後のグローバル・ガバナンスについては、「今なおモネの世紀なのか」、それとも断絶があるのだろうか。
 今日最も重要視されるグローバル・ガバナンスは(環境とともに)経済・金融の領域であり、米国の金融政策責任者が世界の破局への責任を問われる程である。これに対しソルターが経済学者を有用ではないと判断していたという記述はアイロニカルで興味深いが、市場や環境とグローバル・ガバナンスの関係はどう変化してきたのであろうか。経済の専門家がレッセフェールでない国際ガバナンスを真剣に考えてきた歴史もあったことはすでに知られているが(2)、U・ベックが指摘するような科学的真理や専門性の複数性と葛藤はグローバル・ガバナンスのロジックをどう変えているのだろうか。
 (1) Mark Mazower, No Enchanted Palace:The End of Empire and the Ideological Origins of the United Nations, Princeton University Press, 2009.
 (2) Anthony M. Endres and Grant A. Fleming, International Organizations and the Analysis of Economic Policy, 1919-1950, Cambridge University Press 2005. 

(おがわ・ありよし=立教大学法学部教授)
グローバル・ガバナンスの歴史と思想 グローバル・ガバナンスの歴史と思想

遠藤 乾/編

2010年02月発売
A5判 , 336ページ
定価 4,070円(本体 3,700円)
ISBN 978-4-641-04985-7

ヒト・モノ・カネ・情報・病気・犯罪などあらゆるものが国境を越える今日,そうした越境する課題にどう対処するか。グローバル化の時代に生きる上での指針を先人たちの行動や思想・理念的な営みの中に求め,グローバル・ガバナンス(地球的統治)を考える。

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