巻頭のことば
第2回 真剣師の将棋観
法政大学大学院法務研究科教授 交告尚史〔Koketsu Hisashi〕
私は碁は打つが将棋は指せない。駒の動かし方を知っているだけである。だが、この人が書いた本あるいはこの人について書かれた記事は取りあえず手元に置くという棋士がいる。花村元司九段である。花村の経歴は次の通り。1917(大正6)年浜松市生まれ。1944(昭和19)年「五段試験」合格、木村義雄一四世名人の門に入る。1948年六段、1950年七段、1952年八段、1956年大山康晴名人に挑戦、1976年九段。A級に16期在籍。途中一度降級するも、1977年の第36期順位戦で勝利を重ね、60歳にしてA級に復帰。1985年現役のまま死去、享年67歳。
花村は元々真剣師であった。真剣師というのは、真剣に教えてくれる先生という意味ではない。将棋であれば賭将棋、囲碁であれば賭碁の世界で生きた人たちのことである。懐の豊かな旦那衆が金を出し合って設けた席で相手の真剣師と闘うのである。かつて倉島竹二郎は、天竜川流域目付天神の祭礼日に催された勝負の始まりをこんなふうに描いた(『勝負師群像』光風社書店、1973年・227頁)。
「えーと、花村君の方が千円カッキリで、大竹さんの方が八百五十円か、だれかあと百五十円大竹さんに乗らないかな。大竹さんはレッキとした三段の免状持ち、花村君は東海の鬼なんて威張っていたって、まだ無段。六段じゃない、段無しだよ。それに今年は花村の方で香車を引くというんだから」
胴元の加島五段が諧謔まじりにいいながら一同を見渡した。加島五段は将棋連盟の所属ではないが中京棋界では昔から顔の売れた老棋客である。
花村には『ひっかけ将棋入門』(KKベストセラーズ、1979年)という奇書がある。それによれば、彼はすでに20歳の頃には「東海の鬼」であった。当時木村名人を中心とする将棋大成会という組織があり、これに所属していればプロ棋士という扱いであった。大成会に所属しない将棋指しは将棋浪人と呼ばれ、全国に数十人いたという。彼らは全国を廻り、真剣勝負で暮らしを立てた。花村もそういう浪人経験をしたが、やがて旦那衆の多い名古屋に定着した。その後プロ入りの話が持ち上がり、先に書いた五段試験となる。当時も今もそのような試験が制度としてあるわけではない。花村があまりに強いので、「プロの五、六段クラス4名と六局指して指し分け(3勝3敗)以上の成績を収めれば、付け出し五段でプロ入りを認める」ことになったのである。花村は見事に合格したが、当初はハッタリ将棋などと貶されて、玄人筋の評判は高くなかった。だが、見ている人は見ていた。1956年の九段戦五番勝負第一局の自戦記に塚田正夫九段はこう書いている。「一昨年あたりまで、花村氏は序盤がうまくなかった。いや、現在でも他のA級棋士と比較し、うまいとはいえない。しかし、それは氏独自のもので、多少有利に岐れても油断するわけにはいかないのだ。」
花村は、将棋は人間と人間の勝負だと捉えている。人間は間違いをする生き物であるから、相手が間違うように指せばよい。プロ棋士たる者が時間をかけて指してきた時は、こちらが最善手を指すという前提で詰みまで読み切っている。だから、こちらが最善手を指せば、必ず負ける。そういう時は、わざと無筋の手を指す。すると、相手は「読み落としがあったか」と動揺する。そして誤る。
こういう将棋観は、盤上の真理探究こそが使命と心得る人々の将棋観と対蹠的である。私は花村の将棋観が好きだ。しかし、多くの棋士が将棋ソフトを利用する時代にはたして花村流を残せるだろうか。真剣師という存在は「新宿の殺し屋」と恐れられた小池重明あたりを最後に消失してしまったという。表の世界と裏の世界が併存し、時々裏から強い指し手が表に出てくるという関係こそが面白いと思うのだが、法科大学院の教員としては発言を慎むべきかもしれない。私は納得していないが、碁、将棋のような競技でも偶然性の要素が残る以上賭博罪を構成し得ると解されている。