連載
ベルリンで考える政治思想・政治哲学の「いま」
東京大学社会科学研究所教授 宇野重規〔Uno Shigeki〕
現在、筆者はドイツのベルリンに滞在している。この連載では、「欧州の首都」と呼ばれることもあるこの地にあって、現代の政治思想・政治哲学の「いま」を、心象スケッチ風に考えていきたい。
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この街を歩いていて(といっても、筆者がふらついているのは、大学や書店、雑誌スタンドなどの周辺ばかりであるが)、マルクスの肖像画を目にすることが多い。考えてみれば、今年(2018年)はマルクスの生誕200年にあたる。誕生日である5月5日を中心に、さまざまなマルクス関連企画があっても不思議ではない。
ベルリン観光の中心ウンター・デン・リンデンの通りから一本入ったフリードリヒ通りには、大型書店のドゥスマンがある。といっても、店を入ってすぐに目につくのは、CDやDVDの売り場ばかり。哲学のコーナーまで行くには、だいぶ上の階に上がらなければならない。カント、ヘーゲルを生んだこの国にあっても、もはや哲学はそれほど厚遇されていないらしいと苦笑しつつ、それでも最上階までたどり着くと、そこにはマルクス関連の書籍が、『資本論』を筆頭に多く並んでいた。
ドゥスマンのような大型書店だけではない。筆者の住むアパートのすぐ近くにある書店でも、ちょっとしたマルクスコーナーがあった。彼の彫像や、何冊かの本が並ぶ中、『経済学批判』のタイトルが目についた。ある種の企画ものなのであろう。とはいえ、何となく今の気分を示しているのではなかろうか。「Industry 4.0」が掲げられ、欧州はおろか、世界の資本主義を駆動する最後のエンジンとも思えるドイツである。それでも、あるいはそうであるがゆえにむしろ、資本主義や経済のあり方について、いま一度考え直してみたいという漠然とした雰囲気があるのかもしれない。
雑誌コーナーを見ても、マルクス特集が目立つ。「今こそ、マルクスを読むべき」というような見出しが多い。このような雑誌に手を出すのは、もともとマルクスに関心のある人ばかりなのだろうか。あるいは、今日なお、社会や経済の現状に批判的な読書人にとって、マルクスは何らかのイメージを喚起する存在なのか。
筆者が講義を行なっている大学の廊下にもマルクスをめぐる国際会議のポスターが貼ってある。タイトルは「MARX IS MUSS」。「マルクスはやはり必読だ」という意味か(ドイツ語と英語がまじっている)。数日間にわたり、多くのセッションが組まれている。プログラムを見ると「経済学批判」、「国家と革命」、「党と階級」などいかにもな企画と並んで、レイシズムや女性の自由、「資本主義の健全性」などのワークショップがある。後日聞いたら、筆者の研究室の隣のドイツ人研究者も、これとは別のマルクスに関する国際会議に参加すると言っていた。
笑っていいのか、笑えないのかちょっと微妙な話題もある。報道によれば、マルクスの生誕地トリーア市では、中国から寄贈された5メートルを超えるマルクスの巨大像の落成式があったという。この像を受け入れることについては市民の基本的な理解が得られたものの、中国における人権侵害を問題視する人、旧東ドイツの社会主義体制を批判する人など、少なからぬ反発の声も上がったという。無邪気な「わが町の有名人」の顕彰では済まない話だろう。そのあたりの微妙さを含めての、マルクス「生誕200周年」ブームであることは間違いない。
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このようなブームは一過性のものにとどまるかもしれない。それでも、マルクスがまだ「現役」の思想家として扱われているのが印象的である。はたして日本ではどうなのだろうか。
気になる数字がある。英国の市場リサーチ企業であるIpsos MORIのBen Page氏のツイートで紹介されていたのだが、「社会主義の理念は、社会の進歩にとって大きな価値を持つか」というアンケート結果の国際比較があるようだ。2018年の3月から4月にかけて行われたもので、16歳から64歳までの2万人ほどのオンライン調査の結果であるという。
全世界の平均では約50%がこの問いに対し、「社会主義の理念には価値がある」と答えている。もっとも高い中国の84%はともかく、インドの72%、マレーシアの68%、トルコの62%などが目につく。南アフリカ共和国の57%、ロシアの55%なども興味深い。その後に続くのがヨーロッパ諸国である。スペインの54%、スウェーデンの51%をはじめ、英国は49%で、ドイツは45%であった。この統計の精度がどれほど高いのかはわからないが、一つの指標にはなりうると思った。
問題なのは、28ヶ国のうち、21%の日本が最下位であるということだ。これは韓国の48%と比較してかなり低いし、アメリカの39%と比べてもなお目立つ数字である。なぜ日本ではかくも社会主義に対する評価が低いのだろうか。
Ben Page氏のツイートに対しても、「なぜ日本が最下位なのだろうか」、「共産党がまだ存在感があるのに」、「(このような問いに対して明確な答えを示さない)日本の文化的特性ではないか」、「韓国より低いとは」といった反応が寄せられていて興味深い。もしこの調査がそれなりに信頼できるものであるとすれば、たしかに十分に検討してみる意義がある結果であると言えるだろう。
筆者にとくに有力な仮説があるわけではない。ただ、ヨーロッパ諸国では、フランスがかなり低めの数字である31%を示しているように、政治や知識人の世界において、比較的近年まで社会主義の影響が続いた国において、むしろ社会主義への反発が強いのかもしれない。日本とフランスは、社会主義の政治的・知的影響力が相対的に残り続けた国として、しばしば指摘される。社会主義の記憶が古い国ほど、社会主義への反発よりはむしろ、現状に対するオルタナティブとして社会主義を見る傾向がある可能性は十分にあるだろう。
実際、2016年の米国大統領選では、「民主的社会主義」を掲げるサンダース候補の躍進が話題になったが、彼を支持した多くの若者にとって、社会主義とはソ連をはじめとする社会主義体制よりはむしろ、社会経済的な平等や再配分政策の支持を意味したという。選挙戦の後、「今のアメリカの若者にとって、ソ連のイメージは遠い昔のものだから」と語っていたアメリカの政治学者のことを思い出す。彼によれば、日本においてむしろ「社会主義といえば社会主義体制」を連想する傾向が強いのではないか、ということであった。
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この稿で筆者は、何も「マルクスこそ最重要の思想家だ」とか、「今こそ社会主義理念の復興を」と主張したいわけではない。しかしながら、マルクスの知的遺産が、社会主義体制への負のイメージとともに、日本であまりにも忘却されているとすれば、それはやはり残念なことであると思う。
少なくともヨーロッパにあっては、マルクスはなお、資本主義の現在を考えるにあたって、また市場経済と社会経済的な平等を考える上で、一つの座標軸を示す「現役」の思想家であり続けている。それとの違いを思うとき、日本において何がその代わりの思考の座標軸となっているか、はたしてそのような座標軸が存在するのかどうか、どうしても考え込んでしまうのである。
ドイツの大学院生や学部生を教えていて、時代が変わったと思うことがある。筆者はいま、ドイツにあってもリベラルな気風が強く、学生運動がなお盛んなことで知られる大学に滞在しているのだが、やはり一般的にはノンポリの学生が多い印象がある。強い政治的なイデオロギーを持たず、政治について語ることに必ずしも積極的でない学生が目立つのは、日本の大学とさほど変わらない。
それでも議論をしてみると、「市場経済を否定することはできないが、民主主義や市民社会の力によって、これをある程度制御することは重要だし、また可能である」という意見が相対的には多数を占めているように感じられた。もちろん、どのように市場経済を制御するのか、具体的な見通しがあるわけではない。とはいえ、市場経済は万能ではないし、何らかのコントロールが必要だというのが、おおよそのコンセンサスであった。この文章の冒頭で示したある種のマルクス・ブームも、このようなコンセンサスがあってこそのものではないかと思われる。
翻って日本はどうであろうか。戦前からマルクス主義の影響が長く続いた日本においても、いまやその記憶は風前の灯となりつつある。数年前、アメリカのとある有力大学の日本研究の大学院で、野呂栄太郎の『日本資本主義発達史』を講読する若い人たちを見たことがある。エスニシティも性別も多様な学生たちが、それなりにこの古い理論書を読みこなしていたのが印象的であった。日本におけるマルクス主義的な知の枠組みは、日本よりはむしろ海外で維持されているのかもしれない。そう真剣に思えた一瞬であった。
繰り返すが、マルクスについて、多様な意見があることは否定しない。が、その上でなお、マルクスの知的遺産を批判的に継承することで、市場社会の現状に対し、いささかなりとも理論的な視座を得たいという願望は、やはり重要なのではないか。そのようなことを考える、マルクス生誕200年目の5月5日であった。