連載
市場ゲームと福祉ゲーム
第1回 「自分のことは自分で」の罠
東洋大学ライフデザイン学部教授 稲沢公一〔Inazawa Koichi〕
私たちは、目の前の現実に対して、もっとこうした方がよいと修正することもあれば、このままでよしと受け入れることもある。すなわち、私たちは、その都度さまざまなレベルでNGとOKを繰り返しながら日々を送っている。
本連載は、こうした現実に対する私たちの「否定/肯定」という評価を二極化させて、それぞれを現状否定に基づく「市場ゲーム」と現状肯定で構成される「福祉ゲーム」という2つのゲームとして描く試みである。
1 なぜ「ゲーム」なのか
社会科学の理論は、通常、その抽象化の程度は様々であるとしても、何らかの社会的な「現実」を精査することによって帰納的に抽出されることが多い。ここに取り上げる「市場」であれ、「福祉」であれ、それらはまごうことなき現実的な場そのものであり、また、そこにおける人々の多種多様な営みを指している。
ところが、ここでそれらに付け加えられた「ゲーム」とは、現実の理論化によるものではなく、一定のルールによって演繹的に構成される「フィクション」を意味する。すなわちここでの試みは、市場や福祉を一種のゲームとして新たに記述しようとすることなのである(ゲーム理論とは無関係)。
また、「ゲーム」という言葉によって、一定のルールに基づいていることを明示することができるだけでなく、そのルールには根拠がないということを含意させることもできる。たとえば、なぜラグビーではボールを前にパスしてはいけないのか。どうして、将棋の「銀」は真横に進めないのか。いずれも、このゲームでは、そのように決まっているとしかいえない。
このように「ゲーム」という表現によって、そのルールが無根拠のままに、とりあえず、そのようにして始めてみるといった取り決めであることを明示している。したがって、ルールは、端的にいえば、そこから始めるという意味での「始源」であり、それによってゲームを成り立たせているという意味では「根拠」であるということになる。
2 2つのゲーム
本連載で取り扱うのは、市場ゲームと福祉ゲームの2つである。というのも、人々が現実に対して取りうる最も基本的な態度は、その極として、目の前の現実を「否定する」か「肯定する」かの二項に純化させることができるからである。
そしてここでは、現実をそのままでは否定することを「市場ゲーム」、そのまま肯定することを「福祉ゲーム」と呼ぶことにする。もちろん、実際の「否定/肯定」の度合いは、多彩な場面で無数のグラデーションを描いており、たとえば、権力ゲームは、現状に満足せずさらなる上を求める市場ゲームの系列にあり、恋愛ゲームは、相手を「それでよし」と肯定していく福祉ゲームの系列にある。
この内、市場ゲームでは、そのままの現状が否定されるので、実際的には、「もっと○○」であるよう変化させることが求められる。たとえば、市場を流通する商品には、「もっと安く」「もっと便利に」などが求められ、さらには、市場に参入している人々に対しても、「もっと効率よく」「もっと成果を」などといったことが要請される。市場とは、まさに「もっと」を求めるというルールに基づくゲームであるといえる。
こうした市場ゲームのルールを定式化すれば、「A→A+α」になる。市場ゲームとは、現状(A)に対して、「もっと(+α)」の実現をめざす(→)ゲームなのである。このルールに基づくとき、「もっと(+α)」の実現という条件がクリアされると肯定的に評価され、クリアできない場合には否定的な評価が下されることになる。すなわち、「条件付きの肯定/否定」が市場ゲームを成り立たせている。
これに対して、もう1つの福祉ゲームでは、何らかの現状に対して、それがどのような状況や状態であっても、「もっと」などといった一切の条件なしに、そのままでOKとして受け入れていく。すなわち、「無条件の肯定」によって成立するのが福祉ゲームである。そこにおいて人は、たとえ何もできなくても、何もわからなくても、そのままで受け止められる。
ここでのルールを定式化すると、「A→非A」となる。というのも、福祉ゲームでは、どれほど「否定的なもの(A)」(たとえば、できることが限られ、手がかかるだけの赤ん坊)であっても、そのまま「肯定的なもの=否定的でないもの(非A)」(愛しい存在)とする価値の変換(→)が行われるからである。したがって、福祉ゲームとは、「A→非A」というルールに基づいて、いかなる現実に対しても、それを無条件に肯定するゲームと定義されることになる。
このように私たちは、「A→A+α」というルールでの「条件付きの肯定/否定」によって成り立つ市場ゲームと、「A→非A」による「無条件の肯定」に基づく福祉ゲームとをそれぞれの極に据え、その両極の間で無数の「NG/OK」の評価を行い、あるいは評価されながら日々の生を営んでいる。
では、ここで市場ゲームの入り口とその一元的世界の行き着く先を概観する。
3 「自分のことは自分で」
私たちは「自分のことは自分でしなさい」としつけられてきた。自分でできるのに他人にやってもらうなどと甘えてはいけない、他人にできるだけ迷惑をかけないようにしなさい、というわけである。たしかにその通りであり、何らの異論をはさむ余地もない。
そして、この「自分のことは自分で」が市場ゲームの入り口になっている。すなわち、このルールに納得し、それに従って生きようとするとき、人は市場ゲームの参加者となる。理由は、大きく2つある。
1つは、この「自分のことは自分で」によると、自分ですればOKであり、自分でしなければNGになるので、このルールは「条件付きの肯定/否定」になっている。また、たとえば試合に勝つことであれ、テストの点数であれ、あることができるようになれば、「もっと」できることが求められ、自分でも求めていくので、「もっと」を目指す努力が求められる。つまり、「自分のことは自分で」に基づいて生きていくことは、そのまま「A→A+α」で表される成長や発達を実現すべき目的として設定することになるといえる。
また、もう1つの理由は、「自分で」といっても、実際にできることなどほとんどないに等しいという事実に由来する。たとえば、自分で食事をする場合、たしかに、目の前の料理を取り分け、自ら口に運び、などといったことは「自分で」行っているといえる。しかし、その料理は「自分で」作ったものなのか。たとえそうだとしても、その食材や調味料は、皿や鍋は、火力や衣類は、結局、すべて買ったものでしかない。つまり、私たちが「自分で」できることは極めて限られており、生活のほとんどすべては、他の人々が用意してくれたものをただ「買う」ことで成り立っている。もちろん、それは実際の市場において、である。したがって、市場ゲームから降りることはできない。
このように、幼心にも「自分のことは自分で」やらなければと考えるようになった時点で、私たちは、市場ゲームに参加し始める。その目標は、「自分で」「買う」ことができるようになることであり、「もっと」たくさん「買う」ことができるようになることであって、そのためには、目先の勉強や仕事を「もっと」がんばらなければならないと思い込むことになる。
4 市場ゲームの一元的世界
市場ゲームの参加者たちには、「自分のことは自分で」することが求められる。しかし、私たちが「自分で」できることは、ほとんど「買う」ことだけである。したがって、市場ゲームでは、とりあえず「自分のことは自分で」「買う」こと、つまり「稼ぐ」ことがクリアすべき条件となる。自分で賄えるほどに「稼ぐ」ことができればOKであり、「もっと」「稼ぐ」ことができれば、より肯定的に評価される。
このルールを反転させると、「自分で」「稼ぐ」見込みのない人たちには、NGが突き付けられる。ましてや「稼ぐ」どころか身の回りのことであっても「自分で」できない人々は、そもそも市場ゲームに参加することもむずかしい。
そして、もし、市場ゲームだけで成り立つ一元的世界を想定してみると、どういうことになるのだろうか。市場ゲームでは、「自分で」「できる/できない」の条件が問題になる。しかし、もともと人は、ほとんど何もできない状態でこの世に「被投」される。成長するにつれてできることが増える場合もあれば、できない状態におかれたままの人たちも存在する。
あるいは、できていたにもかかわらず、さまざまなアクシデントによって、いきなりできなくなる人たちもいる。そして、今できている人たちも、いずれはできない人になる。
ところが、市場ゲームは、このように条件をクリアすることの「できない生」を否定する。しかも、このゲームそのものが「もっと」に基づいているため、「否定」のあり様にさえもまた「もっと」が適用される。したがって、市場ゲームでの否定は、「憐れみ」から「蔑み」に、「差別」から「排除」に、そして、あの事件へ。
それは、まさに最悪のシナリオであった。
だが、深刻なのは、市場ゲーム一元的世界のどこにも、このシナリオの成立を阻止する根拠が見出しえないということである。市場ゲームでは、「自分で」稼ぐ人だけがOKであり、かつ、NGの増殖を止めることができない。ということは、市場ゲームこそがあの事件の出自であることになる。市場ゲームの暴走に歯止めをかけることができるのは、それとは別のルールに基づく福祉ゲームであって、2つのゲームをともに成立させた二元的世界において、ようやく私たちの生はバランスを保つことができる。
とはいえ、二元的世界へと急ぐ前に、これら2つのルールが生み出された出発点を確認しておきたい。遡ると、それは、古代ギリシャにおける女神からの啓示にある。