自著を語る
『ドイツ法入門』第9版の刊行に寄せて
大阪市立大学法学部教授 守矢健一〔Moriya Kenichi〕
村上淳一とマルチュケの共著『西ドイツ法入門』が世にあらわれたのは1988年である。思いがけないドイツ統一のあと、本書は1991年に、『ドイツ法入門』とタイトルを新たにして、しかし「改訂版」として公刊される。村上からバトンをわたされ、わたしは第6版から改版に携わってきた。村上は2017年10月24日に世を去る。2018年5月に、マルチュケとわたしは第9版を刊行した。
『西ドイツ法入門』初版のはしがき(第9版にも収録)には次のように記されている。「字引的に詳細な教科書ではなく一気に読み通せるほどの分量で、西ドイツ法の全分野を概観する入門書を、というのがこの本の執筆意図である」。ドイツ法は第二次大戦前ほどには日本法に大きな影響を与えていないがなお、「日本法の骨組みと論理はドイツ法に依存するところが大きい。しかし……日本法と西ドイツ法の間には、実はさまざまの相違がある。基本的な類似にもかかわらず多くの違いがあるからこそ、日本法を学ぶ者にとって、西ドイツ法の概観から得られる示唆は少なくないと思われる」。さらに、法律学生だけでなく「ビジネスマンをはじめさまざまの実務家」に、「新聞ひとつ読むにも法律の知識が欠かせない西ドイツのお国柄からして」「必要最小限度の概観を提供しようというのも、この本のひとつのねらいである」。
改訂にあたっても、こうした本書の基本的性格は維持すべきと考えてきた。それでも少しずつ叙述の嵩は増す。『西ドイツ法入門』(1988)は234頁だった。ドイツ統一という大きな政治的事件を踏まえて改訂のみならず書名変更が不可避となった『ドイツ法入門』初版は248頁。以下、第2版(1994)は248頁(なおこの版の校正は、在独中の村上に代わって和仁陽が引き受けた)、第3版(1997)は262頁、第4版(2000)も262頁、第5版(2002)は274頁、第6版(2005)は302頁、第7版(2008)は330頁、第8版(2012)は348頁。今回の第9版は374頁にまで膨らんだ。とくに、わたしが改訂を引き受けて以来、頁数の増加の程度が著しい。
もとより本書は法学教科書であって、「法律の教科書の生命が内容の鮮度にあることは、当然である」(1)。本書の構造を尊重しながら、制度改正を叙述に反映させること。但し、改正された制度の意味を政府の見解をなぞって紹介するだけでは十分でない。改正に至った経緯、それに反対する人々の見解をも、伝えること。さらに法制度の単なる改正のみならず、新たな制度も構築された。日本人が見落としがちな新たな動向を、丹念に知らせたのはもちろんマルチュケである。20年ほど前には予想し難かったが、現在では、ときに大衆迎合的極右政党とも揶揄される「ドイツのための対案(AfD)」のような政党が民主的手続を経て勢力を伸ばした。連邦主義についても、大きな変更があった。もともと連邦と州の関係は錯雑としているが、そこにヨーロッパ化のインパクトも考慮せねばならなくなった。社会保障制度の展開は複雑なうえに目まぐるしいため概観が得られにくい。民法においても同性婚がかなり定着し、それとともに困難な(避けて通るべきでない)問題も生まれている。グローバル化の進展はもちろん資本市場法において最も深く影響を与えているが、しかしそのことが直ちにドイツの伝統的な法制度の完全な解消をもたらしはしない。ヨーロッパ連合の展開もイギリスの離脱表明によって、また難民の劇的な流入によって挑戦を受ける。改訂を要求する要因は以上のほかにもさまざまにある。多少の増量は避け難かった。これでも、マルチュケによる叙述改訂提案のかなりの部分は、守矢の手によって、相当圧縮されたし、不採用とせざるを得なかったのである。
どうすれば、「字引的に詳細な教科書ではなく一気に読み通せるほどの分量」に留めることができるか。この要請はおざなりのものではない。村上は、オト・ブルンナー(Otto Brunner, 1898-1982)の国制史Verfassungsgeschichteの手法に大きな刺激を受けて、総体的な国制史との関連において法を捉える手法によって、ヨーロッパの近代法の諸特質を明らかにした上で、現代法の基本的特徴を構造的に捉えようとして已まなかった(2)。全体像の知的構築なしには、全体像を巡る流布版のイメージの繁茂の前に、分化した専門知は無力である。本書でも、第5版までの随所に、村上は、ドイツ法の、法領域を横断する特徴を描き出してきており、学生時代に読者だったわたしには、そういう行を読むことは本書を読むたのしみだった。但し、グローバル化とヨーロッパ化とにより、また通信技術の驚異的な革新もあり、この20年近くは、ドイツ法はその《ドイツ的》特質を相当に失った。それでも本書の基調とでもいうものを出すことはできないか。これが改訂を引き受けたわたしの担った課題である。
明治維新以来の日本においては、近代諸法典が、植民地化の危機を回避し、「条約改正という国是実現の手段として」(3)、西洋法システムの包括的な継受という方法により、編纂された。爾来、日本の法には新品の匂いがするが、それは、その都度の政策実現の道具として法が理解されてきたからである。民法の歴史さえ、法典編纂を以てスタートする。石井紫郎の鋭利な表現によれば、「日本の私権は最初から国家の枠の中にとじこめられていた」(4)。かくて、国策の帰結として生まれたさまざまの法領域の相互に法内在的な関連は乏しく、さまざまの法領域はいわば偶然的に併存する。法の論理的透徹は、精々、ある特定の法領域の内部で模索されるが、法領域相互の関係を規律する法的論理は、殆ど構築されない。専門領域の内部で、邪魔にならない優秀さを備えた学者が生み出されていった。
これに対して、ヨーロッパでは、法には歴史がつきものだ。12世紀中葉のイタリアで、ローマ法が講ぜられ、またグラーティアーヌスによる教令集を基にした教会法が講ぜられるに至って、今日に続く法の基礎が確立される。こんにちわれわれが空気のように用いる「実定法ius positivum」という概念さえ、ギリシア哲学(特にアリストテレース『政治学』)の継受を経由して、12世紀後半以降に漸く、「自然法ius naturale」の傍らに、フランス教会法において、次いでボローニャでも、定着する。ここに初めて、人為による可変的法秩序のイメージの兆しが生ずる。12世紀中葉は、歴史学的に見れば、中世であろう。人文主義は中世を攻撃した。しかし人文主義は攻撃対象としてむしろ中世を要求した。かれらにとって中世とはこれまでの現実そのものだったのである。そこから自らを切断するために古典古代を召喚する。ローマ法が古典古代の産物であることが、ここで漸く自覚される。それとともに、自国の法という意識も芽生える。聖書すら、解釈のバラストから解き放たれて、批判的校訂の対象となってゆく。
ドイツにおいては、神聖ローマ帝国と各ラントとのあいだに、またラント相互に、宗派的政治的対立があり、その潜在的抗争を顕在化しないためにも帝国公法学が構想され、爾来、政治問題がしばしば法的表現を採る。ヨーロッパ全体に視野を広げても、立法活動が活発になるのは近世以降であり、しかも立法はしばしば司法実務の抵抗を受ける。19世紀初頭に神聖ローマ帝国が潰えたあと、公法ないし政治とは意識的に切り離された民事法の体系が構想され、その洗練された概念的体系によって政治の側からの影響に抵抗した。その民事法学の洗練を有効利用した者たちが、19世紀後半に、《法学的方法》を駆使して、政治も歴史も経済も排除した、公法学体系を構想する。これは、自由主義が決して定着しなかった、しかも国家的統一をなかなかなし得なかった19世紀ドイツ社会において、ひとつの有効な、法的表現に身を窶した、ナショナルな自由主義の戦略だった。
もとより法的学知が秩序のすべてを統御し得たはずはない。19世紀の末から20世紀にかけて数多くの現代的法現象が、実務の要請に促されるようにして姿をあらわす。社会保障に関係するさまざまの個別法、民法から独立して発展していく労働法、民法の特別法としての割賦販売規制、不正競争防止法、といった、現代的な性質を具備する個別法が、19世紀末よりあらわれてくる。こうした法領域の展開には、実は第一次大戦が、相当に深く衝撃を与えている。ヴァイマル憲法の理解のためにも、この憲法がヴェルサイユ条約締結と同年に誕生したことに注意することが存外重要である。ヨーロッパは疲弊した。アメリカの政治を含む文化がドイツにも流入した。そして知識人の一部はそれに密かに激しく反発した。その間隙を衝いて、《ゲルマン的》なNSDAPが政権を《民主的に》奪取する。社会保障法が学問的な一体性を多少なりとも獲得するのは、戦後に入ってしばらく経ってのことである。
民法なり行政法なり労働法なり、といった法領域の区分けが脱歴史的に存在したわけはない。ローマ法とか教会法といった法源に基づく区別が、中世から近世にかけてながく続いた。民事実体法が訴訟法から区別されたのもそう遠い昔のことではない。歴史的に、その都度の政治的経済的要請に応じたり反撥したりしながら、各々の法領域は形成されてきた。ヨーロッパにおいて、裁判所もながいこと国営ではなかった。国家による裁判所の確立は、裁判官が法に従うことによって上司の命令から独立している、という観念の貫徹と連動している。
『ドイツ法入門』の最近の版では、わたしは、さまざまの法領域の系譜学的叙述を試み、以て各法領域の関係を多少なりとも明らかにしようとした。法も全体社会との関係において展開し、法システム内部においても、各法領域は相互に牽連し、あるいは対位法的な関係に立ち、あるいは緊張関係を孕み、かくて、複雑な法システムが機能し、あるいは機能不全に陥る。そのさまを点描し、法の「必要最小限度の概観」を試みてみた。
法を概観するには、直観が欠かせない。そして直観に依拠することは、場合によっては、学問の放棄を帰結するわけではなく、むしろ知的営為の始原へ想いを馳せることでもあり得る。トロイアー戦争の細部をわれわれは知らないが、その細部をよく知っていたはずのホメーロスが、王たるアガメムノーンではなくアキレウスの怒りを、トロイアー戦争の全体から切り取って、歌う『イリアス』を、知っている。アキレウスは、やがて死ぬだろう。21世紀の、書かれた文字からなる情報の洪水に溺れそうになるわたしには、ホメーロスと、ホメーロスの歌に耳を傾けたギリシア人の強靭な叡智こそが、惜しまれる。
(1)村上淳一「教科書の賞味期限――『ドイツ法入門』の場合」書斎の窓513号(2002)、6–10頁所収、6頁。
(2)村上淳一『近代法の形成』(1979)、同『仮想の近代――西洋的理性とポストモダン』(1992)、同『システムと自己観察――フィクションとしての〈法〉』(2002)、など。
(3)石井紫郎『日本国制史研究Ⅱ 日本人の国家生活』(1986)、341頁。それを活写する優れた業績として、藤原明久『日本条約改正史の研究――井上・大隅の改正交渉と欧米列国』(2004)。
(4)石井・前掲註(3)342頁。