連載
市場ゲームと福祉ゲーム
第4回 救済という非合理
東洋大学ライフデザイン学部教授 稲沢公一〔Inazawa Koichi〕
「生ける自然」という無限を「一」として捉えたパルメニデス。自然万物を「神」として捉えたスピノザ。いずれも、現実すべて(A)を一つの「何か」(フィクション=非A)として捉えようとした。すなわち、そこには、「A=非A」という超論理を作動させようとする試みがあった。
もちろん、この超論理は、同一律「A=A」をはじめとする形式論理とは真っ向から対立する。すなわち、完全な非合理にほかならない。だが、人は、合理だけを生きているわけではない。おそらく、人は、非合理を生きる。あるいは、人の生そのものがそもそも合理的であるとは言い切れないのかもしれない。
たとえば、私たちが営む福祉ゲームのルール「A→非A」もまた非合理的なものであるが、このゲームでのみ、市場ゲームの「A→A+α」に何ら参加できなくても、そのままで受け入れられる。人は、その生の根底に合理的ではない何かを必要としている。
そして、古代の人々は、このことを直感的に知り抜いていた。少なくとも、キリストを通じて神の救いを求めた人たちにおいては。
1 創造主としての神
この現実世界は、なぜこのようにあるのか、という問いを立てることができる。これは、「どのように」という由来を問うものであって、この世界とは何かという問いとは次元を異にする。そして、その回答の一つが、この世界は丸ごと何かによって創り出されたとすることであった。そのとき、創造主としての神が招来された。
この神は、「すべて」を創造したのであるから、端的に「すべて」の外にいることになる。すなわち、「すべて」を超越した神と位置づけられる。
また、このとき「すべて」は神なしにはありえないが、神は「すべて」に何ら依拠していない。したがって、素朴に考えても、神>「すべて」といった不等式が成り立つ。この不等式は、神と「すべて」との間に厳然とした落差があることを示している。そのため、「すべて」の側で落差を実感しなければならない被造物としての人間は、「罪」の意識をもち、逆に、人間の側から見上げられた神は、裁きの神になる。
たとえば、創造主としての神を崇めるイスラームは、この不等式の維持を使命としているため、「神は絶対専制君主、絶対的支配者、奴隷の支配者、人間を私有財産として自由に処理するもの、そして、人間のほうはそれにひたすら奴隷的に仕えまつるもの。神にたいする人間のこの関係、それがイスラーム的信仰の本来的なあり方」(井筒俊彦『「コーラン」を読む』)ということになる。そこでは、神と人々との間に、いかなる意味でも等号を差しはさむことは許されない。
そのため、初期スーフィズム最高の神秘家で、神秘体験に基づいて「我・即・真実在」、すなわち「我は神なり」と公言したハッラージュに対しては、まさに神と人とを等号で結んだ罪により、相当残酷な方法で処刑が行われた後、遺体は火中に投じられ、灰は河に捨てられるという徹底した処分が行われたとされている(アッタール『イスラーム神秘主義聖者列伝』)。
2 赦しの神
また、創造主である超越神という捉え方からすると、前回のスピノザがいかに異端であったかがわかる。彼は、神>「すべて」という不等式を神=「すべて」(「神即自然」)という等式に変換してしまった。それによって神と「すべて」との間にあった落差は解消され、人間は罪の意識をもつ必要もなくなり、裁きの神もいなくなった。
こうした神との等式は、キリスト教の伝統とは異なっていたので、周囲の人々は戸惑いを隠せず、スピノザと親しい人の中には、手紙を書いて、「神と自然についてまぎらわしい表現で述べられている」とか「この両者を混同しておられる」と忠告する者もいた(畠中尚史訳『スピノザ往復書簡集』書簡71)。
スピノザも、自説がキリスト教の見解と異なることをはっきり自覚しており、返信には、「私は敢えて、いっさいが神の中に生き神の中に動いていると主張しています」(書簡73)とまで断言している。
この返事を受け取った知人は、さらに手紙を書き、すべてが神の必然であるといってしまえば、宗教の役割が失われ、報償と刑罰の効力が失われることになり、結果的には、「人間は神の力の中に在るからこそ完全に許され得るのだ」ということになってしまうではないかと再び疑問を投げかけた(書簡77)。
それに対する返信の中で、スピノザは、「私も神が怒ることがないこと、いっさいは神の決定に従って生ずることを全く容認します」と述べるだけでなく、聖書に神が罪人に対して怒るとか、神が人間の行動を裁く主であるとかと書かれているのは、「人間的言い方に従い民衆の伝来的見解に順応して語っている」にすぎないと切り捨てた(書簡78)。
スピノザの神は、創造主ではないだけでなく、裁きを行う主でもなく、ただこの自然そのものであり、すべてをそのまま受け入れる赦しの神なのであった。
3 愛の神
素朴に考えれば当たり前ともいえる、この創造主>被造物といった不等式に対して、古代のキリスト教正統派は、これを何とか崩そうとした。というのも、この不等式では、一つの世界観や思想としては有効かもしれないが、少なくとも人々を救済するための宗教としては、やさしさに、もっといえば、愛に欠けると考えられたからである。
神>人間の不等式では、イスラームでも見たように、神と人間とが隔絶しており、神からの人間に対する救済を位置づけることができない。そのため、救いの手がのびてくるはずの通路を確保するためには、神と人との間に、何らかの形で等号を忍び込ませなければならない。
そこで、古代において重視された教義が、三位一体論であった。三位一体とは、まさに父なる神と子なるキリスト、そして聖霊との「三」が「一」であるという教義なのだが、たしかに、「三=一」などという等式を合理的に説明することなどできるはずもなかった。
そのため、4世紀頃には、子なるキリストは、「生まれた者」なのだから、父なる神と一つではありえないという理にかなった考え方が広まっていった。あるいは、三位の違いを機能や属性などで説明することも試みられた。
しかし、正統派がこうした明快で合理的な教義を採用することは決してなかった。というのも、こうした理知的な考え方では、やはり神>キリストになってしまうため、神との間に救済の通路を確保する手掛かりが失われてしまうからであった。
さまざまな教義論争が行われ、最終的には、「実体において一つであり、位格において三つである」という表現に落ち着いた。ここにおいて、父は「生まれないもの」、子は「(父より)生まれるもの」、聖霊は「(父より)発出するもの」というそれぞれの位格において異なるけれども、実体においては一つであると説明されることとなった。
もちろん、何の論証にもなっていないのであるが、にもかかわらず、この非合理のみを正統とし、あらゆる合理的な説は、異端として排斥された。
4 救いの神
こうした三位一体論は、ギリシャ語で書かれた公式の信仰告白(ニカイア・コンスタンティノポリス信条381年)に盛り込まれることになったのだが、その文章をラテン語に翻訳する際に、訳し変えが行われた。聖霊について、ギリシャ語の「父より出て」が、ラテン語では「父と子より出て」に変更された。
というのも、ラテン教父のアウグスティヌスによると、「もし御子が持つすべてのものを御父から受けるなら、聖霊が御子から発出するということも御父から受けられたのである」(『三位一体論』)ということになるからであった。
いずれも神が三位一体であることには変わりないのだが、聖霊に関するこの思想的位置づけの相違が、結局、西方キリスト教と東方キリスト教とを分断させる起点になる。
この三位一体論は、絶対者である神からの救済に通路を確保するべく採用された教義であり、もともと合理的な説明を受け付けるようなものではなかった。だからこそ逆に、この論は、直感的なイメージとして超論理「A=非A」で書き表すことができる。
ここで、ギリシャ教父とラテン教父の相違を考慮に入れると、ギリシャ教父たちは、父を統一原理と考えており、子も聖霊も「父より」生まれたり発出したりするので、この等式でいうと、父が「=」、子が「A」、聖霊が「非A」になる。あくまでも父が子と聖霊とをつなげているイメージである。
それに対して、ラテン教父たちは、「父と子より」聖霊が出てくると位置づけたから、聖霊が父と子をつなげる立場になる。したがって、等式でいうと、父が「A」、子が「非A」、聖霊が「=」になる。
そうすると、たしかに、ラテン教父たちの三位一体論にしたがえば、そのまま聖霊を介して「父なる神=子なるキリスト」という直接的な等式が成り立つことになるので、救済を重視するという意味では、画期的な考え方であったということができる。
5 「ビネガーの滴」
三位一体論が完成した後の教義論争は、いよいよ本格的にキリスト論へと移る。というのも、「教義論争時代のすべての争いは、『イエス・キリストとはなにものか』というただ一つの問いをめぐっている」(坂口ふみ『〈個〉の誕生』)からである。
そこでは、キリストは神なのか人なのかといったことが議論された。三位一体論からすれば、キリストは神と一つであるから、完全に神である。しかし、磔刑による苦しみの中で死を迎えたということを厳然たる事実とするために、彼は完全に人でなければならなかった。そうでなければ、受難による贖罪が成り立たたず、贖罪なしには恩寵もまた望みえないからである。神論より現実的であるだけに、三位一体論をもはるかに超える難問であった。
最終的に、キリストは、二つの「本性」、すなわち、人の本性と神の本性を混ずることなく変化することなく分裂することなく共存している一つの個体と規定された(カルケドン信条451年)。
つまり、「神=キリスト(=イエス)=人」の等式を採用したわけである。もちろん、さすがに、そこから「神=人」の結論を導き出すようなことはしなかったにせよ、とはいえ、こうした教義の整理によって、少なくとも最終的には、「神≧人」という等号を含んだ不等式を得ることができた。
それによって、一方では、神の絶対性や超越性をそのままにしつつも、キリストの十字架を通じて、そんな神が被造物である人間を救済するという通路をかろうじて確保したといえる。
ただし、「神≧人」の含まれる「等号」は、記号としては、大きく目につくものだが、キリストは、処刑3日後の「復活」によって「神」性に覆い尽くされることになったため、キリストにおける「人」性については、ニュッサのグレゴリウスが用いた表現を借りれば、「無限の大海(キリストの神性)に混ざったビネガーの滴(キリストの人性)」(アンソニー・メレディス〔津田謙治訳〕『カッパドキア教父』、括弧内引用者)にすぎないこととなった。
このように、当時から神と人との間の等号は、限りなく細く薄いものと考えられていた。しかし、たとえ大海に一滴であったとしても、そこに人性が含まれている限り、神からの救いが人々に届く通路が確保されたと考えられていたため、それがいかに非合理であったとしても、「父なる神=子なるキリスト=聖霊」と「神=キリスト=イエス=人」といった超論理「A=非A」が全力を賭けて死守されたのであった。
6 合理に呑まれて
とはいえ、こうした非合理が必死に守られたのは、教父たちの時代までであった。その後は、合理化が進展していく。
たとえば、13世紀のトマス・アクィナスは、30歳代で執筆したと推定されている『神秘と学知――ボエティウス「三位一体論」に寄せて』において、神の三位一体性に対する認識の可能性を問い、「神が三であり一であることは、ただ信じられるものであり、それはいかなる仕方でも論証的に証明されることはできない」と結論づけた(第1問題第4項)。こうした態度は『神学大全』でも堅持され、「自然的理性によって神のペルソナの三たることの認識に到達することはできない」と断言されている(第1部第32問題第1項)。
また、ジェイムズの報告によると、16世紀スペインの神秘家である聖女テレサは、「私たちの主は、一位の神がどうして三位でありうるかを、私に理解できるようにして下さった」と述べているが、三位一体は「最高の恍惚状態において」のみ理解されるものであり、「悟性が把握するとは信じない」とまで言い切っているという(ウィリアム・ジェームス〔桝田啓三郎訳〕『宗教的経験の諸相』)。
さらに時代が下って、ヘーゲルになると、三位一体的な神は、古代人たちの「恍惚」の中にのみ存在した「秘儀」と揶揄され、父と子と精霊との関係は、「幼稚な関係」であって、「三位一体的なものとしての神の規定は、哲学にとってはついに全く消失してしまったものである。神学においてはそれはもはや真剣な問題ではない」とまで断じられるようになる(『宗教哲学』)。
人々は、非合理をそのままに受け入れる感性を、教父の時代をピークとして摩耗させてしまった。
7 そして「神は死んだ」
教父たちの主導によって繰り返し行われてきた教義論争の結果、三位一体論やキリストは神性と人性を持つとする両性説が正統として認められることになった。ただし、このように「論争によって認められた」ということは、そもそもいかなる捉え方や説明もそれ自体が真実であるとか正しいというわけではなかった、ということを意味している。
とはいえ、ここで重要なのは、教父たちが理を尽くしてルールの核心に非合理を埋め込んだことである。たとえ創造主としての神がいたとしても、さらに、そんな神が人間一人ひとりを救ってくれるとしても、そのような救いは、それこそ非合理そのものであって、そもそも論証することなどできるはずもない。すなわち、神による救済、それ自体が合理化することのできないゲームなのであった。
そして、そのことを知悉していた古代の教父たちにとって、だからこそ、神は、いかなる意味でも合理的であってはならなかった。それは、あくまでも非合理であり、非合理であるからこそ、救済というさらなる非合理をも、そこから発出させることができるとされた。
教父たちの抱く救済への強烈な渇望が、どれほどの非合理をも決して放擲させなかったのである。逆にいえば、教父以降に進展していった合理化は、救済を希求する人々の思いが急速に失われていったことと表裏であるといえる。いつしか人々は救いを信じられないようになり、それに応じて非合理に耐えられなくなっていった。
まさに「非合理としての神」は死んだのである。
これに対して、東洋は、「すべて」を創造する神を生み出すことなく、真逆に、「すべてはゼロである」と言い切るまでに至る。