自著を語る
『実証から学ぶ国際経済』
国際経済学と実証分析
慶應義塾大学教授 清田耕造〔Kiyota Kozo〕
京都大学教授 神事直人〔Jinji Naoto〕
「この度、国際経済学の新しいテキストを出版致しました」と私たち筆者が友人・知人に報告したところ、最初の反応は「既に数多くの国際経済学のテキストが出版されているのに、なぜまた新しいテキストが必要なの?」というものでした。
私たちのテキストの新しさは、国際経済学の中でも実証分析に主眼を置いている点にあります。ここでは、私たちがなぜ新しいテキストを執筆しようと考えたのか、また今回のテキストにどのような想いを込めたのかを詳しくご紹介致します。
申し上げるまでもなく、日本は、諸外国と比べて天然資源の乏しい国です。石油をはじめとする多くの鉱物資源や食料品を輸入に頼っています。外国との貿易や投資なしに、私たちの生活は成り立ちません。このような外国との貿易や投資の重要性を踏まえて、日本では以前から国際経済に関する研究が活発に行われていました。日本の国際経済学の研究者の中には、世界的に著名な方も少なくありません。
日本の国際経済学の研究では、伝統的に理論分析に主眼が置かれていました。その理由は、そもそも世界の国際経済学の研究において、理論分析が中心的な位置を占めていたことにあります。このような背景から、これまでに書かれてきた日本の国際経済学のテキストでも主に理論モデルの説明に焦点が当てられてきました。大学で国際経済学を学んだ経験のある方の多くは、リカード・モデルやヘクシャー=オリーン・モデルといった理論モデルの理解に大半の時間を費やしたのではないでしょうか。
しかし、自然科学では一般的ですが、理論分析と並んで重要なのが実証分析です。理論分析から得られる仮説が現実ときちんと合っているのかを判断するためには、データと統計的な手法を駆使した実証分析で検証する必要があります。また、既存の理論モデルでは説明できないような事実が実証分析によって発見され、それを説明するために新たな理論モデルが考案されることもあります。このように、理論分析と実証分析がいわば車の両輪のようになって、学問分野が発展していきます。
国際経済学も、理論分析と実証分析の相互の進展によって発展してきた学問分野の1つです。国際経済学における実証分析の重要性を示す一例として、国際貿易のモデルとしては有名なヘクシャー=オリーン・モデルに関する実証分析を挙げることができます。ヘクシャー=オリーン・モデルは2国・2財・2生産要素という単純な枠組みと、完全競争・規模に関して収穫一定の生産技術という標準的な経済学の仮定から成るモデルです。このモデルは、その単純さ故に、とてもエレガントに比較優位の原理が貿易構造を決定するメカニズムを示してくれます。
理論的には完成されたモデルのように見えるヘクシャー=オリーン・モデルですが、いざ現実の国際貿易を説明しようとすると、実は成績がそれほど芳しくありません。ヘクシャー=オリーン・モデルを実証分析の俎上に載せるときには、2国・2財・2生産要素を多数国・多数財・多数要素へと拡張したヘクシャー=オリーン=バーネック・モデルと呼ばれるモデルが利用されます。そこから得られる仮説を検証すべく、これまで数多くの実証分析が行われきました。そして、その結論の多くはモデルから導かれる仮説が必ずしもデータによって支持されないというものでした。
理論の妥当性に疑問を投げかけるという実証分析の結果は多くの研究者に衝撃を持って受け取られました。しかし、実証分析の蓄積から、モデルの仮定を緩めると説明力が大きく改善することもわかってきました。さらに、最近では、ヘクシャー=オリーン・モデルとリカード・モデルを融合することで説明力を改善しようとする試みが行われています。理論分析から得られた知見を実証分析によって検証することによって、理論分析の仮定のどの部分が特に非現実的なのかを判断することが可能になります。このように理論分析と実証分析が相互に進展することで国際経済学が発展し、現実の経済活動に対する私たちの理解がさらに深まることになるのです(なお、ヘクシャー=オリーン・モデルに関する実証分析については、本書の第1章で詳しく解説をしています)。
このようなヘクシャー=オリーン・モデルは各国の異なる産業と産業の間の貿易を説明するためのモデルです。1980年代以前は国際経済学の実証分析と言えば、ほとんどが国レベルや産業レベルのデータを用いた分析に限定されていました。1990年代頃からは企業レベルや事業所レベルの、いわゆるミクロデータと呼ばれる詳細なデータを用いた研究が始まり、貿易や投資と企業を結びつける新しい事実が次々と提示されました。その結果、実証分析の重要性に対する認識が飛躍的に高まることになります。
こうした研究は、2000年代になってさらに大きく飛躍します。それは、ミクロデータを用いた実証分析によって様々な新しい発見があったことに加え、その新しい発見を説明するモデルとして、メリッツ・モデルと呼ばれる新しい理論モデルが開発されたことによります。ここでも、実証分析が大きな役割を果たすとともに、理論分析と実証分析がうまくかみ合って、研究の飛躍的な発展につながりました(このようなメリッツ・モデルの実証分析については本書の第3章で詳しく解説しています)。
かつては、学会における国際経済学の研究報告の大半は理論研究でした。最近は、むしろ実証研究の報告の方が多く見られます。とくに、米国や欧州での学会や研究集会ではその傾向が強く見られます。そのことを示す一例として、私たち筆者がともに参加した、2017年9月にイタリアのフィレンツェで開催された国際貿易に関する国際研究集会を挙げることができます。この研究集会では、300以上の研究報告がありましたが、そのなかで何らかの実証分析を含む研究報告が実に全体の8割以上を占めていました。
このように、多くの国際経済学者が実証分析を行うようになった現在では、これからこの分野の研究者を目指す若い皆さんにとって、早い段階から実証分析に触れておくことはとても大切なことと考えられます。しかし、先にも述べましたように、国際経済学に関する実証分析の知見や方法について詳しく解説した日本語のテキストはほとんど出版されてきませんでした。私たちの知る限り、そのようなテキストは1995年に木村福成氏と小浜裕久氏が共同で執筆された『実証 国際経済入門』(日本評論社)1冊のみです。この本は、日本で初めて国際経済学の実証分析を丁寧にまとめた貴重な書籍ですが、出版からすでに20年以上を経ており、一部の内容が古くなってしまっていることも事実です。これでは、専門家でなければ、最近の実証研究で得られた知見に触れる機会を得ることは容易ではありません。このような現状をなんとかしたいという想いが私たち筆者にありました。本書は1990年代以前の主要な実証研究だけでなく、2000年代以降の新しい実証研究もカバーしています。また、研究のフロンティアをコラムという形で紹介しました。
国際経済に関する実証分析の知見や方法について知って頂くのが重要であることは、研究者を目指す皆さんに限ったことではありません。これから社会に出て活躍する大学生の皆さんや、一般の社会人の皆さんにも、これまで国際経済についてどのような研究が行われてきていて、どのようなことがわかってきているのか(あるいはどのようなことはまだわかっていないのか)ということについて知って頂き、関心を持って頂くことは大切だと考えています。
私たちがこのように考える理由は次の点にあります。加盟国間の貿易や投資を自由化する環太平洋経済連携協定(TPP)などの協定を巡って、国際社会において活発な動きが見られます。2017年1月に発足した米トランプ政権が政権発足直後にTPPからの離脱と北米自由貿易協定(NAFTA)の再交渉を宣言したことは、多くの方の記憶に新しいでしょう。こうした貿易や投資に関する協定は私たちの暮らしにも影響を与えるものです。しかし、実際にどのような影響があるかについて、私たちはどの程度理解しているのでしょうか。また、そもそも国際的な貿易や投資が私たちの生活とどのように結びついているかということや、日本と外国の貿易にどのような要因が影響しているのかということについても、十分に理解しているとは言えないのではないでしょうか。このため、学術的な研究によって国際経済についてどのようなことがわかってきているのかを知ることは、国際経済をめぐる様々な問題を理解する上で重要だと私たち筆者は考えています。
私たち筆者のこれまでの経験から申し上げると、実証分析には理論を学ぶ以上に面白い側面もあります。とくに、実証分析を通じて、標準的な教科書で学んだ理論が現実と適合する瞬間を目にすると、感動を覚えることも少なくありません。このような面白さを伝えたいと考えました。
パソコンの性能が向上し、インターネットが普及したことで、実証分析に取り組むハードルそのものは以前と比べて格段に下がりました。しかし、既存の実証分析の知見を理解することと、自分で実証分析に取り組むことの間にはギャップがあります。パソコンで簡単なグラフを作成することくらいはできても、データを用いて統計的な分析ができるようになるまでは大きなハードルがあると感じている方は少なくないのではないでしょうか。私たち筆者は、本書を読んで読者ご自身が国際経済学の実証分析に取り組んでみようと思って頂けるようになることを目指しました。そのため、実証分析を始める第一歩をアシストしようと、各章に設けた練習問題のなかに、実際にデータを使って分析をするような問題も含めました。こうした練習問題に取り組むことで、心理的なハードルは高くても、実際にやってみると案外簡単に実証分析ができることがわかって頂けるはずです。本書を通じて、読者の皆さんに国際経済に関する既存の実証分析について知るだけでなく、実証分析の面白さを実感して頂けたらたいへん嬉しく思います。