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行動経済学を読む

第3回 無料という甘い罠

京都大学大学院経済学研究科教授 依田高典〔Ida Takanori〕

1 人間は無料に弱い

 人間は、無料に弱いもの。デパートの地下街に行くと、美味しそうな試供品がおかれている。ついつい、手を伸ばして、口に入れてみる。美味しいと思えば、購入することもあるだろうが、多くの場合、そのまま、立ち去ってしまう。経済学では、商品に対する消費の経験がない財に対して、無料で情報を与える経験財というもっともらしい説明を与えている。

 人間は、なぜ無料に弱いのだろうか。そのヒントは、心のバイアス(偏り)にある。人間は、自分の財布の中からお金を支払う度に、心の痛みを感じる。1万円を支払う時の負効用は、絶対値にして、1万円をもらった時の効用の2〜3倍だと言われている。これが損失回避性である。

 インターネットが普及して、オンラインの世界になると、無料サービスが増えた。インターネットの閲覧や検索、ワープロや表計算ソフト、古い動画やゲーム……。中には、漫画やドラマのような有料コンテンツの海賊版を不法サイトにアップロードする不埒な輩もいる。

 開発や製造に費用がかかっているはずのコンテンツやサービスが無料で流通できるのはなぜだろうか。オンラインの無料ビジネス・モデルには、なにか特別な魔法の力があるのだろうか。無料ビジネス・モデルを取り上げ、そのからくりを考えたい。

2 フリーミアムの登場

 ジャーナリストのクリス・アンダーソンは、ベストセラーの中で、ある製品をある消費者に無料で提供し、別の製品を別の消費者に有料で提供するビジネスモデルを「フリーミアム」と名づけた。インターネット電話のSkypeは、基本サービスに関しては無料だが、有料会員になると、携帯電話へも通話できる。ブロードウェイの無料日では、子供は無料だが、同伴の親は有料である。

 

クリス・アンダーソン (著)、小林弘人 (監修、解説)、高橋則明 (翻訳)『フリー 〈無料〉からお金を生みだす新戦略』NHK出版、2009年

(NHK出版のサイトに移動します)

 以下、著作のエッセンスを抜粋しよう。

 

 「二一世紀の無料(フリー)は二〇世紀のそれとは違う。アトム(原子)からビット(情報)に移行するどこかで、私たちが理解していたはずの現象も変質したのだ。「フリー」は言葉の意味そのままに「無料で自由」であることになった。

 この事態に、経済学から発言があってしかるべきだが、まだ何も聞こえてはこない。無料に関する理論も、ゼロに向かう価格モデルもない(中略)。経済学がモデル化する以前に、すでにフリーのまわりにひとつの経済が出現しているのだ。

 だから、本書は急速に展開中の概念について探究するものだ。私が学んだことは、フリーはよく知られていると同時に、とてもミステリアスな概念だということだ。それは強力だが、同時に誤解されてもいる。この一〇年のあいだに登場したフリーは、それ以前のフリーとは違うにもかかわらず、なぜかこれまでほとんど研究されていない。さらに、今日のフリーはさまざまな見た目の矛盾に満ちている。ものをタダであげることで金儲けができるのだ。それは本当にタダだし、金を払って得られるものよりも価値が高いことすらある。」(『フリー』11-12頁)

 

 フリーミアムによれば、5%の有料ユーザーが、95%の無料ユーザーを支えるのだという。デジタルの世界では、コピーやペーストにかかるコストはただ同然である。これを、経済学の世界では、限界費用ゼロという。限界費用がゼロだから、価格もゼロになる。これがフリーミアムのからくりである。

 しかし、アンダーソンが見逃したものがある。コンテンツやサービスの開発・製造にかかる固定費用である。価値のあるものを作るのに、費用はかかるのだ。限界費用がゼロだからといって、価格をゼロにしてしまえば、企業は大赤字になって、早晩潰れてしまうだろう。どこかのタイミングで、企業は固定費用を価格に上乗せしなければならないのだが、元々、ユーザーはコンテンツやサービスを無料だと思い込んでいるのだから、有料化した途端、蜘蛛の子を散らしたように去ってしまうだろう。だからといって、5%の有料ユーザーだけに、固定費用を押しつけてしまえば、極めて高価になってしまう。

 経済学に、「ノーフリーランチ(ただ飯はない)」ということわざがある。無料ビジネスで、ユーザーを獲得するのは簡単である。しかし、それだけでは、フリーミアムのビジネスとしての成功は覚束ない。結局のところ、アンダーソンは、その後のストーリーを説明することに成功しなかった。無料ビジネスモデルの成功と解明は後進に託された。

3 シェアリングという革命

 フリーミアムの反省を活かして、「シェアリング・エコノミー」と呼ばれる新しいビジネス・モデルが登場している。その代表例が、自動車配車ウェブサイトおよび配車アプリのUberだ。Uberは、現在は世界70カ国・地域の450都市以上でビジネスが展開されており、利用者の評判も悪くない。他にも、Airbnbは、空いている個人所有の住居を、他人に貸し出すサービスで、日本でも有名だ。

 近年では、シェアリング・エコノミーを題材とした書籍が登場している。

 

アルン・スンドララジャン (著)、門脇弘典 (翻訳)『シェアリングエコノミー』日経BP社、2016年

(日経BP社のサイトに移動します)

 以下、著作のエッセンスを抜粋しよう。

 

 「ミーカーは1990代後半の「ドットコム時代」から活躍している先駆的なテクノロジー・アナリストで、1995年から毎年発表しているこの報告は大きな影響力を持っている。補足説明でミーカーが強調していたのは、現代ではインターフェースからものの貸し借りにいたるまで、あらゆる物事が「 資産を持たない世代(アセットライト)」の始まりを告げるかのような形で再検討されているということだった。不動産取引、会社勤め、資産運用、旅行、娯楽、交通など、さまざまな分野について、デジタル技術により可能となった新しいビジネスモデルと顧客体験が示され、企業主体となっている現代の構造が変わりつつあることを感じさせた。(中略)

 この報告を読んで、「アセットライト時代」の到来はすでに着々と進んでいる経済的・社会的変化の一面にすぎないとわかった。経済的活動の新しいモデルをいくつも生み、21世紀の大きな流れをつくる急激な変化が起きている。多くの人々が「シェアリングエコノミー」と呼んで楽観視しているさまざまな活動(および組織)は、P2Pの取引が今よりも一般的になり、企業に代わって「大衆(クラウド)」が資本主義の中心となる未来を先取りした例である。」(『シェアリングエコノミー』8-9頁)

 

 Uberのビジネス・モデルの優れた点は、フリーミアムの弱点であった固定費用を複数ユーザーでシェアリングすることで、低価格なサービス提供を実現したことだ。米国の調査では、自家用車の実際の稼働率は、時間にしてわずか4%。自動車が運転される時でも、同乗率は20%だという。そのような低い稼働率では、自動車を保有するための固定費用は、平均単価当たりで見ると随分高くつくことになる。保有するのではなく、シェアリングに発想を変えれば、固定費用を分担できるので、その分、経済的に自動車サービスを利用できるのだ。

 Uberは、創業者がスキャンダルを起こしたり、自動運転試験車で死亡事故を起こしたり、経営上の拙さも散見されるが、プラットフォーム・ビジネスとしても時代の先端を走り、配車から決済までオンライン上で完結できるので、スマホの操作に慣れたユーザーからは、手軽で簡単と評価されている。料金の設定も、その時々の需給を反映したダイナミック・プライシングを利用している点でも、先取の気性が見てとれよう。

4 市場の両面性が重要

 無料でメッセージ交換や音声通話ができるLINEの最大の魅力は、世界で2億人を超え、日本だけでも国民の半分を超える7千万人以上が利用するというユーザー数にある。このように、ユーザーの便益が、ユーザーがつながるネットワークの規模に依存する性質を「ネットワーク効果」と呼ぶ。

 ネットワーク効果を駆使して、一方を無料に、他方を有料にして、2種類の市場参加者をプラットフォーム上でつなぐビジネス・モデルを「両面市場」とも呼ぶ。両面市場は、2014年にノーベル経済学賞を受賞したフランスの経済学者ジャン・ティロールが理論的に定式化した。

 ネットワーク効果を受ける側の価格を引き上げ、作用する側の価格を引き下げるのが両面市場の価格設定の基本だ。両面市場の事例は、インターネット・オークションの売り手と買い手、テレビ番組のスポンサーと視聴者、テレビゲームのソフト開発会社とユーザー等、枚挙に暇ない。

 ネットワーク効果を梃子にして、プラットフォーム上のプレーヤーをつなぐプラットフォーマー。その中でも最も斬新なビジネス・モデルで、両面市場を自家薬籠中のものとした企業がGoogle。Googleとは、インターネット・サイト上の情報を検索するための検索エンジンだが、その持株会社の時価総額は創業20年にして70兆円に達している。

 Googleは、一方で、無料サービスでユーザーを自社サイトに集め、他方で、オークションを使って、検索連動型広告では、企業に高めの課金をしている。企業が有無を言わずに、Googleのサイトに広告を出したがるのは、世界中のユーザーがGoogleを使うからだ。広告主は、検索されなくなるGoogle八分に遭うと、製品をユーザーに認知してもらえなくなるので死活問題となる。Googleの理念に、「ユーザーに焦点を絞れば、他のものはみな後から付いてくる」という言葉がある。要するに、Googleのプラットフォーム上で、ユーザーが集まる検索サイトから広告主が支払う検索連動型広告の方向へ、巨大なネットワーク効果が働いているのだ。

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