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行動経済学を読む

第4回 人間の嘘と不道徳を解き明かす

京都大学大学院経済学研究科教授 依田高典〔Ida Takanori〕

1 人間の影に目を向ける

 伝統的経済学が仮定してきたホモエコノミカス(経済人)は、利己的で合理的な人間だとされる。しかし、人間は必ずしも利己的にだけ行動するわけではない。今、ある人が1万円を手渡されて、見ず知らずの相手と好きなように分配しなさいと命じられたとしよう。相手に分配額の拒否権がある時(ゲーム理論では「最後通牒ゲーム」と呼ばれる)、理論的な答えは「1円あげれば十分」というものにもかかわらず、生身の人間は4000円程度を相手に分配することが多いようだ。相手に拒否権がない時でさえも(「独裁者ゲーム」と呼ばれる)、人間は相手に2000円程度を分配する。人間は思ったよりも利他的で、共感を持ち、他人を思いやることができる存在なのだ。

 しかし、人間には、光の側面のみならず、影の側面がある。人間は嘘をつくし、不正もする。大企業でも、不正すれすれの所で、法に触れない限りは、利潤機会を優先するし、儲けのためなら詐欺や虚偽を働く輩も多い。近年、名だたる家電メーカー、自動車会社、製鉄会社が常識の予想の範囲を超えた企業不正に手を染め、一般市民を驚かせたことは記憶に新しい。

 伝統的経済学の立場をとるシカゴ大学のゲーリー・ベッカーによれば、人間は合理的な経済計算に基づき、不正を働くことから得られる経済的利得が、不正が暴かれ失う経済的損失を、期待値として上回るなら、人間は合理的に不正を働く。ベッカーの学問業績の特徴は、合理的な効用最大化モデルを用いて、教育・医療のような経済学的問題から、結婚・離婚・出産・犯罪・差別のような社会学的な問題まで説明することだ。ベッカーはしばしばイギリスの作家バーナード・ショーの「経済は生きる全てのほとんどである」という言葉を引用し、自分の研究を説明している。

2 なぜ人は嘘をつくのか

 ベッカー流の合理的不正モデルに公然と反旗を翻したのは、異端の行動経済学者ダン・アリエリーだ。彼は、一筋縄ではいかない人物であり、権威の言うことにおいそれと従わない。アリエリーの不正研究をわかりやすくまとめたのが以下の著作だ。

 

ダン・アリエリー(著)、櫻井祐子(訳)『ずる――噓とごまかしの行動経済学』ハヤカワ・ノンフィクション文庫、2014年

(早川書房のサイトに移動します)

 

 以下、著作のエッセンスを抜粋しよう。

 

 「わたしは不正行為と不正というテーマに心をひかれた。不正はどこからやって来るのだろう? 正直なこと、不正なことをする能力は、人間にどれくらい備わっているのだろう? そして何よりも、不正は主に少数の腐ったリンゴだけが引き起こす問題なのだろうか、それともより広く蔓延する問題なのだろうか? そしてわたしは気がついた。この最後の疑問が解明されたら、不正に対処すべき方法ががらりと変わるはずだ。もし世のなかの不正行為の大部分が、少数の悪人のしわざなら、問題を解決するのは簡単だ。たとえば人事部がずるをしそうな人を採用プロセスではじいたり、のちに不正直だとわかった社員を首にできるような手続きを整えたりすればいい。だがもし問題が少数の外れ者に限った話ではないなら、あなたやわたしを含むだれもが、仕事や家庭で不正なことをしかねないことになる。もしいくらかでも罪を犯す可能性がだれにでもあるのなら、まず不正が起きる仕組みを理解し、それから人間性のこのような側面をうまく抑えこみ、コントロールする方法を考え出すことが、何より重要だ。」(『ずる』11―12頁)

 

 アリエリーの不正防止の行動経済学のエッセンスは、「つじつま仮説」と呼ばれる。人間は、自分を正直で立派な人物だと思う「自我動機」を持つ一方で、ごまかしで利益を得て、できるだけ得をしたい「金銭的動機」を持つ。この矛盾する欲求のバランスをとる「認知的柔軟性」のおかげで、人間は自我的動機と金銭的動機を両立させている。

 例えば、ある実験で、実験協力者の半分に、用紙の最上部に署名をさせてから解答数を書かせた。残りの半分には、用紙の最後に署名をさせてから解答数を書かせた。その結果、用紙の最上部に署名させたグループには、ほとんど不正が見られなかった一方で、用紙の最後に署名させたグループには、多くの不正が見られた。別の実験では、実験協力者の半分に、十戒を思い出させて書かせた。残りの半分には、十冊の本の題名を思い出させて書かせた。その結果、十戒のグループには、不正が見られなかった一方で、十冊の本のグループには、いつもの不正が見られたという。

3 悪徳商法にひっかからない

 人間が感情に揺らぐ限定合理的な存在であり、つじつま合わせの中で不正を働く存在であるとしよう。人間の弱さに付け込もうとする悪い奴が必ず出てくる。消費者の認知バイアスに付け込んで、欲しくもない商品を売りつけようとするステルス・マーケティングも流行っている。

 情報の経済学や行動ファイナンスの先駆的研究でノーベル経済学賞を授与されたジョージ・アカロフ、ロバート・シラーが共著で、資本主義の不道徳な商慣行に警鐘を鳴らした書物が以下の著作である。

 

ジョージ・A・アカロフ(著)、ロバート・J・シラー(著)、山形浩生(訳)『不道徳な見えざる手』東洋経済新報社、2017年

(東洋経済新報社のサイトに移動します)

 

 以下、著作のエッセンスを抜粋しよう。

 

 「釣り(phish)という単語は、オックスフォード英語辞典によれば、ウェブが確立しはじめた1996年に登場したようだ。この辞典によれば、釣りの定義は﹁インターネット上で特に有名な企業のふりをしたりするような詐欺を行い、個人情報を得たりすること。だますことにより個人情報を『狙い』、オンライン詐欺を行うこと﹂だ。

(中略)

 私たちの定義では、カモ(Phool)は理由はどうあれ、うまいこと釣られてしまう人物だ。カモには二種類ある。心理的なカモと情報的なカモだ。心理的なカモもまた、さらに二種類に分かれる。一つは、心理的カモの感情が常識を蹴倒す場合だ。もう一つだと、認知バイアス(これは錯視のようなものだ)のせいで現実を誤解してしまい、その誤解に基づいて行動してしまう。前出のモリーは感情的カモの例だが、認知的カモではない。スロットマシンを前にした自分の状況については驚くほどしっかりとした自己認識があるのに、それでもやめられないのだ。」(『不道徳な見えざる手』10―11頁)

 

 行動経済学は使い方を間違えると、釣り師の「アボカド(腐った商品)」を売るステルス・マーケティングの道具となる。規制なき自由市場で、釣り師は情報を操作して、合理性の限られた消費者に誤った判断をさせる危険性がある。伝統的経済学では、健全業者が合理的消費者に商品やサービスを提供するケースを扱ってきた。確かに、このケースでは、市場では見えざる手が機能し、効率的資源配分が実現するだろう。しかし、悪徳業者(釣り師)が限定合理的消費者(カモ)に商品やサービスを提供するケースはどうなるだろう。もはや、見えざる手は有効に作用せず、効率的資源配分は実現しなくなる。

4 行動経済学の功罪

 人間の限定合理性を体系的に追求する行動経済学が幅広く知れ渡ることによって、悪徳業者がステルス・マーケティングの悪の網を巧みに張り巡らせるのではないかという懸念が聞こえてくる。もっともな心配であると言って良い。しかし、私は答える。本当の悪者は、どんな悪事を働いた夜でも、良心の呵責なくぐっすり眠れる人間だ。彼らは、何をどうすれば人間を騙すことができるのかについて、学校で習うようなことはしない。天性の直感で、それを嗅ぎ取るだけだ。したがって、彼らは行動経済学のあるなし関係なく、既にそのエッセンスを知り尽くしている。

 しかし、平凡な消費者はそうではない。彼らは自分の弱みについて無自覚であり、親切顔の悪徳業者が自分を騙そうと近づいてくることにも気づかない。このような哀れな子羊を守るための消費者保護と消費者教育のためにこそ、行動経済学が必要である。自動車運転試験場で、生々しい事故現場の写真をスクリーンに映して、運転者教育の教材とするように、釣り師がどのようにカモを騙すのかという教材が必要である。

 各国政府も、腰を上げて、行動経済学を用いた消費者教育に乗り出している。有名なのは英国だ。2010年5月に発足したキャメロン政権は、リチャード・セイラー氏の協力を得て、内閣府の下に「行動洞察チーム(ナッジ・ユニット)」を組織した。米国でも同時期に、キャス・サンスティーン氏が支援する同様のチームがホワイトハウスに発足した。日本では環境省が日本版ナッジ・ユニットを立ち上げており、家庭で省エネ・節電が進むよう誘導する計画だ。消費者庁も、徳島市に消費者行政新未来創造オフィスを設置し、行動経済学の知見を活かした消費者教育などを展開する方針だ。

 例えば、2018年から、消費者庁は、行動経済学を利用した食と健康に関する社会実験も開始している。健康・食品の消費者教育・情報提供を様々な方法で実施し、消費者リテラシーが向上するかを見る。正しい健康に対する知識を情報として与えながら、現実の体重と理想体重の差について達成度に関するリマインダーを与える。こうした取り組みはあくまで一例だが、2017年のセイラーのノーベル経済学賞受賞で、こうした行動経済学ブームはますます盛り上がる可能性があろう。今後に期待したい取り組みである。

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