巻頭のことば
第1回 深海底での資源開発に思う
法政大学大学院法務研究科教授 交告尚史〔Koketsu Hisashi〕
巻頭のことばの執筆機会を頂いたので、合わせて六篇となる文章に何か関連性を持たせられないかと考えていたら、「化石の言い分」という共通表題を付ける案が浮かんできた。化石はもちろん私のこと。1980年代にほとんど化石化してしまって、以降ほとんど進歩がない。けれども、愚痴をこぼす力は残っている。かつて「責任者出てこい」の決め台詞で受けをとったお笑いがあったが、私もその芸に学んで、この身と心に合わぬ世情を嘆くことにしよう。
初回は読者を深海底に誘う。ここには光が届かないので、漆黒の世界が広がっているはずである。だが、人類は今やそこに乗り込んで、闇の空間を構成する様々な要素を自らの眼で捉えようとしている。いや、すでにかなりの程度で捉えられるようになった。人間が光を当てれば、白いエビは白いものとして眼前に現れる。多くの人は、そこに科学の進歩と技術の発達を見出して賛辞を送るのではないか。だが、私はそれを快としない。はっきり言えば、人間が深海底に入り込むことには反対である。静かにしておいてあげてほしい。For their world can never be the world we see. 地上で世人はやたらとスマホを繰る。そのスマホを作るのにも金属資源が必要であろう。さっそく「責任者出てこい」と叫びたくなる。
その責任者が誰なのかはともかくとして、金属の需要があればそれを確保する方向に世の中は動く。どうやらその資源が日本の排他的経済水域に眠っているらしいということが判明し、政府は深海底の資源開発を国の方針とした。そのための基盤形成に努力しておられるのが、理科系の研究者と技術者の方々である。理科系という語は必ずしも明確ではないが、地球科学、地質学、生態学といった理学部系の学問と、海底で動くロボットをどのように設計すればよいかといった工学部系の学問が関係してくることは間違いないと思う。なぜそのようなことにこだわるかと言えば、原子力発電の領域では、湯川秀樹、坂田昌一といった理学部系の学者の退陣が早すぎたと考えるからである。法学者は「専門技術性」という語を頻繁に使用するが、その域で思考を停止してはならない。その専門技術性を支えているのがいかなる学問分野なのかを綿密に検討する必要がある。
このように書くと、化石と自称するこの法律屋は工学を毛嫌いする役立たずに違いないという非難の声があちこちから聞こえて来そうである。たしかに役立たずという評価は当たっている。しかし、工学部系の先生方の学問を端から無視するような態度をとったことはない。工学部系の先生方の中にも私の名前を覚えて下さっている方が一人二人はおられよう。いろいろな会議に出たり、各種のシンポジウムに参加している関係で、工学部系の先生方と接する機会はある。化石化した文科系の小人物にそのような機会が巡ってくるのは一見奇妙ではあるが、それは単にこの問題に取り組む国内法の研究者が少ないというだけのことである。同じ法学でも、国際法の分野には関心をお持ちの方が多い。公海での資源開発のルール作りが進んでいて、目が離せないのであろう。だが、排他的経済水域と領海については、日本の法制度で対応することになる。
昨年の9月に高知大学で理科系の先生方を中心とする研究会が開かれた。高知大学は、府省連携の下に推進される海のジパング計画の課題を分担する研究機関の一つである。その研究会で、私は「海底資源開発と鉱業法改正」という題名の報告をした。その時の原稿が雑誌に公表されるまでに数カ月を要する。ところが数カ月もあれば、開発の技術は驚くほど進歩する。環境影響評価の手法も向上するが、その成果をどこまで事業主体に要求できるのか。国防や資源ナショナリズムも絡み、化石の思考力では捉えきれない複雑な問題である。とはいえ、ただでさえ地上の気象に狂いが出ているのに、深海底にまで損傷を与えたなら地球は生命の星ではなくなってしまうのではないかと不安である。一人でも多くの同業者、さらには広く文科系の方々に問題意識を共有していただきたい。