コラム
証明責任論争
京都大学名誉教授 前田達明〔Maeda Tatsuaki〕
第1 本稿の目的
証明責任に関する拙見(前田説という。)については、本誌においても書かせていただき(1)、ご注目をいただいたが(2)、この度は、松本博之先生からご高批を賜った(3)。そこで、ご高批への弁明と共に、松本先生のご見解(松本説という。)への疑問を提起させていただく。
第2 前田説批判への弁明
1、第一批判は、「事実の主張がないため、当該事実の存否が不明であるということ」Ⓐと「その事実の主張はあるが審理の結果その存否が不明であるということ」Ⓑ「は基本的に同一の評価を受けるべき事態であるから、前田説を支持することはできない」とされる。まず、「基本的に同一の評価を受けるべき」という民事裁判上における価値判断の法的根拠が示されていない(4)。しかも、この前提にも疑問がある。すなわち、Ⓐ①「事実の主張がない」→②主張責任(弁論主義=当事者主義=私的自治原則。憲法第13条)(5)により裁判所は「その事実」を認定できない→③法律効果不発生(通説(修正法律要件分類説)と前田説(法文の規定の仕方)。民訴法第253条第1項第2号、同条第2項の問題)、Ⓑ①「事実の主張はある」→②「審理の結果その存否が不明である」→③証明責任(“結着を付けよ”。憲法第32条)(6)により(ⅰ)通説(修正法律要件分類説)によると裁判所は「その事実」は「存在するとは認められない」(結果として「不存在」)となり(ⅱ)前田(純証明責任規範)説によると裁判所は「その事実」は「存在するとは認められない」(結果として「不存在」)あるいは「存在しないとは認められない」(結果として「存在」)となる(民訴法第247条、同法第253条第1項第3号の問題)。したがって、Ⓐにおいては「当該事実の存否不明」という“中間項”はないのである。
なお、ここで注意すべきは、法文は事実が「存在する」ことを前提としているから「存否不明」のときは当然に法規不適用であるという通説の考えである。しかし、法文は確実(100%)に「存在する」ことを前提としているのであり、「高度の蓋然性」(80%の心証度。中野ほか・前掲書388頁)でよいというのは訴訟手続における“価値判断”である。すなわち、民訴法第247条と同第253条第1項第3号の“解釈論”なのである。したがって、「存在するとは認められない」として法規不適用という「価値判断」と「不存在とは認められない」として法規適用という「価値判断」は同等に評価されるべきである(公平=公正。民訴法第2条)。何故ならば、こう解しても憲法第32条の要請は充足し得るからである(7)。
2、(1)第二批判は、前田「説によれば、たとえば給付不当利得の返還請求訴訟において、給付の法律上の原因の欠缺は権利根拠要件要素として権利主張者に主張責任があるが、その証明責任は消極的要件であるためこれを争う被請求者にある(すなわち被請求者が自己の主張する法律上の原因につき証明責任を負う)のであろう」とされる。しかし、前田説は、これまで、「消極的要件」を証明責任分配基準であると提唱したことはない。法律上の原因の欠缺という法律要件要素(そして消極的要件全般)についても具体的訴訟の最終段階において、その事実の存否不明のときは、その時点において証拠との距離や証明の難易あるいは心証度の程度(8)などによって証明責任が分配されると提唱する。したがって、権利主張者に証明責任が負わされることもある。例えば、利息制限法違反事件の場合(9)、請求者は契約書などを持っている可能性もあろうし、さらに超過利息を払った領収書をもっている可能性もあるだろうし、それは契約書などの信憑性を補強する間接証拠ともなるだろうから、権利主張者に証明責任を負わせることもあるだろう。他方、民法第709条の“因果関係の存在”は「積極的要件」であるが(松本「原則」141頁参照)、例えば、「医療事故」で、被告(医師)の方が証拠に近く証明が容易なこともあろうから、被告に証明責任を負わすのが妥当なこともあろう(前田「続・展開」はしがきⅴ頁)。
(2)さらに、「そうだとすると、法律上の原因の存在につき被請求者が証明責任を負うにもかかわらず、請求者が法律上の原因の欠缺を具体的に主張できないために主張責任により敗訴することになる。このことは証明責任の帰属と主張責任の帰属は原則として一致しなければならないことを如実に示している」とされる。この文意は不明であるが、推測するに「具体的に主張できない」という点に意義があるとすれば、法律上の原因の欠缺(そして、消極的要件全般)の主張や証明は困難なことが多く前田説は証明責任を被請求者に負わすことによって請求者の救済を図っているが主張責任を負わしているから不十分である、というのであろうか。そもそも、どの程度の内容の要件事実の主張をすべきかということについては、その“カギ”は要件事実の機能にある。それは訴訟物を特定して裁判所が法に従って裁判をすることを可能にし、さらに相手方にとって攻撃防御の対象を明らかにする機能を有するから、それを充足する程度の“特定”(5のw)が必要である(10)。そして、この法律上の原因の欠缺についても、松本説が念頭におかれたであろう最判昭和59年12月21日裁判集民事143号503頁は、“昭和54年8月30日に請求者が被請求者宅で被請求者に強迫(民法第96条)され(その具体的言動を主張するのは可能)、受け取った保険金を被請求者に引き渡したが取消した”と主張するだけで法律上の原因の欠缺の要件事実としては十分である(11)。さらに、被請求者が「変更権」の主張をし請求者がそれを否定したときは、そのことを請求原因事実の主張とし得ることは当然である。他方、いわゆる侵害利得は物権的請求権との対比で考えるならば「妨害」(民法第198条)や「侵奪」(民法第200条)が法律要件要素であるから、それに該当する要件事実を主張しなければならない(「承諾なく」)。だから、法律上の原因の欠缺においても“某日、某所で請求者(甲)は被請求者(乙)に退去や撤去を要請したが乙は拒否している(今も占拠している)”と主張すべきであり、それで充分である。勿論、乙は“権原”を主張するであろうが、甲が反論すれば、これも“請求原因事実”の主張といえよう。なお、念のために付言すれば、法律上の原因の欠缺に該当しそうな全ての事実の主張をしなければならない(例えば、前掲最判昭和59年12月21日では“変更権の留保はなかった”など)ということはない(12)。すなわち、弁論に現れなければ弁論主義によって審理の対象とはならず「法律効果」に何ら影響を及ぼすものでない(「不発生」)。したがって、一つ主張しておけば請求原因として(前掲最判では「強迫」による「取消」のみ)、それで十分である。
3、さらに、主張責任を尽せず敗訴することは、主張責任の所在(帰属)と証明責任の所在(帰属)が一致すべき(価値判断)であるということの法的根拠とは成り得ない。現に松本説も、この場合の主張責任については「請求者は概括的な主張」でよいという別の解決案を提起されるが、その“書き方”は如何なるものを想定しておられるのだろうか(例えば、前掲最判昭和59年12月21日の場合)。
4、そもそも、法律上の原因の欠缺については、誠に多数の学説が錯綜している(吉川・前掲論文121頁)。その原因は、主張責任の所在と証明責任の所在が一致すべきである(しかも主張責任は証明責任から派生すべきものである(13))という“ドグマ”である。しかし、この“ドグマ”は何ら法的根拠がないのであるから、その呪縛から解放され両責任の所在は一致する必要がないとすれば、この“錯綜”は氷解する(14)。
第3 要件事実について
1、松本説は「要件事実」という用語を批判される(松本「原則」306頁)。しかし、ロースクール教育の目的(司法研修所教育入門)により、現在の教育現場では「主要事実」よりも「要件事実」が一般的であり、多数の実体法学者は教科書に「要件事実」という用語を用いている。しかも、「法律要件に該当する具体的事実」を意味する用語としては、「主要事実」よりも「要件事実」の方が適切であろう(15)。
2、もっとも、松本説の批判の主眼は、ここにあるのではない。すなわち、証明責任の対象は「要件事実=主要事実」ではなく、「審理の結果、事実が存否不明に終わった場合にその事実が当てはまるべき法律要件要素が実現したとも、実現しなかったとも、いずれとも判断できない隘路を解決して」裁判を可能にし「当事者の裁判を受ける権利を確保する裁判規範が証明責任となるのである」とされる。すなわち、証明責任は「事実問題を解決する法理ではなく」「法律要件要素の実現の有無についての不明を解決する制度である」とされる(松本「原則」307頁)。しかし、この見解は通説の立場を否定する根拠を示しておらず、ただ“このようにも考えられる”というだけのことであって、云ってみれば“引き分け”なのである。しかも、松本説は、これを根拠として、法典の規定を反映した「証明責任規範」(実体は修正法律要件分類説)を導こうとするために通説から批判を受けることになる(16)。
3、ここで、注目すべきは、通説を徹底した「裁判規範説」(伊藤滋夫説という。)である(17)。伊藤滋夫説のいう「裁判規範」とは「事実が訴訟上存否不明になったとき、その事実の存在を前提とする要件に基づく法律効果が発生しないものと扱うのが」「法典上妥当な結果となるような構造(形式)」の法典であり、その要件は、法典の条文を見たのみでは不明(18)であり「法典に内在するものを解釈によって明らかにする」とされる。「解釈」すなわち“価値判断”によって証明責任と主張責任が分配されることを自認される。このように「裁判規範」とは“証明責任の分配を考慮して法典を解釈して成立する構造”であるから、その実体は「証明責任規範」である。
4、ところで、これまでの学説は、人は「中途半端」な根拠で利益・権利を侵害されるべきでないから「現状を変更する側に原則として証明責任が課される」という。しかし、請求者は「現状」が違法であるとして回復を求めて訴えるのであり、相手方は訴えられることにより現状が違法になるから棄却を求めて応訴するのである。しかも憲法第32条は自力救済禁止の代償でもあるのだから、“現状変更”を理由に請求者に証明責任(敗訴の危険)を課すのは妥当でない。また、当事者と裁判所が努力を尽したが訴訟の最終段階で存否(真偽)不明に終わったのであるから「中途半端」ではない(いずれか確信が得られないほど双方に根拠がある)(19)。
5、さらに、「過失」が「客観的行為義務違反」(規範違反)であることは判例学説の一致するところである(立法者も同様)。そして、それを根拠づける事実を「評価根拠事実」とし、否定する事実を「評価障害事実」とし、前者は請求者が主張責任(証拠提出責任も)を負い、後者は被請求者が主張すれば証拠提出責任を負うのである(前者を否定するだけでよい)。そして、後者の主張がなければ前者の主張だけが審理の対象となり、その事実が認められれば「過失」が認められるのであり「何らかの事実」によって(松本「解明」15頁)過失が認められるのではない。したがって、それは「理解しがたい暴挙」(松本「解明」16頁)ではない(当然だが、これは前田説においては、証明責任の問題ではない)。
第4 結びに代えて
1、以上における重要論点を要約しておく。そもそも、裁判三段論法において法律は大前提となるのであり、民訴法も法律であるから、民事裁判における手続についての裁判三段論法において民訴法は大前提となる。例えば、民法の要件事実については①(大前提=民訴法第253条第1項第2号、同条第2項)民法の定める要件事実の内容(類型)を5のW(類型)に従って主張させ(主張責任の発生)それを「事実」に記載せよ、②(小前提)当事者は5のW(具体的)に従って要件事実を主張した、③(結論)当事者が5のWに従って具体的に主張した(主張責任を尽した)と判決文の「事実」に記載する、となる。そして、主張責任の根拠である弁論主義は民事訴訟における原則であるから(民訴法第159条、179条)、当然に主張責任も民事訴訟上の道具概念である(民訴法第253条第1項第2号、同条第2項)(20)。さらに証明責任については①(大前提=民訴法第247条、同法第253条第1項第3号)80%以上の心証度が得られないときは証明責任を登場させ種々の基準に従って分配せよ、②(小前提)当事者と裁判所が努力を尽したが存否(真偽)不明に終わった(80%以上の心証度を得られなかった)、③(結論)存否(真偽)不明に終わったので「存在(真実)とは認められない」(通説)あるいは時には「不存在(偽)とは認められない」(前田説)と判決文の「理由」に記載する、となる。
2、さて、右のことを前提とすると、証明責任論争の要約は次の如くである。通説(修正法律要件分類説)によれば民訴法第253条第1項第2号と同条第2項「事実」の解釈は法文の(修正)解釈に依拠し同条同項第3号「理由」(同法第247条)の解釈も同様であるから両解釈は一致する。伊藤滋夫説(裁判規範説)によれば同条同項第2号と同条第2項の解釈は裁判規範(実証明責任規範)の解釈に依拠し同条同項第3号(同法第247条)の解釈も同様であるから両解釈は一致する。松本説(証明責任規範説)によれば同条同項第2号と同条第2項の解釈は修正法律要件分類説に依拠し同条同項第3号(同法第247条)の解釈は証明責任規範(実修正法律要件分類説)に依拠し両解釈は原則として一致する。前田説(純証明責任規範説)によれば同条同項第2号と同条第2項の解釈は法文の規定(21)に依拠し同条同項第3号(同法第247条)の解釈は純証明責任規範に依拠するから両解釈は一致するとは限らないし(22)、訴訟進行は、当事者の主張責任とそれに対する相手方の対応(例えば、否認)に加えて両者の証拠提出責任によって行なわれ、証明責任は最終段階でのみ働くのである。すなわち、通説は証明責任を“目的外使用”しているのである。いずれの説が妥当かは諸者諸賢の御高見をお願いする次第である。
(注)
(1) 本誌631号57頁、632号44頁、636号30頁、640号8頁、643号28頁、650号18頁。前田達明『続・民法学の展開』)(成文堂、2017年)(以下、前田「続・展開」)第2章第2、3、4、6、7節。
(2) 奥田昌道・本誌634号30頁、伊藤眞『民事訴訟法講義 第五版』(有斐閣、2016年)(以下、伊藤・前掲書)367頁。
(3) 松本博之『証明軽減論と武器対等の原則』(日本加除出版、2017年)(以下、松本「原則」)322頁、321頁注(35a)
(4) 憲法第76条第3項により裁判官が裁判するときは手続的にも法的根拠がなければならない。
(5) 伊藤・前掲書309頁、三木浩一ほか『民事訴訟法 第二版』(有斐閣、2015年)(以下、三木ほか・前掲書)206頁。中野貞一郎ほか『新民事訴訟法講義 第三版』(有斐閣、2018年)(以下、中野ほか・前掲書)221頁。
故中野貞一郎先生には数多くの貴重な御教示を賜わり、故福永有利先生とは同志社大学法科大学院においてご一緒に演習を担当させていただいた。ここに、その学恩に謝するために、両先生の御冥福を心からお祈り申し上げる次第である。
(6) 中野貞一郎『民事裁判入門 第3版補訂版』(有斐閣、2012年)269頁。
(7) しかも、こう解した方が、種々の難問を無理なく解決できる(前田達明『民法学の展開』(成文堂、2012年)(以下、前田「展開」)77頁)。
(8) 心証度の程度も「公平原則」に基づく一般的証明責任規範の一例である(「事実の可能性」前田「続・展開」166頁)。
(9) 吉川愼一「不当利得」伊藤滋夫編『民事要件事実講座 第四巻』(青林書院、2017年))122頁(設例3)。
(10) 前田「展開」69頁。通説も同様である。したがって、具体的訴訟において主張すべき要件事実は民訴法第253条第1項第2号、同条第2項の解釈問題である。すなわち、法解釈は“類型化”を明らかにするものでもある。例えば、「法律上の原因なく」の類型化(窪田充見編『新注釈民法(15)』(有斐閣、2017年)84頁)であり、他方、それに該当すべき「事実」の類型化(「5つのW」)である。
(11) なお、松本博之『民事訴訟における事案の解明』(日本加除出版、2015年)(以下、松本「解明」)176頁。
(12) 積極的要件についても同様である(前田「続・展開」188頁を補充しておく)。
(13) したがって、証明が困難な場合に被請求者に証明責任を負わせようとすると、当然に主張責任も負わすことになり、請求者は主張責任さえ負わないということになる。例えば、民法第415条の“履行がない”の証明責任を債務者に負わすためには、主張責任も(“履行した”)負わすことになる。これこそ、「理解しがたい暴挙」(松本「解明」16頁)ではないだろうか。
(14) 訴訟上“ウソをついてはいけない”(事実義務。民訴法第2条)のだから、主張責任を負わない事実の主張についても証拠提出責任は負うのである。したがって、それは、いわゆる主観的証明責任より広い概念である。
(15) 三木ほか・前掲書208頁、中野ほか・221頁は、抽象的事実=要件事実、具体的事実=主要事実とするが両者は抽象度の差に過ぎない。しかも、前者は「大前提=法解釈」の問題であって要件「事実」という用語は不適切であり後者は「小前提=事実認定」の問題であって「要件事実」という用語が適切である。
(16) 三木ほか・前掲書264頁、伊藤・前掲書367頁。
(17) 伊藤滋夫編『新民法(債権関係)の要件事実Ⅰ』(青林書院、2017年)6頁。
(18) なお、立法者が証明責任を考慮に入れて立法していないことは周知のところである。前田達明監修『史料債権総則』(成文堂、2010年)90頁。
(19) 前田「続・展開」245頁注(55)を補充する。
(20) 民訴法第253条第1項第2号、同条第2項は、当事者の主張責任を前提として、裁判所には主張責任に従って「事実」記載を命じているのである(日本民訴法が主張責任を採用したことの認識根拠)。譬えると、「風邪薬」を要件事実とすれば「服用方法」=主張責任=主張の仕方=判決の書き方である。
(21) 例えば、民法第415条の“履行がない”の主張責任は請求者(債権者)にある(前田達明『民法随筆』(成文堂、1989年)248頁)。
(22) したがって、前田説によれば、訴え提起から審理終了まで主張責任(と証拠提出責任)の分配(法典の規定の仕方)によって訴訟手続が進行するが最終段階に至っても存否(真偽)不明に終わったときに証明責任が登場し、それは「純証明責任規範」によって分配される、ということになる。