連載
市場ゲームと福祉ゲーム
第2回 「あるはある」の衝撃
東洋大学ライフデザイン学部教授 稲沢公一〔Inazawa Koichi〕
一定のルールに基づく人々の営為を総体として、ここでは「ゲーム」と呼ぶ。
その上で、「A→A+α」というルールに則って、どこまでも「もっと」の実現を求める活動に「市場ゲーム」と名を付け、さらには、「A→非A」というルールに基づいて、いかなる現実もそのまま無条件に受け入れようとする営みを「福祉ゲーム」と呼ぶ。
では、そもそもこのように世界(現実)をゲーム(フィクション)として捉える視点はどこから始まったのか。
1 神々が営むゲーム
古代において、この世界(自然や宇宙)は、何らかのルール(原理、始源、根拠)に基づいて成り立っているゲームなのではないかと考え始めた人たちがいた。
そして、初期の人たちは、この世界を秩序付ける根拠として神々をおいた。その土地に応じて様々な神々が創り出されたが、たとえばギリシャでは、「まず原初にカオス(混沌)が生じ」、カオスから女神ガイア(大地)などが生まれ、ガイアは、自分の力で「天空」「山々」「大海」といった男神たちを産んでいったとされる。その後、神々が相争い、結ばれ、次々と子を産むことによって世界が秩序立てられていくという神話の時代であった。
神話などというと、現代では冷笑されそうだが、しかし、その根底には、宇宙や自然を丸ごと一つの秩序として、全面的かつ体系的に説明しようとする強い意志、すなわち、この世界を神々の営むゲームとして語りつくそうとする新奇な思考を見て取ることができる。
2 「生ける自然」
続いてギリシャでは、自然の万物について、それらの元になる素材は何かと問う者たちが現れた。その表現は、誤解されかねないほどに簡潔を極めた。
たとえば、「水」。あらゆる生命にとって欠くことができないだけでなく、いかようにも形を変え、恵みをもたらし、大地でさえ水の上にあると考えられた。もちろん、自然や宇宙がすべて水によってできているなどというわけではない。ここで語られ始めたのは、あくまでも世界を説明しようとする原理であって、それが非合理的な神話ではなく、日常的にも了解されるような素材として示されるようになったのであった。
あるいは、「空気」。ここでは濃度が問題とされ、空気が希薄になると「火」に、濃密になるにつれて、「風」「雲」「水」「土」「石」になっていくと考えられた。だが、ここには、そうした自然や宇宙だけでなく、それらと同一の説明原理で人間をも語りたいという意思が看取できる。すなわち、空気とは、大宇宙だけでなく、小宇宙である人間の「魂」による生命活動をも説明する原理とされたのであった。
さらには、「火」。コスモス(宇宙秩序)は「生きている火」であるとされた。また、火は空気になり、空気は水となり、水は土となって、土から火が生まれるといった循環のプロセスとして世界が説明されるようにもなった。加えて火には、燃えながら消えているという特徴がある。たとえば、ろうそくの火は、溶けたろうを消していくことで燃えている。このように、火とは、「燃えかつ消える」「ありかつない」といった互いに背反しているもの同士が調和している状態を説明する原理でもあった。
より抽象的な説明原理も考案された。たとえば、「無限なるもの」。あまりにも多彩で、生成と消滅を繰り返すこの世界を作っている素材とは、何ものにも限定されず、規定もされず、無尽蔵に存在するものであって、さらには、熱/冷、乾/湿といった相対立する性質をも含んで均衡を保つようなものと考えられた。すなわち、無限なるものによって、生滅や相反といった「動き」が一つの調和として説明されたのであった。
後には、すべてのものは数をもち、音階に見られるような数的調和によってこの宇宙が構成されているといった考え方も生まれた。いずれにしても、こうした一見素朴にしか見えない捉え方から読み取れるのは、まず、彼らが何とかこの世界(現実)を総合的かつ統一的に、すなわち、何らかのルールに基づく一つのゲーム(フィクション)として説明するべく全力を傾けたということである。
また、元となる素材については、日常身近なモノであったり、逆に、抽象的な言葉で表現されたりしているが、その背景には、生命現象を生み出し支えていく何かを具体的に指し示そうという意図や、あるいは、昼/夜や夏/冬などの相反する状態が動的な均衡を保ちながら秩序立てられていることを言い表そうとする動機がひそんでいる。
つまり、彼らは、絶え間なく変化し、多様な生命体が生まれては消えていくこの世界をまさに生きている一つの調和的全体として、いわば「生ける自然」とも呼ぶべき一つのゲームとして捉えようとしたのであった。
3 「あるはある」
だが、こうした「生ける自然」という捉え方に対して、決定的にレベルの異なった捉え方が現れる。「女神からの啓示」という神秘的な体裁で示された新たな捉え方の要諦は、「あるはある」「あらぬはあらぬ」と定式化される。
パルメニデスが残した断片については、語句のあらゆる部分に対して、標準的な解釈さえも定まっていないとされているが、とりあえず「あるはある」によって、形式論理でいうところの同一律「A=A」といった、あまりにも自明なルールが姿を現したことになる。
先に見てきたように、パルメニデスが現れるまで、人々のこの世界に対する感性的な捉え方は、千変万化を繰り返してやまない「生ける自然」であった。だが、女神からの啓示によって、「あらぬ」が「ある」になる「生成」も、「ある」が「あらぬ」になる「消滅」も、すなわち「生ける自然」が示すあらゆる変化が否定されたことになる。
目の前の世界は、生滅に満ち溢れている。にもかかわらず、たしかに、どう考えても「A=A」を理性的に拒否することはできない。それは、感性/理性を区別する衝撃的な啓示であった。
「生ける自然」とは、たとえていうなら、ディスプレイに映るゲームや動画のようなものである。そこでは、時が流れ、万物が移ろいゆく。ところが、パルメニデスが端的に「ある」といったのは、映っているゲームではなく、そのゲームを映しだしているディスプレイについてであった。両者の視点は、全くレベルが異なっていることになる。
たとえば、あらゆる物事が無常に生滅を繰り返すとしても、無常であること自体は、無常ではない。ここでは、自己言及が成り立たない。さらに、無常であることに根拠などあるはずもなく、そのような根本ルールとしてただ「ある」としかいえない。
そして、こうしたディスプレイとしての「ある」についての特徴としてあげられたのが「それはあったことなく あるだろうこともない。今あるのである――一挙にすべて、 一つのもの、つながり合うものとして。」「譬えて言えばまんまるい球の塊りのようなもの」(断片8、『ソクラテス以前哲学者断片集Ⅱ』傍線部引用者)であった。
すなわち、どれほど多種多彩なゲームが映されていようとも、それらを映しだすディスプレイは、「一つのもの」、すなわち、「一」として、過去でも未来でもなく、今ここに「ある」というわけである。このように世界すべてを「一」として捉える感覚を私たちは持ちにくいのだが、たとえば、人工衛星から見た地球をイメージすると、世界のすべては、端的に青い「球」という「一」として「ある」。
4 二つの「無限」
「あるはある」によって、この世界がどれほど無数の変化に満たされているように見えても、それを映し出すディスプレイは唯「一」であるとされた。このことを逆から主張したのがパルメニデスの弟子ゼノンであった。すなわち、もし「ある」が「一」ではなく、「多」であったとしたら、「多」は自然数のように、どこまでも増やしていくことができるので、無限に行き着く。そうすると奇妙なことが起きる、と彼はいう。
たとえば、快足のアキレスと亀が競争をする。アキレスには、亀の少し後ろからスタートしてもらう。アキレスが亀のスタート地点に達したとき、亀は少し前にいる。さらにアキレスが亀のいた地点に達したとき、また、亀はほんの少し前にいる。これが繰り返される。つまり、アキレスが以前に亀のいた地点に到達すると、亀は、必ずアキレスの前にいることになり、これが無限に繰り返されて、アキレスが亀を追い越すことはできない。
このように、「ある」を「多」とすると無限によるパラドックスが発生するので、「ある」は「一」でなければならない、というのがゼノンの背理法であった。
とはいえ、これは、二種類の無限を混同させた見せかけの背理にすぎない。
そもそも無限は二種類ある。一つは、無限に大きくなっていく「無限大」。たとえば、自然数の全体といったものを考えるとき、それは終わりない数の羅列として無限になる。自然数とは、あるnに対して、終わることなくn+1を生み出し続ける「ルール」に基づく無限であって、いわば、「ルール無限」であるといえる。
もう一つは、無限に小さくなっていく「無限小」。たとえば、1メートルの棒がある。それを半分にし、残された半分をまた半分にして、さらに、残りを半分に……。どれほど微小になっても、理屈の上で、それはなお半分にすることができる。すなわち、ある長さの線分を無限の点集合として捉えるわけである。これは、人間の「捉え方」によって生み出された無限であって、棒でも、紙きれでも、あらゆる何かを無限として捉えることができる。いわば、こちらは「捉え方無限」である。
このように、無限には、二種類がある。そして、「ルール無限」は有限より大きいが、「捉え方無限」は、有限な何かであってもよいので、たとえば1メートルの棒を無限として捉えた場合、その無限は、2メートルの棒という有限の半分にすぎないことになる。アキレスと亀との距離は、「捉え方無限」であって一定の有限より小さいにもかかわらず、ゼノンは、それを「ルール無限」であるかのように見せかけて、有限では決して越えることができないかのように語ったのであった。
5 超論理「A=非A」
ゼノンがひそかに持ち込んだ「捉え方無限」とは、たとえば一の長さを無限として捉えることであった。すなわちこれは、「一→無限」と定式化することができる。すると、これはパルメニデスの説くところの裏返しであることがわかる。パルメニデスは、無限の様相を呈しているこの世界を「一」として「ある」とした。つまり、これは「無限→一」と定式化できる。
もし、これら二つの式が等しく成り立つのであれば、「無限⇔一」となり、「無限」と「一」は、相互に置換可能となって、「無限=一」ということになる。
パルメニデスは、女神から「あるはある」の啓示を受けた。これは、端的に同一律「A=A」を表している。と同時に、この「ある」は、無限の生滅に満ちたこの世界が「一」として「ある」ことを示していた。であれば、「無限(A)=一(非A)」、すなわち、「A=非A」ということになる。
一方には、「A=A」という理性的には誰も否定することのできない形式論理がある。ところがもう一方には、「A=非A」によって、「一」を無限として捉え、無限を「一」として観取するといった捉え方を支える超論理(メタロジック)がある。
このように、一つの命題から正反対の定式が導出できるのは、「ある」には、「Aである」(述定)と「Aがある」(存在)との二面が含まれていることによる。たとえば、「あるはある」という命題を「『あるはある』である」という述定と捉えれば、そのまま「AはAである」というトートロジーになる。
また、この命題を「『ある』はある」、すなわち「『ある』は存在する」と捉えれば、「ある」が無限を映し出す一つのディスプレイを示していたことにより、「無限が一として存在する」になる。ただしこれは、決して「無限がそのまま一である」などと述定しているわけではなく、あくまでも捉え方についての論述なので、正確には「『無限を一とする捉え方』が存在する」という意味になる。
そして、いかなる「捉え方」も人間の存在を前提としているので、結局「A=非A」とは、ただの「Aは非Aである」を意味するのではなく、あえて強調すれば、「人間は、A(無限)を非A(一)として捉えることができる」と敷衍される。すなわち、人間ならではの可能性を示しているわけである。
6 ゲームを支える超論理
形式的には、同一律「A=A」(花は花である)、矛盾律「A≠非A」(花は人[花でないもの]ではない)、排中律「A∨非A」(花は、赤いか赤くないかのどちらかである)が思考の論理とされている。
これに対して超論理「A=非A」は、繰り返して強調すれば、「人間は、『AはAではなく、Aでないものであって、Aでもありかつ非Aでもある』と捉えることができる」ということを表している。すなわち、この超論理は、人間が形式論理には収まりきらない存在であるということを示しており、逆にいえば、形式論理からはみ出た人間の営為を定式化しているということになる。
古代の人々は、形式論理では記述することのできない現実の圧倒的な千変万化に翻弄されながら、何とかその生滅(ゲーム)の背後にある原理(ルール)を捉えたいともがき続け、女神の導きで超論理を手にしたのであった。
たとえば、さきほども触れたように「無常である(=A)」というルールそれ自体は、「無常ではない(=非A)」。このように、ルールは、超論理から導き出される。反対に、何かのゲームについて、そのルールを問うていけば、必ず超論理にたどり着く。というのも、そもそもゲームとは、本稿の冒頭で立てた問いのように、何らかの現実(A)をフィクション(非A)として捉えようとしたとき(「A=非A」)に生まれる営為だからである。
このようにゲームそのものが「A=非A」によって成り立っているのであるから、そのルールは、必ず超論理から導出されることになる。そして、市場と福祉といった二つのゲームを支えるルールもまた超論理から生まれてきた。というのも、一見して明らかなように、「A=非A」が成り立つとき、私たちは、福祉ゲームのルールである「A→非A」を自在に活用することができる。
さらに、市場ゲームのルール「A→A+α」における「A+α」は、そもそも「A」ではないという意味では、「非A」の一要素にすぎない。逆にいえば、福祉ゲームの「非A」一般を「A+α」へと限定することによって誕生したのが市場ゲームであって、今では想像もつかないが、市場ゲームは福祉ゲームの亜種にすぎなかったのである。
そして、この「非A」を「A+α」に限定するという作業は、女神の啓示から2000年を経たオランダの片隅でひっそりと行われた。