連載
ウェーバーの社会学方法論の生成
第5回 歴史の一回性と因果
――リッカートからフォン・クリースへ(1)
東京大学大学院総合文化研究科教授 佐藤俊樹〔Sato Toshiki〕
1.
さて、ウェーバーの方法論の形成にもどろう。
マックス・ウェーバーは、文化科学を提唱したリッカートとは全くちがう人間であった。強烈な
例えば、第1回や第3回で引用した「客観性」論文の結論部でも、「文化意義」や「歴史的連関」といったリッカート由来の概念を掲げながら、その間に「具体的」の一言を挿しはさむ。「価値理念」という言葉も、この論文では複数形で使われている。
そうした点に、ウェーバーらしさはすでに現れているが、その十数年後に著された「職業としての学問」の、次の一節はさらに痛烈である(訳文は野崎敏郎『ウェーバー『職業としての学問』の研究(完全版)』前掲200頁を参考にした、S.600)。
歴史的文化科学をとりあげてごらんなさい。あなた方は、政治的な、芸術的な、文学的な、社会的な文化現象を、その生成の諸条件において理解することを学びます。しかし、この科学は、これらの文化現象が存立する価値のあるものだったのかどうか、そして価値のあるものであるのか、という問いへの答えを、自らのなかからは与えません。この科学は、文化現象を知るよう努める価値があるかどうか、という別の問いにも答えません。この科学は、こうした手順によって「文化人間」の集団に加わっていることが利害状況を有しているということを前提にしています。しかし、この手順が妥当かどうかを、誰に対してであれ「科学的に」証明する能力は、この科学はもっていません。この科学が前提としているということは、それが自明かどうかを証明するものでは全くありません。事実、全くそうしたことはないのです。
「歴史的文化科学」という名称は、文化科学の歴史学版ではない。文化科学そのものをさす。リッカート自身もそう自称している。彼にとっては歴史こそが、(A)理論的価値関係づけと(B)個体的因果関係によって、初めて適切に、すなわち彼自身の言葉を借りれば「科学的に」、とらえられるものだったからだ(→第3回)。
その「歴史的文化科学」をウェーバーは、その対象が探究する価値があるかどうかには、さらには自らの探究に価値があるかどうかにも、答えられないとする。リッカートの文化科学は、価値判断を主題化することの方法論的意義を掲げたものであるにもかかわらず、だ。もしリッカートがこの文章を書いたなら、ウェーバーが否定形で形容した箇所を、全て肯定形で書いただろう。
だからといって、ウェーバーが文化科学を誤解していたわけではない。個々の価値関係づけを関係づけるはずの、理論的価値関係づけが具体的には空白である以上、文化科学はその対象だけでなく、自分自身が価値あるものかどうかにも、結局は答えられない。少なくとも経験的な社会科学としては、そう答えるしかない。リッカートの文化科学がどのようなものであるかを知り尽くしているからこそ、ウェーバーはこう書いているのである(1)。
第3回で述べたように、「客観性」論文を書いた時点で、おそらくウェーバーはその空白にすでに気づいていただろうが、ここまで直截には表現していない。文化科学の「客観性」に代る
2.
文化科学に代わる新たな「客観性」へウェーバーを導いたのはもう1つの概念、(B)個体的因果関係だったと考えられる。
リッカートは歴史の一回性を基本的な視座にして、自然科学や人文社会科学もふくめた、全ての人間の営みの意味づけをめざした。第3回で引用した文章にもあるように、彼の考えでは、歴史のなかで生じる事象は、全てが本源的には一回性のものであった。自然科学の成立ももちろん例外ではない。
それゆえ、そうした一回性の事象の間にどうやって因果関係を見出しうるのかが、文化科学にとってはきわめて重要な課題になる。やはり第3回で述べたように、リッカートは方法論の水準で、文化科学/法則科学を区別した。文化科学は独自の方法論をもち、それによって学全体が特徴づけられていなければならない。
だからこそ、一回性の事象をとらえる独自の因果特定手続きが、リッカートの文化科学には不可欠であった。それなしには文化科学/法則科学の区別自体も成立しえないからだ。少し旧い言い方をすれば、まさに画龍点睛。具体的な学術分野では2つの方法が同時に使われることはあるし、むしろその方が一般的だろうが、「歴史科学と法則科学は概念的には互いに互いを排除する」(→第3回)。
しかし、これは大胆な挑戦でもあった。
現在の科学論ではいうまでもなく、当時の科学的な方法論においても、因果特定手続きの基本は、複数の事例の比較にあった。例えばJ・S・ミルが体系化した方法論でいえば、差異法でも一致法でも、あるいはE・デュルケムが採用した共変法でも、2つ以上の事例か2回以上の出来事で、結果にあたる変数か原因にあたる変数か、少なくともどちらかは共通して生じていることが、前提条件になる。
けれども、リッカートは歴史の一回性を基軸にすえて、全ての科学を基礎づけようとした。法則的必然性を探究する自然科学の成立ですら、彼の考えでは一回性の事象であった。それゆえ、2つ以上の事例で、あるいは2回以上の出来事で、同じ結果や原因が出現することは論理的にありえない。全ての歴史的事象は一回性であり、だからこそ個性的にしかとりあつかえない。――それがリッカートの基本的な立場であった。
だとしたら、どんな形で因果関係を同定することができるのだろうか? その答えとして彼が提示したのが、「個体的因果関係」であった。これは要約すると、次のように定義される(例えば『自然科学的認識の限界』第2版、1902年、ではS.430-432)。
――結果にあたる歴史的な事象Wが個別的な概念Sにあてはまり、Sがa、b、c、d、eという一般的な要素から構成される、とする。また、原因になりうる歴史的事象Uは個別的な概念Σにあてはまり、Σがα、β、γ、δ、εという一般的な要素から構成される、とする。このときα→a、β→b、γ→c、δ→d、ε→eという要素間の因果的な対応があれば、UとWの間に因果関係が認められる。
リッカートはこれを文化科学独自の因果概念だと主張した(『自然科学と文化科学』前掲182〜183頁、S.109など)。だが、今この定義を読んで、全く理解できなかった人は少なくないと思う。実は私も内在的には理解できない。20世紀後半以降の社会科学からみれば、これはたんなる論点先取か、α→a、β→b、γ→c、δ→d、ε→eという5つの一般的な因果関係の集積でしかない。
いや同時代の学者にも、個性的因果関係は広く受け入れられたわけではない。リッカート自身はこの因果概念に関して、G・ジンメルの『歴史科学の方法的諸問題(第1版)』(1892年)から示唆をえたとしているが、当のジンメルは『歴史科学の方法的諸問題(第2版)』(1905年)に追加した「個体的因果性についての注記」で、この定式化を厳しく批判している。やはり要約すると、こういうものだ(生松敬三・亀尾利夫訳『ジンメル著作集1 歴史哲学の諸問題』126頁、Georg Simmel, Kant Die Probleme der Geschichtsphilosophie (Zweite Fassung 1905/1907), Suhrkamp, S.315, 1997)。
――原因と結果(例えば先の定式化ならWとUがそれにあたる)にせよ、比較対照にせよ、2つの事象を同時にあつかう以上、2つの事象に共通する概念を導入している。その時点で、それはもはや「個性的」ではなく、一般的な概念になっている。
きわめて的確な反論で、ジンメルが問題のありかを明晰に理解していたことがよくわかる。その上でジンメルは、にもかかわらずなぜ1回しか観察できない事象にも因果を認識できるのか、を考えなければならない、としている(同130〜131頁、S.317-318)。
3.
現代の社会科学では、「概念」というより「変数」といった方がわかりやすいだろうが、反論自体は適切で、特に何か付け加える必要はない。
ジンメルは相互作用を基本概念におくなど、20世紀後半以降の社会科学の標準的なあり方をやや外れた形で考えた。そのため「異端」視されることも少なくないが、ウェーバー以上に、論理的に厳密な思考を展開できる人である。その上で、独自の社会学を構想した。そのことは正当に評価すべきだろう。
具体例で考えると、「個性的因果関係」の奇妙さはいっそう際立つ。ウェーバーが倫理論文で立てたあの有名な仮説を例にとろう。西欧の禁欲的プロテスタンティズムの倫理が近代資本主義の原因になった、という仮説だ。
近代資本主義が西欧で発生したということは、自明の事実である(もちろん論理的には反論可能だが、反論するためには、近代資本主義を、西欧以外でも「ある/ない」が判定できる形で一般的に定義しなければならない)。だとすれば、個性的因果関係の立場からは、近代資本主義の発生以前に西欧にあったもの以外は、近代資本主義の原因にはなりえない。
それゆえ、ありうる因果関係の範囲は最初から限定される。西欧以外の宗教の倫理が近代資本主義の原因になることは、この立場では、論理的にありえないのである。つまり、文化科学の立場からは、ウェーバーの『宗教社会学論集』の「世界宗教の経済的倫理」に収められた比較分析は、「儒教と道教」も「ヒンドゥー教と仏教」も「古代ユダヤ教」も、全て無意味だといわざるをえない。
実際、ウェーバーが亡くなった直後に訪問したK・ヤスパースに、リッカートは「彼の著作は悲劇的に崩壊している」と断じた(向井前掲、6頁)。これがきっかけでリッカートとヤスパースは絶交したそうだが、リッカートにとっては、そう断言することこそが誠実な態度だっただろう。彼にとって、1906年以降のウェーバーの研究は、ほとんど全てが無駄なものだった。そう考えるしかないのだ、文化科学の構想を本気で引き受けるならば。
その意味で、この逸話はむしろ、ウェーバーの社会学に対しても、そして自分自身の文化科学に対しても真摯に対応しようとしたリッカートの人柄を伝えてくれるが、裏返せば、「世界宗教の経済的倫理」の比較分析は、ウェーバーの社会学がリッカートのいう文化科学ではないことを示す、その最も良い証拠の1つになる。
4.
だから、ジンメルの批判にもリッカートは屈しなかった。『自然科学的概念構成の限界』はその後改訂されているが、1929年の第7版でもこの定義は保持されている(S.390-391)。屈しなかった、というより屈することはできなかった。ここで譲れば、文化科学の構想は全面的に崩壊するからだ。
そしてそれゆえ、ウェーバーは自分自身でこの問題に答えを出さなければならなかった。「『客観性論文』の後、彼は……社会科学的認識の客観性のために、事実の模写でないにしても、何らかの仕方で事実との対応が必要であると考えるようになる。……ウェーバーの科学論は、ヘンリッヒが強調するように最初から体系的な統一性をもって完成されたものでもなければ、またテンブルックが主張するように方法論への実質的な貢献は『客観性論文』をもって終わっているのでもない。むしろまったく正反対に、……これを基礎にしてわずか数年の間に急激的かつ爆発的に展開されるのである。」(向井守前掲、277〜278頁)。
彼の前におかれた問いはこういうものだ。――事実として一回的である歴史的事象の間で、どうすれば因果を客観的に同定できるのか? より正確にいえば、1回しか観察できない事象に対して、どうすれば(複数回観察できる事象と同じような)科学的な因果特定手続きを適用できるのだろうか?
先ほど述べたように、ジンメルも1905年の「個体的因果性についての注記」で、まさにこの形で問いを再定義しているが、答えは示さなかった。答えをあたえてくれたのは、J・フォン・クリースの因果同定手続きの方法論、「適合的因果構成adäquate Verursachung」論であった。
v・クリースは1886年の『確率計算の諸原理』第1版(Johannes von Kries, Die Principien der Wahrscheinlichkeits-rechnung, J.C.B.Mohr)で、「法則論的nomologisch/存在論的ontologisch」という対概念を立て、それにもとづいて「客観的に可能objektiv möglich」という概念を新たに定義した。さらに1888年には、これらの概念群を用いて、刑事裁判における因果の同定手続きを論じた論文「客観的可能性の概念とその若干の応用について」も発表している(“Ueber den Begriff der objektiven Möglichkeit und einige Anwendungen desselben,” Vierteljahrsschrift für Wissenschaftliche Philosophie 12:179-240,287-323,393-428, 1888. 山田吉二郎・谷口豊(訳)「客観的可能性という概念とその若干の応用について(その1)〜(その3)」『メディア・コミュニケーション研究』59号、60号、64号、2010〜13年)。
ウェーバーはその考え方を自分の方法論に採用するのである。
5.
v・クリースの『確率計算の諸原理』は、19世紀後半の統計学で最も重要な理論的研究ともいわれる。次回であらためて述べるが、例えばE・フッサールの『論理学的研究1(第1版)』(1900年)や、さらには量子力学の始まりを告げるM・プランクのエネルギー量子仮説の論文(1901年)でも、この著作は参照・引用されている。分野を問わず、広く読まれたらしい。1888年の論文(以下「客観的可能性の概念」論文とよぶ)も、社会科学ではかなり読まれていたようだ。
それによって「法則論的」や「適合的因果構成」という術語も広く知られるようになり(2)、特に法学では因果関係を定式化する重要な理論の1つとして定着する。日本語圏の法学では「相当因果関係説」とよばれているものである。ウェーバーもおそらく、法学者のG・ラートブルフの論文「適合的因果構成の理論」(Gustav Radbruch, “Die Lehre von der adäquaten Verursachung,” 1902, in Monika Frommel(hrsg.), Gesamtausgabe, Bd.7, Strafrecht I, C.F. Müller)から、v・クリースの著作と論文を知ったのだろう。
適合的因果の論理については、やはり次回述べるが、手短にいえば、「ある一定の原因的契機が、ある結果の可能性を増大させること、この契機が存在する場合、その結果はそれがないときよりもはるかに多様な状況において実現されること」である。「客観的可能性の概念」のなかでそう定義した直後に、v・クリースはさらにこう付け加えている。「こうした観察は確率理論ではごくあたりまえのもので、促進的な状況begünstigende Umstandという専門用語terminus technicusがある」(山田・谷口訳⑴150〜151頁、S.202)。
科学論や分析哲学をある程度知っている人ならすぐに気づいただろうが、これはいわゆる「確率的因果論theory of probabilistic causality」にあたる。現代の表記法でいえば、先ほどのv・クリースの定義は、
原因候補をC、結果をEとすると、P(E|C)>P(E|¬C) の場合(=Cが成立するという条件の下でEが成立する確率が、Cが成立しないという条件の下でEが成立する確率より大きい場合)、CとEは適合的因果関係にある。
ということにほかならない。P(E|C)>P(E|¬C)という条件が、v・クリースのいう「促進的」にあたる。
つまり、v・クリースの著作と論文は、科学史的には、確率的因果論の枠組みを定式化したものなのである(3)。現在の通説的な理解では、確率的因果論は20世紀後半にH・ライヘンバッハやP・スッピスによって提唱されたものだとされているが(4)、少なくとも社会科学においては、この理解は正しくない。
確率的因果論はv・クリースによって提唱されたものであり、19世紀終わりからラートブルフらによって法学に、そして20世紀初めにウェーバーによって社会学と歴史学に、それぞれ方法論として導入されて、現在にいたっている。そういった方が、科学論としても科学史としても、そしてもちろん歴史の因果的記述としても、より適切だろう(5)。
(1) つけ加えれば、「職業としての学問」では、自然科学と「歴史的文化科学」を科学として同一平面において論じている。これ自体が文化科学への痛烈な批判である。(→第3回)。
(2) v・クリースの科学論上の主著にあたるのは1916年のLogik(J.C.B.Mohr)だろうが、社会科学にあたえた影響は主に『確率計算の諸原理』と「客観的可能性の概念」論文による。ウェーバーもこの2つを参照指示しているので、以下の議論はこの2つにもとづく。
(3) M・ハイデルベルガーは “From Mill via von Kries to Max Weber: Causality, Explanation, and Understanding”(Uljana Feest(ed.) Historical Perspectives on Erklären and Verstehen, Springer, 2010)で、v・クリースの枠組みを現代的な表現にわかりやすく翻訳している(p.251)。私が知る範囲では、ミル、v・クリース、ラートブルフ、ウェーバーの間の継承関係と異同を最も見通しよくまとめている論文でもある。数式による説明も最小限にとどめてあるので、興味のある人はぜひどうぞ。
(4) 確率的因果論の紹介と解説としては田村均「確率論的因果説に関する覚書」『名古屋大学文学部研究論集 哲学』36号(1990年)が簡潔でわかりやすい。いうまでもないが、これは日常的な因果のとらえ方を反省的に形式化したものの1つであり、相対的により適切だとしても、「絶対的に正しい因果の概念」だといえるわけではない。
科学論もふくめたより広い視野での哲学的な考察では、特に一ノ瀬正樹『原因と理由の迷宮』(2006年、勁草書房)が参考になる。過去の位置づけや法則性の検討、歴史の物語行為の分析などが論じられており、マイヤー批判論文を理解する上でも、日本語の文献では今のところ一番よい参考書になるだろう。「原因と理由」の対比も、「因果連関」と「意味連関」を想起させる。同じ著者の『原因と結果の迷宮』『確率と曖昧性の哲学』(2001年、2011年、ともに勁草書房)も参考になる。
(5) M・ハイデルベルガーが実質的に同じことをすでに指摘している(“Origins of the logical theory of probability: von Kries, Wittgenstein, Waismann,” p.41-42, International Studies in Philisophy of Science 15(2), 2001)。
金子栄一も、マイヤー批判論文では「確率計算(Wahrscheinlichkeitsrechnung)とよく似た思考法のもとにかんがえ」ていることを指摘しているが、ウェーバーが具体例として述べた、ベルリン三月革命に関する因果帰属については、完全に誤読している((『マックス・ウェーバー研究』60〜64頁、創文社、1957年)。ウェーバーがここで述べているのはいわゆる「贋の原因(疑似原因)」論で(注4の文献参照)、現在の確率的因果論からみても妥当な議論になっているが、金子はその論理展開を追えていない。そのため、「適合的/偶然的」の定義の説明でも誤っている。