連載
“BREXIT”
――イギリスのEU「離脱」の歴史的深層
第2回 移民とはなにか、どのように考えたらよいのか?
明治大学経営学部教授 安部悦生〔Abe Etsuo〕
今年の1月、フランスのあるビジネススクールに教えに行った。テーマは、strategic managementであり、移民問題と直接の関係はない。その後ロンドンに行き、ブレグジット関係の書籍を集めたり、友人と話をしてきた。
パリからシャルル・ドゴール空港にタクシーで行ったのだが、ホテルから空港までの小一時間、タクシー運転手と話をした。彼の話はとても興味深く、それだけでもフランスに来た甲斐はあった。彼はカンボジアからの難民で、1973年に13歳でフランスに来たそうである。以来43年間フランスに住んでいて、フランスにおける40年間の変化を淡々と語った。
彼によれば、日本は移民を受け入れているか、移民は絶対受け入れない方がよい、特にアラブからはだめだ、なぜなら彼らは「ディシプリン」(規律)がないからだ。40年前、フランスに来た時には、社会にはディシプリンがあった。だがその後、アラブ、アフリカから移民がやってきて、社会は酷い状態になった。パリ郊外は特にひどく、タクシー運転手は皆行きたがらない。私がサンドゥニのことかと聞くと、サンドゥニだけではないと言ってスマホを取り出し、パリの北の広い範囲がそうだと示した。空港への列車も危険だ、そういう奴らが20人くらいで列車に乗り込み、紐を引っ張り列車を止め、その間に乗客から時計や現金などを奪うのだそうだ。警察もそれを止めることはできないし、サンドゥニなどの地域を警察はもはやコントロールできない。パリは観光に来るのにはよいが、もはや住むところではない、自分はあと5年くらいしたら、カンボジアに戻ろうかと思っている。
カンボジアでは、“killing field”のときに、両親や兄が殺されたが、現在はよくなったので戻る気になっているらしい。当時、両親は危険を察知して、兄や彼に国を出るように勧めたが、兄は結婚し仕事も持っていたので国を出ないで死んでしまった。自分は両親の勧めに従い、国を出たので今も生きている。かつては、エンジニアとしてパリの日本企業セガに勤めていたこともあったと言う。
彼も移民(難民)なので、その彼が移民はよくないと言うのも変な気がしたが、中東・北アフリカからの移民が増えて、フランス、特にパリやマルセイユなどの大都会が大きく変化し、住みづらくなったのは確かなようである。
35年ほど前、パリ北方のモンマルトルに行ったことがある。その時は何も感じなかったのだが、今回、地下鉄でモンマルトルの近くまで行った際、かつては感じなかった不安を覚えた。ある駅を過ぎると、パリ中心部とは全く異なり、電車内はアラブ・アフリカ系の人間が過半となり、僅かにいる白人の服装も粗末になり、このまま乗っていて大丈夫かと不安になった。
フランスでは、移民をフランスに統合すべく同化主義、イギリスは移民のエスニシティを認める多文化主義を取っている。しかし、どちらも上手くいっていない。エマニュエル・トッドによると、ベルギーではブリュッセルのモレンベーク地区などの警察権力が手出しできないアンダーグラウンド・ワールドが出来上がってしまったが、フランスはそこまでいっていないと言う。だがタクシー運転手によれば、パリもブリュッセルと似たり寄ったりということになる。イギリスでもイスラム地区が実質上出来上がり、警察のコントロールはまだ効いていると思うが、今後どうなるかは分からない。
本題のイギリスにおける移民問題の歴史に話を戻そう。そのためには時計の針を19世紀に戻さなければならない。
古くから移民として住んでいたユダヤ人や17世紀のユグノー移民を脇に置けば、イギリスの移民問題は19世紀半ばのアイルランド移民に始まる。1850年代、アイルランドではポテトの不作により飢餓が発生するなど、移民のプッシュ圧力が高まった。アイルランド人は、アメリカはもとより、近くのイングランド、スコットランドに大量に移民し始めた。この頃は、ビザやパスポート制度はなかったので、比較的自由にイングランドやスコットランドに渡ってくることができた。その後も、五月雨式にアイルランドからの移民は継続した。彼らの移民の時期はもっと遅いかもしれないが、有名なビートルズの3人がアイルランド系であるというのも意外ではない。また身近な大学関係者のなかにも、アイルランド系の人は多くいてFitzgeraldやPatrickなどの名前を持っていれば、まずアイルランド系である。
次いで19世紀末には、東欧からユダヤ人の大量移民が始まった。中世から、また19世紀前半にもユダヤ人は様々な形でイギリスにやってきていたのだが、有名なところでは、イギリスの首相となったディズレーリはスペイン系のユダヤ人であったし、私が研究したボルコゥ・ヴォーンという鉄鋼企業の創業者ボルコゥは、ドイツのメクレンブルクからの移民で、友人のドイツ史研究者の推測ではまずユダヤ人ということである。有名な化学企業ICIの前身であるモンド社のモンドは、ドイツからのユダヤ系移民であった。
しかし、19世紀末にはポーランドなどの東欧から大量のユダヤ人移民が到来し、ロンドンの大きな社会問題となった。その規模が問題であった。この中からは石油企業シェル社の創業者であるマーカス・サミュエル、スーパーチェーンのマークス・スペンサーやテスコ、高級アパレルのバーバリーなど、ビジネスの世界でイギリスの中枢を担う企業家も輩出したが、大部分は貧しいままであった。そうした人々が、イングランド人の職を奪うとして社会問題になったのである。しかし、彼らは徐々にイギリス社会に馴染み、大学、マスメディアなど様々な分野で地歩を占めることができた。初期は、独特のヤマカ、キッパなどの帽子を被り、一目でユダヤ人と分かる服装をしていたが、次第に世俗化されイギリス社会に溶け込んでいった。第二次大戦直後には50万人いたと言われるユダヤ人は、現在は30万人に減少しており、量的にも目立たなくなっている。19世紀、そして20世紀前半も「ユダヤ人問題」は大きな社会問題であったが、20世紀後半には次第に重大な社会問題ではなくなってきたように思う。ケンブリッジの私のメンターであったバリー・サプル教授は、ユーチューブで自分の家族はポーランドからのユダヤ人移民であったとはっきり述べていた。
しかし第二次大戦後、事態は大きく変わる。1950年代、イギリスは好況となり、労働不足解消のためにジャマイカなどの英領西インド諸島から多数の黒人移民を受け入れた。プルとプッシュが合致して、イギリスの移民数は飛躍的に増大したのである(2001年のカリブ系黒人は57万人)。さらに1950年代末から60年代にかけてパキスタン、インド、とりわけパンジャブ地域から多くの移民がイギリス北部のバーミンガム、ブラッドフォードなどの工業地帯に労働者として受け入れられた。最初は一時的労働者として受け入れられ、またパキスタン人、インド人もそのつもりであったが、現実には定住し、また家族を本国から呼び寄せるなど(連鎖移民)、その数は増加していった。
2001年のイギリスには、パキスタン、バングラデシュ系で103万人(総人口の1.8%)、インド系が105万人いた(1.8%)。インド系は雑貨店、郵便局などの自営業で相対的に豊かになり、また東アフリカに定住していたインド人も政治的圧迫が原因で1970年代にイギリスに移民してきた。彼らのなかには、医師など知的職業に就いていた者も多く、移民としては相対的に豊かであった。ケンブリッジで知り合ったザンビア(旧北ローデシア)からの学生は、最初は黒人と思っていたが、実はインド系で父親は医者であると言っていたのが思い出される。
2016年、イスラム教徒(ムスリム)の数は280万人であった(総人口の4.3%)。実は、インドから来た移民がどの程度イスラム系であるかが分からないので(インドには1億数千万人のムスリムがいる)、2001年のムスリムの比率ははっきりしない。2%から3%と推測できる。いずれにせよ、十数年でムスリムが著増したことは明らかである。
ムスリムは、かつてのユダヤ人と同じく、強固な宗教的凝集性と、ユダヤ人以上に独自の習慣を持っている。1カ月に及ぶ辛いラマダン(断食)の習慣は、ある日本人の体験者によれば、国こそ違え同じムスリムとしての団結の源であり、1日5回のメッカへの礼拝(そのためのお浄め)も他の宗教に見られないほどの独自性をもたらしている。ユダヤ教が従来もっていた異質性が世俗化の進行によって弱まったのに対し、イスラムの場合はむしろ世俗派が後退し原理主義が強まったため一層その異質性が際立つことになった。
ロンドンの空港で、ニカブ(眼だけ出し、全身黒装束で覆う衣服)を着用する女性を初めて見たときは、その「異様さ」に驚いた。まるで忍者だと思った。今や、このニカブを世界至る所で目にするようになった。アメリカのボストンでも見たし、昨年日本の列車内でも目にした。
世俗主義を国是としているトルコでは、かつては国会ではスカーフを着用することが禁止されていたが、現在は可能になった。エジプトでは1960年代には、ミニスカートで往来を闊歩しても咎められなかったそうである。マレーシアではかつてスカーフをする人は少なかったが、現在はかなり増えた。私のゼミに来ていたマレーシア女性もスカーフをしていた。このスカーフをめぐっては、フランスで大きな問題となったことはよく知られている。公立学校では法律で、宗教を連想させるスカーフの着用が禁止されたのである。それではイスラムに不公平だとして、キリスト教の十字架やユダヤ教のスターも、ことさら宗教色を感じさせるものは禁止された(フランス交換留学生の安部ゼミでの話)。
次回は、2004年以降イギリスで問題となり、ブレグジットの直接の導火線となったEU拡大、東欧移民問題の発生、およびその根源としてのracism(人種差別主義)とsecularism, laicism(世俗主義)、さらには「公共性」について論じよう。「公共性」を遵守しないこと、これが「移民嫌い」の根源と言えるからである。