書評
『解雇規制を問い直す――金銭解決の制度設計』
昭和女子大学グローバルビジネス学部長・特命教授 八代尚宏〔Yashiro Naohiro〕
1 法学と経済学の共同研究
本書は労働法と労働経済学の第一人者が編集した解雇の金銭解決問題について、国際比較も含めた、包括的な議論をまとめた大著である。解雇の金銭補償についての法理論的な論文は少なくないが、本書は金銭解決が実現した際の具体的なモデル補償金の水準も推計している等、実務面の課題にも踏み込んでいる点に大きな特徴がある。編者によれば、「解雇の金銭解決の導入で解雇が容易になる」という労働側の懸念や使用者側の期待はいずれも誤りである。解雇が容易になるか否かは、解雇の際の金銭補償の水準や、その支払い条件に依存するためで、具体的な金銭解決の仕組みの前提なしに、その是非を議論することは不毛なためである。
また、OECDが作成した解雇規制指標では、先進国の内で日本が相対的に解雇規制の弱い国に分類されており、そのひとつの要因が金銭補償の制度を欠いているためという指摘は興味深い。もっとも日本では、民事裁判に訴えられる労働者は判例法の厳しい解雇要件で守られるが、そうでない場合にはわずかの補償金で解雇されており、平均すれば緩い解雇規制という評価は不思議ではない。このギャップを埋めることが解雇の金銭解決ルールの主たる役割といえる。
本書で対象とする解雇規制は、労働法学と労働経済学との双方の論理が衝突する「法と経済学」の分野でもある。ここでは主要な論点について「法学の視点」と「経済学の視点」を書き分けている。これは法学部と経済学部の双方の学生にとって、労働市場の問題についての考え方の共通点と相違点を理解する上で有用であり、ゼミナールのテキストとしても活用できるであろう。
2 なぜ金銭解決ルールが必要か
期限の定めのない雇用契約において、経営者が一方的に非のない労働者を解雇する「不当解雇」については、「すべて無効」というのがこれまでの常識であった。従って、法的に無効と判断された解雇が「一定の補償金を支払えば可能になる」ことに対しては否定的な見方が強い。他方で労働審判等では、無効な解雇の場合でも「交渉による金銭解決」が主流である。また、民事裁判での解雇無効判決でも、本来の職場復帰ではなく、事後的な和解交渉を通じた事実上の金銭補償が活用されている場合が多い。
だから現状のままで良いという見方に対して、本書は現行の解雇権濫用法理が、労使双方にとっての「事前の予測可能性」の低さや、非正規社員等、裁判に訴えることが容易でない労働者との格差の大きさ等の問題点をあげている。このため欧州主要国のような解雇の金銭解決ルールを法律で明示化することが必要としており、その際に、解雇によって労働者が被る金銭的な不利益を、使用者が全て補償する「完全補償ルール」を提言している。
ここで本書は、差別や労働者の正当な権利行使への報復としての「許されざる解雇」と、経営上の理由、社員の規則違反、能力や適格性不足、技術革新の影響等にもとづく「許されうる解雇」を区別し、金銭解決は後者の場合に限定する。その上で、やむを得ない解雇理由でも裁判所が定めた基準では不十分とされる場合に、「法的に不当な解雇であればすべて無効」とするのではなく、解雇する企業に対して一定の「雇用終了コスト」を課すことで、その濫用を防ぐことを目的とする。
この場合の補償金の水準は、解雇された労働者のリスクを経営者が負う保険機能(リスクシェアリング)、経営者が労働者との長期の暗黙の契約を破ること(ホールドアップ)の防止等の観点では高い方が良い。他方で、補償金が多すぎることで企業間の最適な労働移動を妨げないことへの配慮も必要とされる。本書で示されたモデル補償金は、解雇された労働者が、本人の学歴や経験年数等に応じた平均的な企業に再就職すると想定する。その企業では勤続年数ゼロから始まるため、仮に解雇されず元の企業に定年まで勤務した場合に受け取れる賃金との差額が生じるが、その生涯賃金の低下分を完全に補償するという前提で推計される。これは使用者が労働者の不利益も考慮した上での解雇を行うことが効率的という論理にもとづいている。
もっともこの金額は「解雇補償金の上限」であり、仮に解雇事由について労働者の責任による部分があれば、それに応じて減額される。この解雇補償金の水準は、解雇時の勤続年数が長いほど高まるが、他方で年齢が高いほど転職先での定年までの勤続年数は短くなり、解雇補償が必要な期間も短縮化する。このため解雇補償金は、45歳前後でピークとなる逆U字型の形状となり、大企業男性の勤続20年のピーク時で38.6ヵ月分の賃金と、現行の会社都合退職金の水準をはるかに上回る額となる。
これは本書のいう解雇の金銭解決制度の導入の主たる目的は、事前の解雇コストの明確化であり、必ずしも「解雇規制の緩和とはならない」ことのひとつの根拠となる。他方で、年功賃金カーブの傾きが緩く、転職しても大きな賃金差のない小企業の場合の解雇補償金は、最大でも18.2ヵ月と半分以下であり、企業間や男女間の格差が大きい。これは交通事故等の補償金の算定の場合にも被害者の年収等で差がつくこと同様である。
それでも中小企業にとっては大きな負担となるため、これを補うために全額事業主負担による労災保険をモデルとした「解雇保険」の構想も示されてある。もっとも、労働基準監督署の指導と一体的な労災保険と比べて、解雇保険については、過去の解雇実績に応じたメリット制を活用しても、使用者側のモラルハザードのリスクが懸念される。
3 解雇の完全補償ルールの争点
解雇の金銭解決の問題は、長期雇用保障と年功賃金を軸とした日本型雇用慣行と密接な関係にある。この雇用慣行は、元々、過去の高い経済成長期に、企業が熟練労働者の離職を防ぐことを主たる目的に形成された。年功賃金カーブの勾配がきつい大企業ほど、労働者が自発的に退職すると大きな損失を被る生涯を通じた後払い賃金になっている。従って、逆に使用者が労働者を解雇する場合には、それに見合った高いコストを要することは当然といえる。本書は、研究会メンバーで十分に検討された精緻な論理に基づいているが、ここで必ずしも明確に論じられていない点について考えたい。
第1は、解雇の完全補償ルールの基本的な論理は、長期雇用保障と年功賃金を失う労働者の既得権への償いであり、経営者による安易な雇用終了コストを明示化するものという。論理的には、この補償金額は労働者が解雇された企業の賃金が高いほど、また転職先の賃金が低いほど大きくなる。他の企業が欲しがる優れた社員を解雇した場合の補償金は少なくなり、転職で賃金が高まればゼロの場合もある。しかし、個々の労働者の多様な仕事能力を生かせない企業から、それを活用できる企業に転職することは、本人だけでなく社会全体にとってプラスであり、むしろ奨励されるべきであろう。日本企業が自発的な離職者にも多額の退職金を支払っていることは、単に後払い賃金の補償だけでなく、こうした意味もあるのではないか。
第2は、再就職先の賃金は、どこの企業も欲しがらない社員の場合には低くなるため、解雇補償金は多くなる。極端な場合、どこにも就職できなかった場合には、現企業の定年退職時までの賃金総額と等しくなる。この点は、解雇原因発生への労働者の寄与の度合いで調整される建て前だが、「単なる企業への貢献不足は含まず、重大な職務怠慢や規律違反という懲戒解雇事由に限定されるべき」との指摘は余りにも限定的であり、やや疑問が残る。
これは仕事能力不足による解雇を、裁判所が使用者にも責任ありとして無効とする現行の判例にならったものであろう。しかし、人手不足が深刻化する中で、慢性的に仕事能力不足の社員を抱え込むことの負担は他の社員に課せられる。また、能力が不足すれば契約更新を打ち切られる非正社員比率が4割弱にも高まっているなかでは、雇用が保障される正規社員の責任もそれだけ重くなる必要がある。この完全補償ルールの評価は、適正な人事評価にもとづき、能力に見合った賃金決定の仕組みであることがカギとなる。
第3は、普通解雇と整理解雇の区別である。企業に資金的な余裕があり、対象者が限られる普通解雇の場合と異なり、正規社員の整理解雇に踏み込むのは、倒産で全員が職を失うリスクも考慮した上での最後の手段の場合が多い。企業が必要最小限の人員を解雇することで、残りの社員の雇用を守ろうとする時に、完全補償ルールを適用することは容易ではない。その際の解雇補償金の総額は、会社に残れる社員の賃金カットで賄える範囲にとどまるのが公平なルールではないだろうか。
最後に、本書では触れられていない定年退職制との関係である。先進国の多くでは「年齢による差別」として禁止されている定年制が、日本では問題とされていないのは、年功賃金だけでなく定年までの雇用保障がある。今後の高齢化社会で、仕事能力のばらつきがもっとも大きな高齢者層を十分に活用するためには、仕事能力の差にかかわらず画一的に解雇する定年制が大きな弊害となる。仕事能力の評価が容易なジョブ型の働き方を主流とするとともに、それに適応できない社員について合理的な解雇の補償金の対象とすることが、現行の悪平等の定年退職制を是正するための第一歩となろう。
個々の企業内での多様な社員の需要と供給にはミスマッチは避けられない。そのために(希望退職を含む)労働者の自発的な移動で対応できない場合の手段が、解雇という形での雇用終了である。経営者の安易な解雇を防ぐためには、完全補償ルールは有効な手段といえる。
他方で、いったん大企業に採用されれば、仕事能力の不足を理由に解雇されたとしても、結果的に定年退職時までの生涯賃金が保証される点については、低賃金の中小企業や非正規で働く労働者との公平性の観点から疑問が残る。とくにこの解雇補償金を、すでに幅広く定着している企業の会社都合退職金への上乗せと考えるとすればなおさらである。むしろ、現行の法的な拘束力のない退職金を、そうした仕組みをもたない中小企業等についても義務付ける際の補完的な仕組みとして、この完全補償ルールを活用することが望ましいのではないだろうか。
本書は、「解雇補償金自体の是非よりも、それをどう設計するか」という新たな段階にふさわしい内容であり、これを契機として多くの議論が触発されることに期待したい。