連載
人生の智慧のための心理学
第6回 「進化」と「生き方」
東京大学名誉教授(質問者) 繁桝算男〔Shigemasu Kazuo〕
東京大学大学院総合文化研究科教授(回答者) 長谷川寿一〔Hasegawa Toshikazu〕
繁桝先生からの質問1
ダーウィンの提唱した進化論は、我々の心の進化にも適用されている。進化論は、遺伝子の変動が起こり、その変動のうち、環境に適した遺伝子パタンが生き残るという考えであるが、この遺伝子の変動がランダムかどうかには疑問も提出されている。また、心の進化については、動物あるいはヒトの身体の変化に比べて、環境の時間的つながりの影響を受けている。心についての進化論の知見から、生き方について有効な助言が可能だろうか? 最近では、トランプ大統領が選挙で勝つことを霊長類の行動パタンから予測したという新聞記事があったが、霊長類など他の動物の行動パタンから、人生に有益なアドヴァイスができるのであろうか?
長谷川先生の回答1
チャールズ・ダーウィンは1859年の『種の起源』発刊の後、1871年に『人間の由来』、1872年に『動物と人における情動の表出』を著した。後2冊でダーウィンは人間固有の向社会性や情動など心の進化について先駆的に記述しており、心理学史においてダーウィンは動物心理学や発達心理学の祖であるとみなされている。しかしながら実際には、心理学では長い間、心の進化に関する議論は封印されたままだった。ほぼ1世紀の間、心理学教科書で進化という用語自体、全くといっていいほど言及されなかったのである。ようやく1980年代に入り、欧米の心理学者が「進化心理学」あるいは「人間行動進化学」を名乗るようになり、90年代以降は心の進化に関する論考が一気に開花した。国際学会が設立され、国際学術誌が発刊され、教科書や学術書の出版も相次いだ。この波はほぼ10年遅れで、日本にも到達した。ダーウィンの論考は永い眠りを経て蘇ったのである。
心の進化研究の復興は、ドーキンスの『利己的な遺伝子』に代表される1960―70年代の進化行動学におけるパラダイムシフトによる新しい潮流が、ヒトという生物にまで押し寄せてきたことの帰結である。このパラダイムシフトとは、従来のナイーブな「種の保存のため」の議論である集団淘汰説がはっきりと否定され、自然淘汰は遺伝子もしくはその乗り物である個体に対して働くこと(遺伝子淘汰説)が示されたことである。動物界での一例を挙げると、種の存続のために動物の攻撃性には抑制機能が備わっており動物は殺し合わないという従前の見方に対して、遺伝子・個体レベルでは個体間の利害が一致せず熾烈な対立や葛藤が存在することが予測され、事実、種内の殺し合いが多く観察されるようになった。ヒトにおいても、親子関係や配偶関係などかつては協調性が当然視された社会関係に潜むさまざまな対立や葛藤が分析されるようになった。と同時に、利害関係が異なる個体間でどのように協力行動や利他行動が進化しうるのかについての研究も大きく進展した。
繁桝先生からのご質問、「心についての進化論の知見から、生き方について有効な助言が可能だろうか?」に対して、ストレートにお答えするのは難しい。進化心理学は実践・応用領域ではなく基礎研究の領域なので、日常生活へのアドバイスや人生訓を直接語るものではない。よく言われるように、「である」の研究から「べし」は引き出せない。ただし、生き方ではなく、考え方あるいは人間の見方ということであれば、進化心理学は従来の人文・社会科学に欠けていた進化生物学に根ざす科学的人間観を提供する。
最近出版された『利己的な遺伝子 40周年記念版』(紀伊國屋書店・2018年)の紹介文で佐倉統氏は「この一冊によって、温かく親しみやすい生物の世界は、ドライでクールなデジタル情報の世界に変換された。これを読まずして、生物やゲノムや脳科学やAIやロボットや社会や経済について語ることはできない」と記している。まさにその通り。進化心理学が示す人間観も、すこぶる冷徹、理知的である。それゆえ他の諸科学との相互翻訳可能性が高い。進化心理学は、動物心理学や社会心理学、知覚心理学といった研究対象で規定される心理学ではなく、進化や生物適応の理論に依拠する心理学である。進化理論は従来の心理学の諸理論よりはるかに頑健かつ適応範囲が広いので、人間の心や行動をより統合的に理解できるツールである。
今一度、ご質問に戻ると、もし人間とは何か、そもそも自分とは何者かで思い悩む人がいれば、進化心理学は確実にひとつの答を与えてくれる。人は生物界の一員であり、一介の類人猿(さらに言えばヒト・チンパンジーグループの一員)に過ぎないが、きわめて特異な生物であり、奇妙なチンパンジーである。遠大な進化的過去の歴史的延長線上の今ここに、思い悩む自分が存在することを認識できることは、ほとんど奇跡と言ってよいだろう。
なお、繁桝先生がご指摘の「遺伝子の変動がランダムかどうかには疑問も提出されている」については、突然変異がランダムに生じないことを示す研究例があるものの、適応的な変異が方向性をもって生じることを示す報告は未だないことを付記しておく。
繁桝先生からの質問2
進化心理学は人間の本性についての学問であり、直接に生き方についての助言が引き出せるようなものではない、ましてや、アメリカの大統領選の予測などを軽々にするなどのことは信じられないというような答えである。確かに、その通りなのであろう。しかし、このままでは第2の質問にたどり着けない。数学において純粋に抽象の世界における論理的数学的展開の産物もすべて(といってよいかどうかわからないが)たとえば、トポロジーも素数の理論も現実世界で何らかの役に立っているようである。まして、人間に関する探究ならば何らかの智慧を授けてくれるのではないかと期待したい。
ダーウィニズムは、最初の導入の段階では、それが、差別、特に、人種差別と結びつくということで排撃された。現代の進化心理学は、差別と結びつかない人間観に導くものであると信じたいが、これも価値観が先行しているのであろうか? 第2の質問として、このことを問うてみたい。
長谷川先生の回答2
繁桝先生がご指摘の「ダーウィニズムは、最初の導入の段階では、それが差別、特に、人種差別に結びつくということで排撃された」の部分について、少し補足させていただく。ダーウィンが提唱した進化の考え方は、ダーウィンの存命中から人間社会への応用が試みられ広く流布した。ハーバード・スペンサーが命名した社会ダーウィニズム(社会進化論)では、進化は自然界だけでなく人間の社会現象も説明する基本原理として捉えられ、社会組織も文化、芸術、宗教も単純な形から複雑なものへと多様に進化するものと考えられた。そして、できるだけ多様で複雑な社会こそが社会の理想型とみなされた。遺伝形質の進化を問題とし、価値とは無関係のダーウィンの進化論と、遺伝によらない社会の変遷を扱い、理想や価値を論じる社会進化論の間には、学問的には水と油ほどの隔たりがあるが、少なくとも、スペンサーの社会進化論は自由放任と多様性を善であるととらえる自由主義的な啓蒙思想であった。
しかし、その後20世紀に入ると、スペンサーの造語である「適者生存」が強調され独り歩きするようになり、社会進化論は強者を正当化する理論として変質していく。他方、ダーウィンのいとこのフランシス・ゴルトンは、民族の退化を防ぐために劣った遺伝子を持つ人々を人為選択によって排除し、優れた遺伝子を持つ人々を残すべき、と主張する優生学を提唱し、当時の多くの遺伝学者が社会改良に役立つと信じて優生学を信奉した。この優生主義思想が強者のための社会進化論と結びつくことによって、人種差別や障碍者差別が正当化されるようになり、ナチスによるホロコーストという20世紀最悪の惨劇が引き起こされたことは言うまでもない。なお、我が国における優生主義政策は戦後も長く尾を引き、被害者は今なお償いを受けていない。
20世紀の後半、ダーウィンの進化論(適応進化)に基づく人間研究が復興した際に、人間社会生物学の創始者であるエドワード・ウィルソンが全米科学振興協会の講演席で人種差別主義者と罵られ水を浴びせられたエピソードは有名である。20世紀前半の社会進化論による進化学の曲解、および優生学の過ちによる負の遺産がとてつもなく大きかったので、筆者を含む人間社会生物学者あるいは進化心理学者は、たとえそれが大きな誤解に基づくものであるにせよ、背負った十字架の意味や社会科学者の生物学嫌悪(バイオフォビア)の背景を自覚する必要がある(筆者は自分の講義「進化と人間行動」の冒頭では、必ず学問成立まで歴史を述べている)。
前置きが長くなったが、繁桝先生からのご質問、進化心理学は差別に結びつかない人間観を示せるだろうか、に対してお答えしたい。答はイエスと断言できる。その理由はいくつかある。まずはそもそも、進化は価値とは無関係であり、進化=進歩ではない。飛翔能力を失ったドードーバードやモグラの眼といった「退化」もまた進化の一部である。進化には方向性も目的もなく、これは適応進化でも中立進化でも同じである。ある環境において生存や繁殖に有利な形質は次世代に伝わりやすく、その蓄積によって適応的な形質が進化するという適応進化の考え方は、不利な形質は消えて当然という「差別」を正当化する論拠のように聞こえるかもしれない。しかし、適応を生む環境はけっして不変ではなく絶えず変化するので、差別の論拠となる優劣の尺度は絶対的な基準たり得ない。鎌形赤血球を持つ人は、ほとんどの環境では不健康で不適応だが、マラリア感染地域ではマラリア蚊に敬遠されるので適応的である。
2つ目の理由として、人間の遺伝的変異はきわめて多次元的であり、一つないしごく少数の遺伝的変異で優劣が決まるものではない。とりわけ心理・行動形質は多くの遺伝子が関わるポリジーン形質である。ヒトの遺伝子は少なくとも2万個あり、その約3分の2に機能の異なる遺伝的多型があるといわれる。少なく見積もって1万個の遺伝子に3つの遺伝的多型があるとすると、その組合せは3の1万乗、まさに天文学的数字であり、一人ひとりの遺伝的個性はこの世に一度きりの希有なものである。このような多様性を恣意的な少数の物差しで差別化することは、豊かな人間個性の矮小化にほかならない。この世の誰が最も優秀で誰が最劣かを決める術はない。別の見方をすれば、人は誰でもなんらかの望ましくない形質を抱えながら生きている。
第3の理由として、近年の人類学的調査によれば、小規模伝統社会では現代社会で差別の対象となりがちな障碍者が差別を受けずに暮らしているとのことである。またネアンデルタール人の遺跡からは老齢病弱個体の骨が出土し、「福祉」の存在が示唆されている。先史時代に差別がなかったとは言い切れないものの、構成員の多様性が当たり前の社会であったと想定される。原人以降のホモ属では、他の霊長類では類をみない共同体社会が形成され、人類は「助け合う」サルとして進化してきた。現代の進化心理学・人間行動進化学においては、協力行動・相互扶助の進化の解明が最も重要な研究課題の一つである。人類の負の側面である暴力や殺戮についても、スティーブン・ピンカー『暴力の人類史』(青土社・2015年)に代表されるような論考がなされているが、血に塗られた人の営みは現代社会に向かって着実に減少してきた。今後、人の本性に組み込まれた顔見知り同士の強い相互扶助の性向が、もう一つの人の特性である理性を介してどこまで見知らぬ他者にまで拡張できるかが、人類にとっての大きな課題である。
ここからは余談であるが、筆者は、多数の障碍者が犠牲者となった相模原殺傷事件の1年後、NHK「クローズアップ現代」から取材を受けた。おぞましい優生主義の反省の上に立つ人間行動進化学からみて、「障碍者は社会から消えてしかるべき」という容疑者の主張にどう反論するか、というのがお題であった。放映時間の制約から、私の主張は十分伝えきれなかったが、「人類進化史においてヒトは基本的に相互扶助に基づく霊長類であり、小規模伝統社会では障碍による差別は僅少だった」と述べた。この番組を視聴した障碍者施設職員からは、根源的なところで納得し救われたという感想が届いた。放映はされなかったが、筆者は記者に、誰ひとり完全な人間などおらず、(自分を含めて)誰もが何らかの障碍を抱えながら生きている、またどんな人でも他の人にはない輝きを備えている、と答えた。差別主義者のひとりよがりの傲慢さに対し、進化心理学は地についた冷静な人間観を提供できると信じている。