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連載

ベルリンで考える政治思想・政治哲学の「いま」

第2回 メルケル首相を考える

東京大学社会科学研究所教授 宇野重規〔Uno Shigeki〕

 ドイツのメルケル首相はどうなってしまったのか。あるいは、そうお思いの方も少なくないのではないか。

 つい先日の報道も、メルケル内閣の前途に大きく暗雲を投げかけるものであった。かねてよりメルケル首相の移民受け入れ政策に不満をもっていたゼーホーファー内相が、辞任を示唆したのである。ゼーホーファー内相は、与党キリスト教民主同盟(CDU)が連立を組むキリスト教社会同盟(CSU)の党首でもある。すわ連立内閣の崩壊かという報道は、ドイツのみならず、世界を震撼させたと言えるだろう。

 背景にあるのは、言うまでもなく反移民を掲げる極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD)の台頭である。バイエルン州を地盤とするCSUは、今秋にも予定される地方選挙を前にAfDの攻勢にさらされている。もともと保守的なCSUの党首である内相は、もしメルケル首相がEUとの間で有効な移民政策をまとめられないなら、ドイツ国境で難民申請者を追い返すと口にしたのである。

 結局、メルケル首相はゼーホーファー内相の辞任を思いとどまらせ、内閣崩壊の危機を回避することに成功した。とはいえ、その代償として、ドイツの国境管理強化を約束し、内相に「譲歩」する形となった。今後、もう一つの連立与党である社会民主党(SPD)との対応を含め、メルケル政権の前には依然として不透明さが残っている。あるいは、この稿が公開されるまでの間に、さらなる波乱が起きる可能性も否定できない。

 このような一連の騒ぎを見て、日本の読者のなかにはメルケル首相の「変節」を感じる人もいるだろう。これまで人道的な視点から寛大な移民政策を進めてきたと言われるメルケル首相である。さすがの彼女も足元からの不満の爆発に対し、ついに大きくその理想を後退させることになったのか。そう受け止める人がいてもおかしくない。

 しかしながら、はたしてそのような理解は正しいのだろうか。そして、「アメリカ・ファースト」を掲げるトランプ大統領に対して、あたかも「世界の良識」を代表しているかに見えたメルケル首相も、政界から消え去る日が近づいているのだろうか。

 ちなみにドイツに来てから、同僚や学生とおしゃべりをするとき、意図的にメルケル首相の評価を訊くようにしている。もちろん、大学、それもリベラル系の大学の周辺である。けっしてドイツの一般的なサンプルとは言えないだろうが、概して批判的なコメントが多かった(社会民主党〔SPD〕の低迷を嘆く声も多かった)。メルケル首相は、理念の政治家というよりはあくまで現実的で、「プラグマティック」な政治家である。状況次第では、コロリとそれまでの政策を転換してしまうことも珍しくない。そのニュアンスは、柔軟性に富むというよりは、変わり身が早いという批判に聞こえた。

 メルケル首相といえば、旧東独の出身であることで知られている。プロテスタントの牧師の家庭に生まれた彼女は、今でもどこか生真面目で質素、堅実という印象がある。1989年のベルリンの壁の崩壊まで物理学の研究者として暮らしてきたこともあり、政界に入ったのは他の政治家と比べてもきわめて遅い。もし東独の社会主義体制が続いていたならば、今も科学アカデミーでコツコツと研究をしていてもおかしくない。服装や髪型にも関心がなく、政界で彼女を引き立てたコール元首相もさすがにあきれ、「メルケルさんに、もう少しマシな格好をさせなさい」と部下に命じて、一緒に服を買いに行かせたというエピソードがよく知られている。

 ベルリンの壁崩壊後、「民主的出発(DA)」という小政党に参加し、この党がのちにキリスト教民主同盟にCDUに合流したことから彼女の運命は変わっていく。すでに触れたように、東西ドイツ統一で歴史に名を残したコール首相の目にとまった彼女は(コールは旧東独出身の女性政治家を意図的に起用しようとした)、その後、あれよあれよという間に政界を駆け上っていく。やがてCDU幹事長、さらに党首となった彼女は、連邦議員に初当選してからわずか15年で、女性として、また旧東独出身者として初のドイツ連邦首相になったのである。

 なぜそのようなことが可能になったのであろうか。正直なところ、あまりカリスマ性のある政治家ではない。演説がとくに巧みというわけではないし、人目を引きつける際立った言動をするわけでもない。あくまで地味で堅実、本人もパフォーマンスは好きでないようだ。ものごとの本質を理解する能力が高く、政策についても熱心に勉強すると言われているが、それだけで海千山千の政界を泳ぎ切れるとは思えない。

 しばしば指摘されるのが、メルケルが政治において機を見るに敏で、実力のありかを鋭く嗅ぎ分ける能力を持っているということだ。言い換えるといわゆる「マキャヴェリスト」であり、ときに冷淡とも言える決断もあえて辞さないのが彼女の本質だという。たしかに政界において引き立ててくれたコール首相が汚職疑惑にまみれたときも、メルケルは敢然と彼を政界引退へと追い込んでいる。旧東独出身ということもあり、つねに人との距離を慎重に図っている印象のある彼女は、利用できる人物は利用し、できなくなれば距離を取り、さらには切るという点で揺らぎがない。

 だが、それだけであろうか。それだけでメルケルは今日の地位を獲得したのだろうか。今ひとつ納得できないまま、それでも彼女への関心を持ちながらここまで来た。

 ここのところ、日本で出たメルケルについての本を何冊か目を通す機会があった。いずれも練達のジャーナリストによる本であり内容は堅実であったが、しばしばタイトルには「女帝」といった言葉が使われ、大国ドイツによる脅威をことさらに煽るものが目立った。このあたりも、日本人にとってのメルケルの不透明感の一因がありそうである。

 しかしながら、これらの本が共通して着目しているのが、メルケルが危機を通じてむしろ政治的に成長している点である。その最たるものがユーロ危機であろう。財政破綻に瀕したギリシアに対して強く財政規律を求めた結果、メルケルは大国の傲慢と非情を激しく批判された。その一方、なぜ自分たちが他国の尻拭いをしなければならないのかというドイツ人の不満に悩まされたのもメルケルである。結果としてはユーロの破綻を回避すると同時に、ドイツ国内の支持をむしろ定着させたメルケルの手腕は注目に値するだろう。

 原子力政策も同様であり、原発推進を掲げるドイツ国内の財界と、原子力に対して恐怖感を持つ国民感情の間に立って、メルケルは自らの政策の根本的な転換を辞さなかった。この転換の歴史的評価にはまだ時間がかかるが、少なくともメルケルがこれらの危機を通じて、次第に安定感のある政治家として認められていったことは間違いない。しばしば選挙での苦戦ぶりを伝えられるメルケルであるが、結果としてみれば、実に4回の総選挙で続けて第一党の座を死守したことの意味は大きい。

 やや古くなるが、ドイツのジャーナリストであるラルフ・ボルマンの著作が興味深い(邦訳題名は『強い国家の作り方――欧州に君臨する女帝 メルケルの世界戦略』、村瀬民子訳、ビジネス社、2014年)。ボルマンはメルケルを「外国人のような首相」と呼ぶ。旧東独出身のメルケルは、その弱さを含めドイツ人の思いをよく観察している。自分には事実と思えることも、ドイツ人には飲み込みやすいところから時間をかけて受け入れさせていく。結果として度重なる連立の組み替えにもかかわらず、メルケルは次第に国民に愛される首相になっていった。

 「メルケルの持つプロテスタント的な実務性と諦念は、ドイツ人の心奥深くに訴えかける」「ドイツ人にとってメルケルは、とりわけユーロ危機以降、唯一の思慮深く理性的な人間であり、ここでは自他ともに心が調和するようである」「ヨーロッパの最重要国であるドイツが、危機の中でも落ち着いて行動し、ヨーロッパ連合という偉大な理想を秘めつつ決してあきらめない、細やかなステップを踏む政治であり、これがメルケルのヨーロッパ政策の成果である」。

 これらの評価が正しいのか、まだわからない。が、ある意味で、メルケルは真の意味で「プラグマティズム」の政治家なのではないか、というのが筆者の現在の見解である。

 プラグマティズムとは、この言葉がアメリカで生まれて来た経緯からもわかるように、けっして単なる実用主義や実際主義ではない。結果が良ければすべて良いというような安易な思想とはほど遠く、むしろ人間が弱く誤りやすいこと、未来を容易には予想できないことを重視する思想である。

 人は理念や理想を持ちながら、それが現実社会でいかなる帰結をもたらすかわからない以上、つねに謙虚でなければならない。自分が間違えている可能性を前提に、実験を繰り返しつつ、少しずつ進んでいくしか道はないのである。ある意味で「見通しの悪い時代」にあって、それでも前に進むことをあきらめない思想がプラグマティズムである(拙著『民主主義のつくり方』、筑摩選書、2013年を参照)。

 おそらくメルケルはユーロ政策にせよ、移民政策にせよ、原子力政策にせよ、迷いつつ議論を前に進めて行こうとしている。インテリには受けが悪いものの、全般的には明らかにリベラルな志向を持っている。ただし、その進め方はいかにもプラグマティズム的であり、前進と後退を繰り返しながら、少しずつ前へとにじり寄ろうとする。

 そんなメルケル政権が今後ももつかわからない。とはいえ、そのようなメルケルが現在のヨーロッパを支える一つの柱であることは間違いない。不安定な世界をかろうじて支える「メルケル的なもの」の行方を見守っていきたい。

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