有斐閣創業140周年記念シンポジウム
Discussion
慶應義塾大学教授 井手英策
東京大学教授 宇野重規
慶應義塾大学教授 坂井豊貴
慶應義塾大学准教授 松沢裕作
パネルディスカッション司会:三浦まり(上智大学教授)
『大人のための社会科』は有斐閣創業140周年記念出版として、2017年9月に刊行されました。9月29日に慶應義塾大学三田キャンパス北館ホールにて開催のシンポジウムの模様を抄録いたします(編集部)。
『大人のための社会科』とは
井手 『大人のための社会科』は、この4人でかなり激しい議論をして、ようやく出来上がった本です。僕たちのこの本の中には答えっていうのはほとんど書いていない。だけど、それぞれの項目について僕たちの思うこと、考えることが詰め込まれてます。それを皆さんにお読みいただいて、それを土台にしながらさらなる議論へ、さらなる議論へと進むことを願って、この本をつくりました。
宇野 エルンスト・ブロッホという異端のマルクス学者の言葉なんですが、希望とは「まだ―ない」ものである、と言うのです。つまり、まだ形になっていないもの、自分自身、まだわからないけれど、自分の中にある思いのようなもの、こういったものが人間を動かすんだと言います。特に見通しのつかない、今みたいな時代においては、何か自分の中にあるモヤモヤとした思い、これを形にしていくこと、これが希望だというのがブロッホの考えです。それこそナチの時代です。全然希望のない時代の言葉です。
政治とはみんなが漠然と思っている思いを形にするものです。そういう意味では小池(百合子)さんが、政治に希望という言葉を持ち出したのも不思議ではない。ただ、僕は言いたいんです。希望って本当は一人ひとりの個人が持つものですよね。政治家が希望って語るときには、大体眉にたくさん唾つけたほうがいいです。ヒトラーだって希望と言って登場しました。それよりも大切なのは、自分が何を本当に希望しているかわからないけど、アクションしてみようよ、ということです。
坂井 私は経済学者です。いささか固い話になりますが、この本をつくるときのモチベーションについてお話したいと思います。経済学というのは一つの言語なんです。たいていの学問は言語ですが。じゃあ経済学はどういう言語かというと、人間、とりわけ個人の行動を損得で説明するのが上手な言語です。損得で説明するというのは、説明力がけっこう高いんです。でも当然なんだけれども、それはまったくもってすべてではありません。損得の言葉づかいというのは、基本的にはですが、私的領域の言葉づかいなんです。つまり、私に関する決定をする。そういうものを描写するときに経済学の言葉はとても説明力が高い。しかしながら、「私たち」のことに関する公的領域の言葉づかいとして機能するかというと、必ずしもそうではありません。
一例を挙げたいと思います。経済学には公共財というものがよく出てきます。みんなが共同で使う公共財。どんなふうに出てくるかというと、みんなが共同で使うので、その拠出に貢献しない奴が出てくる。フリーライドする奴が出てくる。というような感じで公共財が語られることが多いです。
でも、みんなで、私たちで共同で使う公共財の話をするときに、じゃあ「みんな」って誰なんだろうか。そして、「私たち」というのは一体どの範囲までを含んでいるんだろうか、ということは基本的には扱いません。公共経済学の教科書にも載っていない。つまり、公共とは何か、公の事柄とは何か、というのを語るのに、あんまり経済学というのは、少なくとも現時点では足りてはいないわけです。言葉づかいとか言語というものは非常に強烈なものだ、と私は考えております。要するに、ある言語でしゃべっているうちに思考がその言語に染められてしまうようなところがあります。これを経済学でやるとどうなるかというと、公的領域、私たちの事柄というものも、私的領域の思考でしか考えない、という傾向が生まれがちです。それはやっぱりよろしくないだろうと。
私的領域というのはわりと自分のことなので、それなりになんでもやっていいんだけれども、公的領域にそのマインドセットだと良くないだろうと。というわけで、経済学のみならず、もっといろんな多角的なものの見方を伝えたい。
松沢 私は歴史学者です。歴史学者というのは、仕事の上では過去を見ているわけですね。すでに終わった何かについて語ることが仕事です。ですから、今これからどうするか、前向きな改革プランを語るとか、希望を語るとかいうのは、少なくとも直接には歴史家の仕事ではないんですね。そして人類の歴史というのはそんなに幸せに満ちたものではないです。わりと悲惨なことが頻繁に起こるし、絶望したくなるような出来事って過去にいっぱいあるわけですね。じゃあ歴史家には何も仕事がないのかというと、井手さんにこういう本を出したいと言われたときに、なくはないだろう、あるだろう、と思ったわけです。その理由を一つお話したいと思います。
悲惨なことがたくさんあった歴史を数多く見ているからこそ、これだけは避けようよ、という最低限みたいなところに気がつくのが歴史家にはあるんじゃないか。そういうことを思います。その一つが、ものすごく単純なことですが、嘘をつくとろくなことにならないだろう、ということですね。この本で、例えば「信頼」という問題が取り上げられていますけれども、信頼は社会をつくる要素としてすごく重視されているわけです。当然ですが、嘘をついて、あとでその嘘がバレたら信頼は成り立たないわけですよね。
かたや今、世情をフェイクニュースなる言葉が賑わしている。ポスト・トゥルースの時代といわれたりするわけです。フェイクニュースを流す人の背景にあるのは、本当かどうかはどうでもいいんだ、効果が大事なんだ、という考え方だと思うんですね。一つの命題が今どういう効果を持っているか、どういう役割を持っているか、それだけに注目する見方なんだと思います。歴史学はその性質上、そういう嘘を非常に嫌うわけです。つまりフェイクニュースが過去に存在していたとすれば、歴史家としてはそれを選り分けなければいけない。それが仕事なわけです。人間というのは常に正直でいられるほど強い生き物ではありません。私だって嘘をつきます。だけれども、問題は嘘をつかせない、あるいは嘘をつかずに済むような状況をどうやってつくり出すかだと思うんですね。歴史家というのは、過去の人間に嘘をつかせない方法、過去の人間がついた嘘をどうやって弁別するかという方法をそれなりに蓄積しているわけです。そういったものが現代の人間に共有できれば、なにがしか、よりよい社会をつくるために役に立つんじゃないかと思ったわけですね。
パネルディスカッション
三浦 上智大学の三浦です。今回この本を読んで、心がとてもあたたかくなりました。私が受け取ったメッセージの一つは、「信頼」ということです。4人の先生方は日本社会を信頼しているという強いメッセージを出されています。
今の社会状況、あるいは政治状況は、絶望したくなるようなことがたくさんあります。混迷した状況の中で、松沢さんがおっしゃっていたような効果だけを狙ったフェイクニュースも溢れ、一体何を信頼していいのかわからない状況なのに、4人の方はまったく諦めていない。非常に強く日本社会を信頼していて、読みながら、あらためて心が落ち着いてきたところがあります。そうやって本を書いてくださったことに、感謝をしたいと思います。
GDPに代わる指標
三浦 まず井手さんにお伺いします。将来の不安をなくすことが大切であると、具体的に政治的にも発言をされてご活動なさっていますが、この本の最初は経済成長、GDPを疑うところから始まっています。GDPを疑うとなると、一体私たちは何を指標として掲げるべきなのか。私たちが目指すべき社会の指標は何になるのか。これについての井手さんのお考えを教えてください。
井手 いかなる指標ならいいのか、という発想自体がもう無理なんじゃないかという気がするんですよね。坂井君が訴えていることの一つは、その指標化して物事を判断すること自体の是非、という気が僕はするんですね。
例えば政治家や有権者が一番求めているものは何か。それは「実感」なんだと思います。実感と、それを置き去りにした指標。このギャップがすごく大事なことだと思っています。
もう少し具体的に言えば、アベノミクスで例えば名目GDPが仮に490兆円から540兆円になったとしても、人々は暮らしの豊かさの実感を持てていないということです。じゃあそれを別の幸福度の指標に置き換えて、あなたは幸福ですよと言われたからといって、その人が幸福だと感じるとは思えないわけです。僕は財政学者なので、例えば税をこれくらい払うと、その税を払うことによって、これだけ生活が楽になったという実感を持てる、そういう具体的な提案ができるかどうかにかかっていると思います。
三浦 問題は指標というよりも、私たちがどんな社会を目指そうとしているかという議論が不十分なまま、指標の独り歩きが、目的化していることですね。このことが危険だというご趣旨ですね。
合意形成のあり方
三浦 この本では議論すること自体の重要性を訴えられています。私たちはどういう社会を目指すのか、経済成長以外の目的は何なのか、今まで話し合って合意形成する経験をしてこなかったと思うのですね。そのため新たな社会のあり方について議論を通じてどうやって合意形成をしていくのかが、大きな課題になっていると思います。坂井さんはどうお考えでしょうか。
坂井 まずは(アイザリア・)バーリンによる有名な、自由の二分類というものを申し上げたいと思います。自由には、彼いわく2種類ある。一つは積極的自由、もう一つは消極的自由です。積極的自由は、政治権力への自由なんです。一方の消極的自由は、政治権力からの自由。政治権力にあまり好き勝手にされずに、自由に生きるんだ。僕自身は、個人的には消極的自由でけっこういいんじゃないかと思うんです。でも、消極的自由だけをみんなが持っていて、消極的自由って守られるだろうか。これが次の問いかけになりまして、そうはならない。消極的自由という尊いものが維持されるためには、当然ながら、僕の自由が維持されるためには政治権力を誰かがうまくコントロールしないといけない。だから積極的自由にも自分はコミットせざるをえないんだ。そして、積極的自由にコミットして、政治権力をうまく自分たちでコントロールしようと。このときには自分たち、私たちでどうにか合意形成をする。合意できない人でも、ある程度納得してもらう、ということが必要になってくるんだと思います。
合意形成、あるいは積極的自由にそもそも参加すること自体が非常に面倒くさいことである。これは間違いないことだと思います。かつ能動的市民と受動的市民という古い、ちょっと嫌な言葉を使いますが、いわゆる能動的市民になること自体が公共財の役割を果たしているんだと思います。要するに、自分は意思決定に面倒くさいから関わりたくない。他の人たちがうまく決めてくれればいいじゃないか。というふうになって、結局さっきのフリーライドという言葉を使うんですが、政治の領域でフリーライドが起こっている状況が今なのかなあと思います。
市民が切り拓く歴史
三浦 それを乗り越えないといけない、ということになるわけですね。若者の新しい政治参加といったことに私たちはついつい希望を感じたくなるところですが、いま坂井さんがご指摘なさったような能動的市民が切り拓く新しい歴史というのは、今の日本の状況ではどのようにご観察なさっていますか。これは、この本の中で、歴史家として構造的な転換のことも書かれていた、松沢さんにお伺いするのがいいかなと思うのですが、どうでしょうか。
松沢 現在の政治参加の動きとかが歴史を切り拓いていくのか、という質問に端的に答えると、切り拓いていくと思います。問題は切り拓く程度の問題と、切り拓き方だと思います。大体歴史というものは、確かに構造的な背景があるわけですけれども、人間抜きで起こることはないわけです。戦争だって政局の変化だって、なんだって人間がやるわけですから、人間の主体的な行動抜きに何かは絶対に起きない。ただそこで注意したいのは、それをやるときに最低限少なくとも自分はこれで幸せになると思って主体は行動するわけですよね。運動参加者の場合は自分だけじゃなくて、こういう方向でいけば他人を不幸ではなく、幸せな方向に持っていけると思って動くわけです。だけれども、歴史で起きていることというのは、必ずしもその結果が思うようにみんなが幸せにはならない、ということだと思うんです。切り拓いていくか、いかないか。それは切り拓いていくと思いますが、そこが思わぬ落とし穴に陥って、結果としてなぜかみんな不幸になっていたみたいなことが発生しないようにするにはどうしたらいいか、というのを考えるのが社会科学なんだろうと。それがまさに『大人のための社会科』の課題なんだろうな、と私は思います。
三浦 それが冒頭でおっしゃっていた、嘘をつかせないような仕組みをつくっていく、あるいは過去の嘘を歴史家として暴いていくことがとても重要だという話につながりますね。
自分の利己心だけでなくて、これが世の中にとっていいだろうと思って動く能動的市民のお話をされましたがが、他方で自分の権力しか考えていないような人も散見される世の中ですよね(苦笑)。それに関して宇野さんはどんなふうに見てらっしゃるのでしょうか。
信頼をつくり直す
宇野 いろんな国際的な統計を見ると、日本は必ずしも信頼が高くないんですよね。他人を実は信頼していない社会。僕らは身近な人間を信じていると思うんですけれども、世の中の他者一般に対して信頼しているかといえば、日本は決してそうとはいえない社会です。本当にそうなのかな、というのがひとつの議論のきっかけでした。他方で僕はここにいるメンバーをすごく信頼しています。でもこのメンバーって面白いと思いません? 財政社会学者だったり、経済学者だったり、歴史学者だったり、そして僕は政治学者です。専門から言えば、バラバラです。
政治学者のあいだだけで議論をしたら話は簡単です。でもそこから一歩出ないと、議論が広がらない。こうやってみんなで議論をした結果、視野が広がっていく。これがたぶんポイントだと思うんです。社会心理学者の山岸俊男さんが言っていますね。日本というのは安心社会だけど信頼社会ではない。どういうことかというと、わりと身内、同じ集団の人間は信用する。しかし集団を一歩外に出ると、その外にいる人はわからない。組織の中にいてこそいいんですけど、組織を一歩外に出て、組織の人と違う価値観、違うことを考えている人とどうやって信頼関係を結ぶか。これが実は大切なのに、日本はそこが薄い。それがひょっとしたら、日本における一般的信頼の低さかもしれない。
でも今は人生100年時代です。一生涯一つの組織の中で自己完結する人生なんてありえない。いろんな組織といろんな関係を持ちながら人生を過ごしていきます。一歩組織を出たらもう危ないというのでは、誰も安心して生きていけません。井手さんのいう必要性、ニーズというのはまさにそのためにあり、組織に属している人間にはメリットがあるけど、外に出た人間はあとはもう知らないよ、というのではない。どこに属している、どんな人であっても、基本的な必要性は満たされる。それがあってこそ、人間はいろんな組織との自由な付き合いができますし、勇気を持って組織を出て、新しい組織と関係を持ったり、あるいは組織とは関係しないでフリーランスとして生きていくこともできる。そういう意味で社会全体の基本的信頼がないと、やはり議論もできない。だからこそ安易な、先ほどの希望ではないですが、公共空間を「
ヘイトスピーチもそうですね。あれはまさに、外に敵をつくることによって擬似的に自分たちは仲間だという感覚をつくりますけど、それは本当に自分の身の回りの人とうまく信頼関係をつくれないからです。外に誰か敵をつくって、自分たちの薄い関係をなんとか補おうとする。私はやはり信頼の欠如、日本社会における信頼を基盤からつくり直していく、これが重要だと思っています。
三浦 今のお話では、信頼がないから議論もできない、話し合えない、ということでしたが、伺いながら、たぶん日本社会は議論が足りないからお互いを信頼することもできない、とも思いました。
望ましい選挙制度とは
三浦 もうちょっと具体的な話をお伺いしたいと思います。先ほど坂井さんには合意形成についてお伺いしました。合意形成をしていく上では議論が必要ですが、他方で私たちは選挙という形で答えを出さないといけない時があります。総選挙も近づいていますが、いま衆議院で採用されているのは基本的に小選挙区制です。坂井さんは選挙区制を、日本の政治状況、文化的な背景を踏まえた上でどのように評価なさっていて、どのような選挙制度が望ましいとお考えですか?
坂井 政治学には、デュヴェルジェの法則というものがあります。この法則によると小選挙区制で与党側も野党側も選挙協力をする強力なインセンティブが働くわけです。よって、デュヴェルジェの法則の観点から見るとですが、希望の党と民進党が連合するのは当然起こることです。とはいえ、デュヴェルジェの法則は法則というほど経験的に当たるものではない、ということもまた知られています。なんでかというと、デュヴェルジェの法則は非常にシンプルな理論モデルが想定されているんですね。そして現実というのは、理論ほどシンプルではないんです。というわけで、実際に日本には小選挙区制導入後も多くの政党が乱立していたわけですよね。もちろんそれにはいろんな要因があるんですが、とりあえず割愛します。なんでデュヴェルジェの法則はそれなりにしか当たらないのかというと、これは次のような理由があります。
当たる理由、メリットのほうなんですが、これは1回限りの選挙、ワンショットゲームだったら、選挙に勝つため連合を組むのはもちろん有利なんです。組まないほうがおかしい。でもデメリットももちろん現実的にはあって、長期的なことを考えると連合を組むのが好ましいとは限らないわけです。だって連合を組むと、自分の党の理念は妥協します。そのぶん、組織の力は確実に弱まるし、その中で人材を育成するのも難しくなる。というわけで、これまでデュヴェルジェの法則はそれなりにしか当たらなかったわけです。ところが今回の民進党解体というのは、デュヴェルジェの法則が当たったケースです。なんでこんなことが起こったかというと、解体する人がメリットのほうがデメリットよりはるかに大きいと考えたからでしょう。というわけで、僕はこの現象を次のように考えています。現実がバカみたいに単純な理論についに追いついた。理論モデルみたいな、経済学者が頭の中で考える理論モデルみたいな政治状況になっているんだな、というのが率直な感想です。
事実の共有と慰安婦問題
三浦 ありがとうございました。
松沢さんはこの本の中で公文書の管理の必要性とともに「慰安婦」問題を取り上げてらっしゃいます。ファクト自体が共有されていない、最たる問題のひとつがこの「慰安婦」問題であって、かつそれが日韓関係を大きく歪めています。なぜ松沢さんは「慰安婦」問題に注目されたのか。どうしたらこの膠着状態から抜け出せるとお考えなのか教えていただけますか?
松沢 まずこの問題について、どう膠着状態を解決していけばいいのか正直言って私にはわからないです。いくつかの地道な努力の可能性はあって、その中で絶対にはずしちゃいけないこととして、実際の元慰安婦の方の権利をどう守るかが中核にある。そして、これは非常に難しくなってしまった歴史問題としてこの本で取り上げているわけです。つまり、これだけのことが起きてしまうんだぞと。日々の記録を管理するとか、日々の合意を事実レベルできちっとつくっていくとか、そういった地道な努力を積み重ねていかないと、ここまでこじれちゃうんだ、ということを示したかったのが一つの答えだと思います。
下からの希望
三浦 ありがとうございました。
次に、宇野さんにお伺いしたいのですが、宇野さんはアクションの中から希望を紡いでいくことの重要性を語られていると思います。宇野さんがおっしゃっている、下からの、また一人ひとりが確実に見つけ出す希望というのは、具体的にはどのようにやっていけばいいんでしょうか。
宇野 私は民主主義を広い意味で考えていますけど、先ほど坂井さんがおっしゃったように国政選挙、これも重要な民主主義です。ただ、僕は民主主義とは本来複数形であって、いろんなところで、自分たちで希望を見つけていく作業が民主主義だと思っています。
そういう意味で言うと、この8月だけでも8つか9つの都道府県を回ったんですけど、いま日本で本当に希望を感じるのは地域社会です。地域社会は人口減少を含めて、非常に多様な問題を抱えています。釜石もよく行くんですが、昔は製鉄所があって、それ以外の人たちがいて、みんなバラバラでした。ところがいま町の状況が本当に厳しくなって、さらに被災した状況の中で、いよいよみんな一緒に議論していかなければいけなくなった。一緒になって自分たちの問題として地域の問題を解決していかなければならないという機運が高まっています。
私は隠岐諸島の出身なんですけど、そこにある海士町は人口減少の厳しい離れ島です。ところが、どうにもならない状況にもかかわらず、外から若い人を呼んで、いま奇跡のような復活を遂げています。つまり希望って、先ほども言いましたけど、自分で動いてみること、そして自分がそこに加わっていて感じられるものなんです。それも必ず、他の人間と一緒に何かをやっているときに初めて希望って生まれてくるものなのです。そういう希望が積み上げられてくるところに、本来の社会として希望を語るという話が出てくるのであって、上からばーっとかぶせてくる希望はちょっと違うなという気がするんです。
もちろん選挙は重要です。これから皆さん、どうやって政党を判断しなければいけないのかお考えになると思います。これからの政党って一枚岩の政党ではありえません。その中でどれだけていねいに議論をしているか。どれだけ多様な声をとことん議論しているか。それをみんなの前で見せてくれるのが政党だと思います。ちゃんと多様な人が正面からぶつかって議論していく、それを見せ合って、どこがちゃんと議論しているかを見て政党を選ぶ。そういう形で政党が再編されることを期待しています。ただ、時間がかかりそうですね。私は地域から攻めていくほうがいい。地域から民主主義を盛り上げていって、最後は永田町に来るっていうイメージをもってます。永田町はけっこう後回しになるのではないかという気がしています。
日本社会とジェンダー
三浦 最後の質問になるのですが、これは井手さんにすごく聞きたかったことです。今回の本は『大人のための社会科』ということで、社会を考える基礎的なこと、議論のプラットフォームを提示してくださったのですが、唯一私からして物足りなかったのが、ジェンダーの視点が全然ないということです。本の中で、井手さんは、新しい社会は社会保障の場、生活の場、生産の場、それぞれが有機的につながると見通されています。そうなるとジェンダーの関係も当然変わると思いますが、その点で井手さんはどう見通されているのかをお聞きしたいです。
井手 ありがとうございます。
私は富山県に調査でずっと通っています。最初に富山に行ったときに衝撃的だったのが、朝起きて駅前に立って信号を待っていたら、働く女性の数が異常に多いんです。それが僕が富山を研究しようと思った最初のきっかけだったんですね。ただここには重要な気づきがあって、一言で富山社会を支えているものは何かと言われたら、3世代同居なんです。要するに、じいちゃん、ばあちゃんがいるから女性が働きに行ける。子どもがいても、じいちゃん、ばあちゃんが面倒を見るから、落ちこぼれが生まれない。だから子どもの学力を見ると、全国でトップクラスなわけですよ。女性が就労して共稼ぎだから、1人あたりの賃金は低いけど世帯収入はすごく高くなって、生活保護の利用者が全国で最低になり、女性の正社員比率も一番高い。社会民主主義者が見ると、泣いて喜ぶような世界がそこにあるわけです。
ところが現実には、それは男尊女卑のカルチャーがあってこそ成立する社会でもあるわけです。例えば家事とか炊事は全部女性がやります。なんでお母さんが働きに行くかというと、「一家に主婦は2人いらない」と言っておばあちゃんが追い出すわけです。現実に富山の若い女性、20代の女性がどんどん富山から流出しています。
変な話で、伝統的な家族主義や保守主義的な土壌がある一方、僕らがデータだけを追いかければ、なんとなく社民的に見えてもおかしくないような世界が成り立ってしまうということですよね。そして、その社会の土台が崩れようとしている。女性自身がそれを嫌がって出ていくんだから。
でも、だとしたらそこから僕らが何かを学んでいいと思うんですね。まず「東京で3世代同居をできますか?」と言われて、どうですか。無理ですよね。地価が高すぎて、それは不可能だ。それなら、女性が就労に行ける、あるいは子育てをじいちゃん、ばあちゃんがそばにいなくてもできるという状況をつくればいいだけの話じゃないですか。そしたら、3世代同居を基盤に富山でうまくいっているように、女性も働きに出られる、世帯収入も上がる、子どもの教育も心配しなくていい、という状況がつくれるはずですよね。
実は2つのポイントがあって、スウェーデンの真似ばっかりしようとしたって、絶対に日本はスウェーデンになれないと思う。ただ富山を見て気づくことは、伝統的な家族主義や保守主義の基盤の上に、社民的な社会状況、経済状況をつくることはできる。ただ問題なのは、まさにジェンダーの問題で、3世代同居や女性のそういった我慢や辛抱のもとに成り立っている社会がいいかといったら、いいはずがない。だから、その富山のどの部分を公共部門で代替していけば、日本的なよい経済的、社会的循環をつくれるかを考えるべきだと思うんですね。
その意味で、女性が安心して就労できる環境、そして同時に子どもの教育、おそらくそこは政策の優先順位で言うならば、一番高いんだと思います。もちろん細かいことを言えば、ジェンダー問題っていろいろありますが、ただ財政学の観点から言うならば、それが一番女性にとっても、あるいは社会全体にとっても好ましい状況だと思います。
※フロアからの質問は省略します。
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