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書斎の窓

自著を語る


『イノベーション時代の競争政策』とは?
――法と経済、研究と実務の交錯する場から

一橋大学名誉教授 小田切宏之〔Odagiri Hiroyuki〕

小田切宏之/著
A5判,310頁,
本体2,800円+税

 我田引水・手前味噌と言われそうだが、競争政策ほど今日的で面白い分野はない。研究の対象としても面白い。実際の政策担当の場に立っても面白い。まことに幸いなことに、そしてまことに贅沢なことに、筆者はこの両方の経験をさせてもらうことができた。大学研究者として、また、公正取引委員会(以下、公取委と略す)委員としてである。ただし公取委員は昨年10月に退任したので、ここでは民間人として書かせていただく。

競争政策が直面する2つの流れ

 競争政策の現場にいて毎日のように実感したのは、企業活動・企業環境の変化へのダイナミックな流れである。2つある。1つは国際化で、国際カルテル、国際分業、国際企業結合はもはや例外ではなく、このため、公取委のような競争当局も、常に、他国での企業や政策動向を注視しながら政策判断することを求められる。また、どの国の競争当局がどの国の企業のどの国での活動に対して競争法を執行すべきかという管轄権の問題も起きる。

 ただし今回のメインテーマはもう1つの流れの方で、それは、イノベーション、そしてその結果として起きている商業的・社会的仕組みの大きな変化である。こうした時代背景を一言でネーミングすることには無理があるが、筆者は「イノベーション時代」と呼ぶことにした。イノベーションとは革新と訳されるが、技術的発明に限らない。一方では、身近な工夫もイノベーションであり、他方では、新しい社会的仕組みの導入もイノベーションである。例えば、モノやカネや情報の新たな交換・伝達の仕組みの開発・導入やその改善である。よく知られているように、20世紀前半の経済学者シュンペーターは、「新結合」の言葉を使って幅広いものをイノベーションに含め、そうした活動こそ企業者活動の根本であるとした。それだけに、「イノベーション時代」とは何かをピンポイントに定義することは不可能であろう。また読者により異なったイメージを持っても不思議ではない。

研究・特許・プラットフォーム

 イノベーション時代においては、競争政策も多くの新たな課題に直面する。それを本書では3つの側面から取りあげた。第1は、イノベーションを生み出す「研究」である。第2は、イノベーション成果の利用のあり方を規定する「特許」その他の知的財産制度である。第3は、情報通信技術の急速な発展が可能にした経済的仕組みの変革である。それは、「プラットフォーム」を通じたモノ・カネ・情報の交換や伝達の広がりで代表される。本書が「研究・特許・プラットフォームの法と経済」のサブタイトルを持つのはこのためである。

 研究については、事業者間の共同活動が問題になる。競争法(反トラスト法、独占禁止法)はもともと事業者間の共同行為に懐疑的な目を注いできた。例えば1960年代までの米国では、大企業による社内研究中心のイノベーション・システムが基本で、他社との共同研究や他社からの研究成果取得あるいは研究成果を持つ会社丸ごとの買収が少なかった。これは、企業間共同行為や企業結合への反トラスト法の厳しい適用を恐れてのことであった。しかし現在では、価格や数量に関する共同行為(ハードコア・カルテル)とは異なって、共同研究や提携によるオープン・イノベーションは、むしろ新製品や価格引き下げへの競争を促進する場合があることが理解されている。どのような場合にこうした効果が大きく、どのような場合には競争を制限する可能性があるのか、経済学的な分析と、独占禁止法の適用のあり方を検討することが欠かせない。

 特許などの知的財産制度は、イノベーションを促進し、長期的に競争を活発化させると期待されている。他方で、もともと特許は知識の独占的な利用権をその発明者に付与する仕組みであるから、独占禁止法とは緊張関係にある。このため、公取委が公表しているガイドラインも、「事業者に創意工夫を発揮させ、技術の活用を図るという、知的財産制度の趣旨を逸脱し、又は同制度の目的に反すると認められる場合」には独占禁止法が適用されることを明らかにしている。

 実際、特許に関する競争政策上の論点は今、各国でさまざまに起きている。特許権者が特許失効後の競争者の参入を遅らせようとするペイ・フォー・ディレイ(参入遅延のための支払)やリバース・ペイメント(逆支払)、標準規格に伴う必須特許のライセンスにあたっての不合理な対価の要求やライセンシー(ライセンスを受ける実施者)の行動を拘束する条件の強要、特許を集約し高額のライセンス料を要求することを専門とする事業者(いわゆるパテント・トロール)の活動などである。また、特許の譲渡を合併や営業譲渡と同様に規制できるのかも実務上の大きな悩みである。

 プラットフォームの普及も競争上の新たな論点を生み出している。例えば、クリックするだけで多くの競争業者の価格をほぼ瞬時に知ることができる場合の価格競争のあり方は、歩いたり車に乗ったりして店を回らなければ価格が分からなかった時代の価格競争とは違って不思議はない。プラットフォームの立場からすれば、出店者も勧誘したい、買い手たるユーザーにもアピールしたいという、双方向への配慮が欠かせない。また、すでに多くのユーザーと出店者の双方向に支持されているプラットフォームがある中で、新規のプラットフォームが参入するのは、それがより優れたものであっても難しいことになりかねない。

 GAFAの4大帝国が互いに領地を浸食しつつ世界を支配しつつあるという趣旨の特集記事が英エコノミスト誌に載ったことがある。GAFAとはグーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンである。これらは今、欧州委員会(EC)をはじめとする競争当局でもしばしば調査の対象になっている。まさに、GAFAのいずれもが支配的なプラットフォームを持つからに他ならない。

法と経済の対話

 研究、特許、プラットフォームについての競争政策を過たず執行するには、事業者のインセンティブを理解し、競争者とのゲーム論的相互関係を考慮しつつ需要者行動との均衡を分析するという経済学のアプローチが欠かせない。ほとんどの場合、事業者の戦略的行動は社会的プラス効果とマイナス効果の双方をもたらすから、それらを比較考量することも必要となる。すなわち法律家のいう合理性の原則(ルール・オブ・リーズン)の世界であり、明快なる当然違法(パーセ・イリーガル)で判断できる世界ではない。経済学的思考の重要性は明らかである。

 しかしながら、ケースごとに判断することで恣意性が大きくなってはならない。事業者にとっての予見性が損なわれ、事業活動の不確実性を高めるからである。このためにこそ、法律条文との整合性が求められ、また先行事例との一定の一貫性が求められるのである。すなわち法的安定性である。

 経済学者は、状況が変われば判断が変わって当たり前であり、必要なら審決・判決を、さらには法律を変えればよいとの意識が強い。一方、法律家は、法的安定性を重視すべきであり、まずは既存の法律の枠内、そして審決例・判例で確立された考え方の枠内で判断するという意識が強い。ここ数年筆者は、研究でも実務でも、経済・法律の両分野の方々と多く議論する機会を得たが、こうした両者の差異を鮮明に感じることが多かった。カルチャー・ギャップと呼べるかも知れない。

 しかし、競争政策を担当する者は、このカルチャー・ギャップの前に立ちすくんでいるわけにはいかない。法と経済の対話を進めるのみである。幸いにも、公取委をはじめとする世界の競争当局では、経済学者であった私が法律家や実務家と並んで委員を務めたように、こうした対話が実際におこなわれている。また、筆者も副議長を務めたOECD(経済協力開発機構)競争委員会では、法学者・経済学者そして各国当局実務者の間での意見交換が重視されている。公取委には競争政策研究センター(英語の頭文字からCPRCと呼ぶ)が設置され、法学者・経済学者・公取委事務総局の間での共同研究が進められている。

 本書『イノベーション時代の競争政策──研究・特許・プラットフォームの法と経済』は、もともと経済学者としての筆者のバックグラウンドの上にこうしたCPRCや公取委やOECDでの経験があったればこそ書けたものであり、改めて、この間にさまざまに関わり筆者に多くの教示や刺激をいただいた諸先輩や同僚に感謝したい。

更なる変化に向けて

 このように法と経済の双方を考慮し、しかもイノベーション時代に特有の諸問題に焦点を当てて体系的に著した文献は、特に日本語文献ではこれまで無かったと自負する。それだけに、学生諸君にも、研究者にも、実務家(競争当局、弁護士、企業内法務担当者等)にもお役に立つところは多いのではないかと期待している。

 とはいえ、立ち止まることは許されない。イノベーション時代は変化が激しい。新しい技術が生まれ、新しい社会システムが日々刻々と生まれていく。中には、破壊的イノベーションと呼ばれるように、社会のあり方を根本的に変えるイノベーションも生まれる可能性がある。実際、例えば自動車の自動運転が一般化し、シェアリングが普及すれば、自動車業界もタクシー業界も鉄道やバス業界も大きく変わるだろう。そこまで破壊的でなくても、イノベーションは企業戦略を変え、産業構造を変えていく。このために、幸か不幸か、イノベーション時代の競争政策は休むことなく変わっていかざるを得ない。実際、本書を脱稿してからも、すでに複数の事例や報告書が生まれている。筆者にとっては悩ましいことに、本書は日々陳腐化するだろう。

 しかしそれ故にこそ、研究者も実務家も、新しい状況に対して自ら思考し判断する努力を続けていただければと思う。本書がその礎として、基礎的な考え方や基礎的な知識を身につけるために活用されるようであれば、筆者としてこの上ない喜びである。

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