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連載

途上国の経済発展――インドから考える

第4回 廃貨のインパクト その2

一橋大学経済研究所教授 黒崎卓〔Kurosaki Takashi〕

廃貨政策のその後

 前号で、インドの廃貨(demonetization)政策について紹介した。2016年11月8日の午後8時、わずか4時間後の深夜をもって、その時点の最高額だった500ルピーと1000ルピー紙幣を無効にすると、モディ首相が突然発表したのが、今回の廃貨の始まりだった。闇経済やテロ資金源、賄賂行為などを絶ち、偽札を駆逐するために採られた政策だが、旧高額紙幣に代わる紙幣の供給が滞ったことから、2016年中、現金が不足して経済が混乱した。ATMの多くが停止し、現金のあるATMや銀行支店には長大な列が並ぶのが常となった。2017年に入ってもしばらくは、首都デリーでは現金の不足が続いた。2月になってやっとこのような行列が減って、現金需給の逼迫が多少なりとも緩和されたと感じられるようになり、3月13日をもって、銀行口座からの預金引き出し上限が撤廃された。他方、多額の旧高額紙幣を銀行に預けた者への税務署による事情聴取が、2月に入って本格化した。

 この間、毎日の生活に必要な現金が不足して苦労したのは、誰もが同じだった。しかしその現金不足がどれほど仕事や稼ぎに影響したかに関しては、千差万別だった。本号ではそこで、廃貨のインパクトを階層別に整理したい。廃貨政策は、中長期的には、インフォーマル経済のフォーマル化や、経済のキャッシュレス化も意図していた。実際にこれらの変化が廃貨によって加速されつつあるのだろうか?

闇経済とインフォーマル経済

 話の前に、重要なキーワードとなる闇経済(black economy)とインフォーマル経済(informal economy)について、インドの文脈での区別をしておきたい。偽ブランド品製造・販売、麻薬・武器取引や人身売買など違法な経済取引と、宝飾品や不動産など取引自体は合法だが、その収支を隠匿し、本来は支払わなければならない所得税や売上税などを払わない脱税行為の蔓延する経済活動の2つをもって、ここでは闇経済と呼ぶことにする。他方、インフォーマル経済は、行政に十分把握されない経済活動を指すから、その中に闇経済も含まれるが、取引は合法だし脱税もしていない部門も含まれる。

 インド経済の1つの特徴は、インフォーマルセクターが巨大なことである(以下、詳しくは黒崎[2015年]を参照)。インフォーマルセクターの定義として、政府に何ら登録していない小規模零細企業・自営業者(インドでは「非組織部門」とも呼ばれる)を採用した場合、GDPの中の第二次産業付加価値に占める非組織部門の比率は約35%、サービス業での比率は54%(2014年の推計)、農業以外の雇用に占める非組織部門の比率は全国で55%(2011・12年度の推計)となる。

 これらの事業主の中には、所得税を払う必要があるのに払っていない脱税者がある程度含まれていると思われるが、所得税を払うレベルにまで利潤が達しない零細企業もかなり多いというのが、フィールド調査を通じて得た筆者の印象である。前号で、インドの所得税制度の下では、年間25万ルピーが基礎控除額であることを説明した(前号掲載の新聞広告も参照されたい)。筆者らのグループは、デリー東部で零細企業家を継続的に調査しており、その過程で、今後1年間の事業目標を設定するビジネス・トレーニングを実施したのだが、年間利潤額の目標として、20万ルピー、あるいは10万ルピーとする者がかなりいた。言い換えると多くの零細企業家・自営業者は、年間10万ルピーの利潤を上げるのに四苦八苦しているのである。

 この階層には、従業員を1人も雇わない純粋な自営業者も含まれるが、若干名の従業員を雇う零細企業も多い。インドでは、10名以上の労働者を雇う製造業企業は工場法の下に登録し、労働法を遵守する義務があるが、従業員が1桁ならば登録の必要はない。その様な零細企業で年間の利潤が25万ルピー以下のものは、政府に登録せず、所得税申告を行わなくても、まったく合法なインフォーマル企業なのである。また、このような未登録企業で働く労働者の多くは、熟練労働者でも月にせいぜい1、2万ルピーという低い水準の賃金しか得ておらず、これを12カ月分に換算しても、そもそも所得税の対象にならない低所得者層ということになる。

零細企業・零細農家へのダメージ

 2016年11月の廃貨の後、零細企業家のフォローアップ調査に行くと、さまざまな反応が見られた。仕立て業など一般顧客向けビジネスは、客が激減してしまい、たまに常連が来てもつけ払いになるので、まったくお金が入ってこないとぼやくことしきり。自動車部品を中小企業に納める下請けビジネスは、原材料の仕入れができずに、注文があっても断らざるを得ないと渋い顔。当座預金を有する事業者については、銀行口座からの現金引き出しの週上限が普通預金口座よりも有利に設定されたものの、それでもしばらくは週にわずか5万ルピーだったから、賃金や原材料費の支払いに困る企業家が多かった。インタビューに行くと仕事がなくて暇だからと言って歓迎してくれる者もいれば、これから銀行に出かけて行列に並ぶので後にしてくれ、と面会を断られることも多かった。

 新聞には、手押し車の運送業者やサイクルリキシャなど、出稼ぎ労働者の多いインフォーマルセクターの仕事が減って、出身地に一時帰省する話が満載だった(旧高額紙幣はインド国鉄の切符購入にしばらく有効だったので、そのような帰省には旧紙幣が使えた)。野菜の需要が減って、出荷できずに無駄にしてしまう野菜農家の写真に目を覆った。11月後半は、ラビー期(乾期)農作物の作付期だったため、手持ちの現金が足りずに種子や肥料を買えないという零細農家の悲鳴も頻繁に報道された。

 その後、2017年2月1日に、4月から始まる新会計年度の予算演説が行われ、これに先立って経済白書が発表された。2016・17年度の経済成長率は、廃貨による一時的成長鈍化を考慮しても7%弱程度が見込まれ、製造業も農業も着実な成長が予測されていた。自分の印象とのあまりに大きなギャップに戸惑ったが、詳細を調べて合点した。農業の例で説明したい。

 ラビー期作付に関する農家調査結果によると、作付面積、化学肥料使用量、種子使用量、労働使用量すべてで、前年度よりも今年度は減少したと答えた農家数の方が、増加したと答えた農家数よりも多かった。しかし農地作付データによると、インド全体のラビー期の作付面積は順調に前年度を上回り、農業生産増が示唆されていた。この2種類の数字は、相互に矛盾しない。作付面積を減らした農家が零細層に集中し、大規模農家は作付面積を増やしたため、農家数では作付面積を減らした者の方が多かったにもかからず、面積でみると総作付が増えたのだ。大規模農家は、政府による信用供与などを活用できたため、廃貨で手元に現金が不足しても、計画通りの生産ができたことを意味している。

 同様の話が製造業にも当てはまろう。企業数では絶対的多数を占める零細企業の多くが生産を縮小しても、GDPへの寄与度という点でより重要な大企業の生産がプラスになっていたら、製造業全体ではプラス成長になるのである。製造業の大企業はそもそも現金払いではなく銀行ベースの取引を行ってきたために、廃貨の直接的悪影響が少なかったことに加え、キャッシュレス化を追い風として急伸した企業や業種もあった。

損した者、得した者

 北インドの冬(11月後半から1月)は結婚シーズンである。盛大なインドの結婚披露宴は、そのほとんどが現金決済だった。廃貨直後、結婚関連諸費用を旧高額紙幣で準備していた新郎新婦とその家族は大混乱に陥った。結婚延期が続出し、ウェディング・プランナーや披露宴ホール業者はキャンセル急増への対応に追われた。不満の爆発を恐れた政府は、11月17日に、結婚式費用については、預金口座からの引出し上限額を25万ルピーまで認める通達を出した。とはいえこの額では、豪華な披露宴には足りなかったことだろう。

 同様に現金決済が基本だったために、注文のキャンセルが相次いだのが不動産業(とりわけ中古住宅)、および宝飾品製造・販売業だった。しかしこれらの業種には、本来支払うべき税金を現金決済によってごまかしている輩が多く含まれたと見込まれたため、政府による救済措置は、何ら採られなかった。この業界が廃貨を機に現金決済から銀行ベースの決済に性格を変え、政府のタックスネットの中に入るようになると望ましい変化なのだが、そのような変化がどのくらい生じつつあるのか、判断するための情報がまだ足りない。

 廃貨が追い風となったセクターと言えば、スマートフォンを用いた決済サービスである各種モバイル・ウォレットや、オンライン・スーパーマーケットなどであろう。インドのモバイル・ウォレットを代表するペイティーエムは、それまでは小洒落た店でしか利用できなかったのが、廃貨後、オート三輪タクシーや露店の青果商でも取扱店が急増した(写真参照)。ただし店主はまだその扱いに慣れておらず、代金を取り損ねたり、二重に取ってしまったりといったミスも多かったようだ。

 廃貨直後の政府の説明は、旧高額紙幣が使用禁止になり、銀行からの現金引き出し上限が設置されたとはいえ、クレジットカードやデビットカード、あるいは銀行小切手の使用に制限はないのだから取引には困らない、いうものだった。これを聞いていて、「パンがなければお菓子を食べればよい」との暴言を吐いたフランス革命時のマリー・アントワネットの話を思い出した(野党政治家も同様の発想をしたようで、インドの国会審議にマリー・アントワネットの名前が登場した)。

 インドでは、クレジットカードやデビットカードを扱うと書いてあっても、海外発行のものはダメで、インドの銀行口座で決済されるカードしか受け取らないことも多い。ペイティーエムなどの決済も同様である。インド国内カードの方が手数料が安いので、やむを得ない面もあるが、外国人居住者には不便な話である。2016年中は銀行が旧紙幣対応以外の業務をほとんど停止していたため、筆者は12月末になってようやくインドの銀行に口座を開くことができた。これで、インドのデビットカードを手にし、キャッシュレス化の恩恵を受けられるようになったわけだ。とはいえ、予想以上に面倒な支払手続きでミスをしてしまったり、店舗に置かれた端末がなぜか機能しなかったりということが多く、せっかくの新カードをフルに利用するには至っていない。今回の廃貨を契機にキャッシュレス化に参入したインドの消費者や零細店舗も、似たような状況ではなかろうか。

廃貨後,ペイティーエム(Paytm)を始めたことを示す段ボール紙を貼った露店の青果商
(インド,デリー。筆者撮影)

隠された目的?

 本連載の第1回で、古きインド世界「バーラト」(Bharat)と、急成長する近代的インド世界「インディア」(India)というキーワードを紹介した。廃貨が駆逐しようとした不正蓄財は、政治家や一部のインフォーマル企業家、不正官僚など、中産階級のうち、バーラト的部分に集中していた。廃貨がこの不正蓄財駆逐にどのくらい貢献したのか、正確なところはわからない。他方、廃貨によって困窮したのは、インフォーマルセクターの労働者や零細事業主など、圧倒的にバーラトの中の低所得者階層だった。中産階級のうち、プラスチックマネーを使えたインディア世界の住人(所得税をきちんと払ってきた人たちでもある)は、廃貨の影響をそれほど受けず、ある意味、外から成り行きを見守っていたように思われる。

 バーラトの中の低所得者階層にこれほどの被害を及ぼしてまで、なぜ廃貨が実施されたのか、経済学的な答えを出そうとすること自体が間違っていて、野党政治家をターゲットにした選挙戦対策と考えるべきだとの論調も見られた。2017年2、3月に行われた州議会や地方自治体選挙では、連邦与党の戦績はおおむね好調であり、廃貨の被害を糾弾した野党が意外に苦戦している。廃貨によって不正蓄財を駆逐し、経済のフォーマル化を進めるというモディ首相の方針は、かなりの程度、国民の政治的支持を得ていたことになる。前号で紹介した平和的な行列風景は、この選挙結果を予言していたのかもしれない。

引用文献

黒崎卓「開発途上国における零細企業家の経営とインフォーマリティ:インド・デリー市の事例より」『経済研究』66巻4号、2015年4月。

前号および今号の執筆に当たっては、二階堂有子・武蔵大学准教授より有益なコメントを頂いた。記して謝意を表したい。

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