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連載

市場ゲームと福祉ゲーム

第7回 非合理の論理学

東洋大学ライフデザイン学部教授 稲沢公一〔Inazawa Koichi〕

 世界の始源を問い、「すべては、Xである」と宣言するとき、創造主を招来するかどうかにかかわらず、「A=非A」といった超論理が姿を現し、こうした合理に収まらない現実と向き合う中で、古代の人々は、それを受け入れるための宗教や哲学を作り上げてきた。

 ところが、前回見てきたように、古代日本では、何の役割も果たさない神々を中心にすえた中空構造によって神話の体系化が図られ、さらに、その中心は、単なる空虚のままに留めおかれたわけではなく、中世には、仏教から「すべては、そのままでOKである」といった現状肯定の思想が持ち込まれ、「そのままでOK」の比重が軽くなる中、「すべては、すべてである」といったトートロジーで満たされていった。

 これは同一律「A=A」で表わされるため、いかなる場合でも合理的であるといえるが、同時に、何らの情報をもたらすこともなく、どのような変化を生み出すこともない。しかし、逆にいえば、「A=A」には、何の中身もないとはいえ、安定しており、かつ、何らの疑問を呈する必要もないようになっている。

 「A=非A」などといった非合理が起点におかれると、人々は混乱や不安に陥り、そこから抜け出すために知力を尽くそうとする。だが、「A=A」といった自明な合理が中心にすえられれば、無邪気な平和の中で、宗教や哲学を本気で希求しようなどという動機は失われてしまう。

 しかし、例外はあった。

1 場所の論理

 「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明してみたい」と「序」において表明されたのが西田幾多郎『善の研究』であった。

 このように「すべて」を唯一の何かで説明しようとすることは、「すべては、すべてである」(「A=A」)といった合理に満足することなく、「すべては、Xである」(「A=非A」)という非合理に一歩を踏み出すことであり、それにあえて取り組んだという意味で、西田は、日本における最初の本格的な哲学者であったといえる。

 実際、西田が「唯一の実在」としてすべてを説明するXとした純粋経験は、「未だ主もなく客もない、知識と対象とが全く合一」している状態と説明されており、逆にいえば、「主でもあり客でもある」状態ということになって、ここにおいては「Aか、もしくは、非Aかのどちらかである」とする排中律が成り立たず、そもそもの中核概念が非合理なものとして設定されていたことになる。

 とはいえ、たとえ主客未分の根源的な状態を純粋経験と呼ぶとしても、そこから主客の分化を説明することはできない。それは、あくまでも分化以前の意識状態に他ならないからである。そこで15年後に発表された論文「場所」になると、あらゆる存在は「何かに於てなければならぬ」ということから、純粋経験に代えて「於てある場所」が存在の基底に位置付けられ、主客が分化することは、こうした「場所の自己限定」によると考えられるようになった。

 さらに、基底としての場所で主客が分化することによって、「これは○○である」といった「判断」が可能となる。たとえば「これは花である」という判断が成り立つとき、「これ」は具体的な個物としての客体であり、「花である」は、主体が客体を花として意識していることに他ならない。このように場所において、主客未分の状態から分化するならば、そのとき場所は、個物としての客体ではなく、意識である主体の側に位置付けられる。

 したがって、意識として分化された場所は、決して「これ」として名指される主語にはならず、必ず「○○である」といった述語にしかならない。すなわち、「意識を定義するならば、何処までも述語となって主語とならないもの」ということになる。

 このような思索が記された論文「場所」は、西田哲学の中でも難解を極め、その論旨も明晰であるとは必ずしもいえない。しかし、『善の研究』発刊四半世紀後の「版を新にするに当たって」では、この場所にふれて、「そこに私は私の考えを論理化する端緒を得たと思う」と明言されており、また、場所概念の登場を待って、初めて個人名を冠した「西田哲学」という固有名詞が人口に膾炙する。

 と同時に、彼は、この場所概念に基づく「論理化」によって、非合理の世界へ通じる扉を開けたことになる。

2 述語の論理

 一般に形式論理は、主語的同一性に基づいて構築されている。たとえば、「人間は、死ぬ」「ソクラテスは、人間である」「ソクラテスは、死ぬ」という三段論法では、大前提の主語(人間)に小前提の主語(ソクラテス)が包摂され、そうした主語の同一性に基づいて結論(ソクラテスは、死ぬ)が導き出される。

 ところが西田が存在の基底とした場所は、主語になることができないので、そこでの論理は、述語的同一性に基づいて構築されることになる。そうすると、たとえば「私は、人間である」「ソクラテスは、人間である」「私は、ソクラテスである」のように、大前提の述語(人間)と小前提の述語(人間)との同一性に基づいて結論(私はソクラテス)が引き出される。もちろんこれは、形式論理に反している。

 そして、述語的同一性に基づく非合理的な論理が「精神分裂病(ママ)的な思考」に見られることを指摘し、「錯論理(パラロジック)」と呼んだのが精神医学者のフォン・ドマルスであった(「精神分裂病における特殊な論理法則」)。

 また、この論理を引き継いで「古論理(パレオロジック)」と呼び、分裂病者の妄想を構成している思考様式としたのは、精神医学者アリエティである。彼は、「古論理」の意義について、耐えがたい現実に気づいてしまった患者にとって、ひとたび別の様式、すなわち、古論理的思考で現実を解釈すれば、自らの欲するままに現実を見ることができ、「少なくとも願望の部分的な偽の充足」が得られることをあげ、述語的同一性を用いて、自らを合衆国大統領や聖母マリアに見立てた例を紹介している(シルヴァーノ・アリエティ『精神分裂病の解釈Ⅰ』)。

 さらに、こうした古論理的思考が「日常的合理的常識性」から見れば「異常」とみなされるしかないことを認めながらも、しかし、だからといって、それは、決して「劣等」を意味するわけではないと喝破したのが精神病理学者の木村敏であった(『異常の構造』)。

 すなわち、古論理的思考が「異常」に見えるのは、私たち「正常人」たちが古論理を理解する能力を有していないからにすぎないのであって、「正常人」こそが、合理的思考などという窮屈な様式に拘束され、「おそろしく融通のきかぬ不自由な思考習慣を負わされた、奇形的頭脳の持主」であり、逆に、古論理的思考こそが無限の連想に基づく想像力を可能とするという意味で、「自由闊達な論理構造」ではないかというわけである。

 このように、西田が見定めた述語的な場所の論理は、主語的同一性に基づく論理の立場からは、非合理であり、「異常」にしか見えないとしても、しかしながら、それは、創造的で豊饒な世界をも垣間見せる可能性を有しているのであった。

3 「まがいの推理」

 西田は、論文「場所」の冒頭で、先にも引いたように、存在は「何かに於てなければならぬ」と断言したあと、この「於てあること」については、「プラトンのティマイオスの語になろうて場所と名づけて置く」と述べ、「場所」という言葉がプラトン由来であることを明言している。

 『ティマイオス』は、後期対話篇の一つであるが、もともと「この宇宙が善なる製作者(デーミウゥルゴス)たる神によって、秩序ある善きものとして製作された、その過程を描いている作品」(種山恭子『全集12』訳者解説)である。とはいえ、宇宙創成の場面になど、神以外の何人も立ち会うことはできないから、それについて語ることは、「真実を把握する厳密な言論」とは異なり、「ありそうな物語」にとどまるとされている。

 また、ここでは、第一に立てられるべき区別として、「常にあるもの」と「常に生成しているもの」があげられ、前者は言論の助けを借りながら理性によって把握され、後者は感覚の助けによって思惑が把握するとされる。

 その上で、この全宇宙は、感覚されるものであるから、後者の「生成したもの」、しかも何か原因となるものをモデルとすることによって「生成したもの」であるとされる。すなわち、この宇宙は、理性の対象であり「つねに同一を保つもの」(イデア)を原因として、そのモデルを模写することで、可視的な「生成するもの」として製作されたというわけである。

 このように、モデル(イデア)とその模写(全宇宙)という二項の区別が冒頭で立てられたのに対して、途中で「第三の種族を明らかにしなければならない」と突如宣言され、「生成するものが、それの中で生成するところの、当のもの」であり、「いわば養い親のような受容者」が設定される。そして、この受容者こそが、「場」(コーラ)と呼ばれるものであり、西田の場所概念にとっての出自なのであった。

 コーラについては、「目に見えないもの・形のないもの(中略)きわめて捉え難いもの」とされているが、存在するものとして一定の空間を占めるなどということがないだけでなく、一定の場所でさえないと述べられている。すなわち、コーラとは、「場所ではない場所」であるということになる。

 このため、感覚でも言論でもなく、一種の「まがいの推理」とでもいうようなものによって捉えられるしかないとされるのだが、西田にとっては、場所おいて、存在するものがすべてそこに「於てある」ように、プラトンのコーラもまた、「およそ生成する限りのすべてのもの」が「その中で」生成するところであった。

 すなわち、場所もコーラも、すべての存在・生成するものが、存在・生成するものとして立ち現れるところであり、しかも、それらが立ち現れるときには背景に退いてしまうため、それ自身を主語として対象的に捕捉することはできない。

 前に用いた比喩でいえば、場所やコーラは、動画やゲームを映し出すディスプレイのようなものであり、目に映るのは、あくまでも存在・生成するものであって、ディスプレイそのものが前面に出てくるわけではない。

4 矛盾の論理

 『ティマイオス』において、コーラは、突然現れ、忽然と姿を消す。それは、話の展開に沿って現れ出でたというよりは、強引に挿し込まれたような、しかし、強烈な印象を残して立ち去ってしまう。それに対して西田は、場所についての考究を終生繰り返し、ついには「絶対矛盾的自己同一」の概念に到達する。

 もともと、『善の研究』でも、「実在は矛盾によって成立する」とか、「統一があるから矛盾があり、矛盾があるから統一がある」などと言い放っていたほどであるから、哲学者としての西田の生涯は、矛盾(非合理)についての思索で埋め尽くされたといってよい。

 通常、Aと非Aは矛盾しており、その矛盾は解消することが「絶対」にない。すなわち、Aと非Aは「絶対矛盾的」に対立している。これを形式論理的に表現すれば、「A≠非A」(矛盾律)になる。

 しかし、Aと非Aは、同一の場所にある。同じ場所になければ、そもそも矛盾することもできない。この立ち位置が、西洋哲学に対して、西田哲学を独創的たらしめている核心である。したがって、Aと非Aとが矛盾的に対立しているように見えるとしても、それを場所の側から見れば、その場所は両者にとって「自己同一」であり、「A=場所=非A」となって、場所の論理で表現すると「A=非A」になる。

 「絶対矛盾的自己同一」は、形式論理の立場からは、「古論理」が「異常」でしかなかったように、奇怪極まりない概念にしか見えないのであるが、場所的論理の延長線上に登場したことを踏まえれば、素朴に「A=非A」といった超論理で表示されることになる。

5 即非の論理

 『善の研究』を構成する最後の第四編について、西田は「序」で、「余がかねて哲学の終結と考えている宗教」についての考えを述べたものと書きつけ、本文では、「宗教とは神と人間との関係」であって、「神とはこの宇宙の根本」であり、宇宙は「神の表現である」と断言した上で、末尾において、「我は神を知らず我ただ神を愛す」と言う者が最も神を知る者であると結論付けている。

 このように、西田にとっての宗教は、デビュー作においても「哲学の終結」として重要視されていたのだが、それから35年後に刊行された遺稿論文は、「場所的論理と宗教的世界観」と題されており、彼が畢生宗教の哲学を追い求めていたことがわかる。

 この論文では、「神が宗教の根本概念である」という立場はかねてより一貫しているのだが、宗教は、「我々が自己の自己矛盾的存在たることを自覚した時」、「人生の悲哀」という事実を見つめるときに問題となると述べられている。「悲哀」という言葉には、この原稿を書き始めて10日目に突如長女の死に出会うという事実も影響しているのかもしれないが、人々は、自己が矛盾であることを自覚するとき、無限なる「絶対者」としての神を求めるとされている。

 また、自己が矛盾であることは、高校時代からの友人である禅者鈴木大拙の言葉を借りて「即非の論理」をもって表現できるとも述べられている。即非の論理とは、『金剛般若経』に多用される表現であるが、「自己」に即していえば、「私は、私ではない。ゆえに、私である」と言い表される。

 この「私(A)は、私ではない(非A)」とは、まさに「A=非A」を意味する。そして、「ゆえに、私である」のだから、「『A=非A』が私である」ということになる。すなわち、私とは、「自己矛盾的存在」というわけである。

 繰り返し見てきたように、世界の始源を問い、あるいは、「すべて」を一言で表そうとすれば、必ず「A=非A」という非合理に行き着く。西田もまた、『ティマイオス』にならって、すべての個物が個物として現れてくる場所を見据えていく中で、場所的論理の原点として「絶対矛盾的自己同一」に行き着いた。

 さらに、「自己の根底に、深き自己矛盾を意識した時」、すなわち、自らが「A=非A」であることを自覚するとき、人は宗教を意識し、絶対者を希求するとされていた。このように、世界の始源を問い、あるいは、自己の根底を見つめるとき、そこには「A=非A」が現れる。世界や自己は、非合理に基づいて成り立っているということになる。

 

 ただし、始源を問うこともなく、自己を凝視することもないときには、「A=非A」もまた姿を見せることはない。そこには合理そのものである「A=A」が佇むばかりであって、不安もなく、混乱もせず、安心して「市場ゲーム」に飛び込んでいくことができる。ただし、それは「+α」を手にし続けている限りにおいてではあるのだが。

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