連載
途上国の経済発展――インドから考える
第3回 廃貨のインパクト その1
一橋大学経済研究所教授 黒崎卓〔Kurosaki Takashi〕
2016年11月8日
11月に入り、気温がやや下がるとともに、デリーの大気汚染が史上最悪のレベルを記録した。次の連載の話題はこれかなと思って資料収集していたところに飛び込んできたのが、11月8日火曜日夜8時のモディ首相による突然の廃貨(demonetization)のニュース。現行の最高額だった500ルピーと1000ルピー紙幣を、4時間後の同日深夜24時をもって無効とすると発表したのだ。目的は闇経済やテロ資金源を絶ち偽札を駆逐すること。以下で詳述するような経過措置の説明もあったが、街中に広がったのは、とにかくこれらの紙幣が使えなくなるという噂と、それによって生じたパニックだった。
ATMに駆け込み100ルピー紙幣を引出す者、500ルピーおよび1000ルピー紙幣を預ける者の殺到により、夜11時頃には多くのATMが止まってしまったという。まだニュースを知らない売り手を見つけて、無効となる紙幣を使って少額の買い物をし、お釣りで100ルピー紙幣を確保する動きも見られたらしい。
最高額と言っても、1000ルピーは日本円で当時の為替レートで換算すると約1600円、物価の違いを考慮して購買力平価換算しても3000円ほどにすぎない。政策実施時、貨幣流通の約86%をこの2種の高額紙幣が占めていたので、それをいきなり無効にするとは無茶な政策である。
混乱を避けるため、翌11月9日は銀行休業、ATMは9日と10日の2日間閉鎖された。この間に、正確な情報が市民に伝わることが期待された。当初の政策は、①旧高額紙幣2種は11月8日24時をもって法定通貨としての効力を失ったが、一部の政府系病院・ガソリンスタンド・乳製品店などでのみ11月11日まで使用可能とする、②新高額紙幣として、2000ルピー紙幣、新図案の500ルピー紙幣を発行する、③旧高額紙幣は、12月30日まで銀行に預金可能で、一部の口座を除いて預金の上限はない、④11月24日まで、旧高額紙幣を銀行や郵便局で上限4000ルピーまで使用可能な紙幣と交換できる。⑤銀行窓口での現金引き出しの上限を週に2万ルピー、ATMでの現金引き出しの上限を日に2000ルピーとするが、この上限は徐々に緩める、などであった。
旧高額紙幣の銀行口座への預金に関しては、上限こそ設けないが、所得税追徴課税の対象となることを政府は強調した。当初は、悪質な脱税が判明した旧高額紙幣預金には200%の追徴課税率が適用されるとの説明だった。100%を超える税率をどのように現場で施行するのか不可解な数字だが、一般市民に対しては、多額の旧高額紙幣を預金すると所得税によって損をするという強烈な印象をもたらす効果があった。インドの所得税制度においては、年間25万ルピーが基礎控除額であるため、これを超えない額の旧高額紙幣の預金は税監査対象にならないことを、政府は繰り返した(図の新聞広告参照)。
つまり、所得税をきちんと払っていて給料を銀行口座振込で受け取っているミドルクラスには実質的な害はほとんどないし、月収2万ルピー程度以下の一般的な労働者であればこれまで現金で受け取った賃金を銀行に預けても所得税対象にはならないから問題ないというのが政府の説明であった。
長期化する経済の混乱
闇経済やテロ資金対策が目的であった以上、今回の廃貨は首相およびその周辺のみの間で極秘に計画された。言い換えると、銀行業界への根回しがまったくないまま実施された。流通貨幣の86%を無効にした以上、100ルピー以下の紙幣と、新発行の高額紙幣を、迅速に流通させることが不可欠だったが、まったくの準備不足だったことが次々と明らかになった。混乱(chaos)が、廃貨のもたらした3つのCの第1番目である。
まず、新しい2つの高額紙幣の印刷・納品が遅れた上に、これらはサイズが異なっていたため、これを取り扱えるようにするにはATMの設定変更が必要だったが、そのためのマンパワーが不足していた。さらには少額紙幣中心で現金を供給するとなると、以前よりも頻繁な現金輸送が不可欠となるが、銀行支店やATMに現金を届ける警備輸送会社のキャパシティも決定的に不足していた。
11月10日から12月末まで、銀行支店とATMには長い列が並ぶのが常態化し、「現金があるか?」が人々のあいさつ代わりになった(写真参照)。長い時間待っても、現金が底をつけば手ぶらで帰るしかない。顧客の不満を最小限にするため、引き出し額上限より少ない額の現金しか渡さないという割り当てを採用した銀行支店も多かった。銀行・ATMに並んだ高齢者や慢性病を抱えた利用者の中には、行列で待っている間に命を落とす者も現われた。行列に並ぶことで失われた時間の機会費用も、経済に莫大な損失をもたらした。手持ちの現金が少なくなった市民は、買い物や外出を控えるようになった。
政策の朝令暮改もひどかった。旧高額紙幣を利用できる範囲が多少拡大され、最終的には12月15日まで実施されたのは、市民に恩恵をもたらしたので許せるところであろう。他方、旧高額紙幣の交換は、一時的に上限が4500ルピーに緩められた後、1人1回のみ2000ルピーの交換枠に縮小された。11月末には、旧高額紙幣が係る隠し所得を正直に申告して所得税を払えば税率50%、残る半分のうちさらに半分(預金額の25%)は無利子で4年間引き出し禁止とするが、悪質な隠し所得には最大95.5%の追徴税率を課す方針が、政府から発表された。税率200%という実施困難な当初方針が、95.5%という実施可能な数字に代わったことになる。外国人の外貨両替にも週5000ルピーの上限が導入された。
朝令暮改を象徴するのが、財務省が12月19日に銀行に出した指示である。これによると、同日以降12月30日までの期間、銀行に旧高額紙幣の預金に来た者に対しては、預金回数と金額の上限を設け、かつ、預金が12月18日までに行われなかった理由を銀行職員2名が確認するように指示したのだ。11月の廃貨発表時に財務大臣は、「12月30日まで旧高額紙幣の預金は可能なのだから、銀行窓口の混雑を避けて、慌てずにゆっくり預金に来るように」と発言していた。これを守った市民が馬鹿にされたと感じたのは当然である。マスコミの批判を受け、「財務大臣発言に従って、混雑を避けるためにこれまで預けなかった」という理由を正当と認めた銀行もあったと報道されている。
これだけの混乱と、野党による激しい糾弾にも関わらず、国民は今回の廃貨政策をもってモディ政権を見限ってはいないように見える。生活必需品の購入に関しては、現金の持ち合わせが足りない客に売り手はつけで販売し、釣り銭が足りない売り手に高額紙幣を渡した客は翌日以降の買い物に残額を回してもらう約束をもらうという様々な信用払いが観察された。銀行・ATMの長い行列に並ぶ人々も予想したほどには反政府的でなく、そこに飲食の差し入れをする有志の姿も目についた。廃貨のもたらしたCの2番目は、信用・信頼(credit)である。
闇経済はどうなった?
そして2016年12月30日をもって、旧高額紙幣の銀行への預金可能期間が終了した。不正資金を現金で蓄積していた者は、どう対応したのであろうか?
旧高額紙幣の交換は1人当たりわずかな額しか認められなかったから、表向きには、彼らが取れた対応は2つしかない。銀行口座に預金して不正所得を認めて追徴課税を受けるか、旧高額紙幣を紙くずにするかである。銀行に預金した場合に適用される税率が上限の95・5%近いと見込む者は、税務署の監査が今後厳しくなるリスクを考えると、紙くずにする選択をする方が有利になる。
報道によると、闇経済が退蔵していた旧高額紙幣の推計額は、旧高額紙幣総額の約20%ほどであった。したがって闇経済の現金退蔵者が前述したように行動すれば、銀行に戻るのは旧高額紙幣総額の約8割程度になるはずである。しかし12月末までに銀行に戻った旧高額紙幣は、総額の94%ほどと推計されている。8割を超えた部分がすべて追徴課税を覚悟した多額の預金とは考えられず、常識的な解釈は、闇経済資金の一部が資金洗浄(money laundering)されたというものであろう。
銀行員を巻き込んだ違法な資金洗浄が何件か摘発されている。摘発されなかった事例がその背後にはあるはずだ。加えて、2つの方法で半ば合法に資金洗浄が可能だった。
第1に、当初、旧高額紙幣の交換回数に上限はなかったから、失業者などを組織化し、手数料を払って何度も並ばせれば、有効な紙幣に替えることができた。1人1回2000ルピーに交換枠が限定されたのは、この方法での資金洗浄を防ぐ意味があった。
次に、旧高額紙幣をほとんど持っていなかった低所得者の銀行口座を動員して、それぞれに25万ルピー未満の旧高額紙幣を預金させ、有効な現金を後で引き出してもらうという方法がある。これも、利用される銀行口座の持ち主に手数料が支払われることになる。低所得層を近代的金融に取り込む政策の一環として、残高がゼロでも口座維持料がかからない特別銀行口座があり、これが特にこの手口に使われたようだ。そのため政府は、当初から、他人の旧高額紙幣を預かって自分の口座に預金しないように呼びかけた一方(前掲新聞広告参照)、後に、この特別口座への旧高額紙幣預金の監査を強める方針を公表した。
2つの方法は、資金洗浄だけでなく、銀行に行く時間がない市民にも利用可能だった。すなわち、廃貨のもたらした3つのCの最後が、代理・手数料(commission)である。
11月9日以降、闇市場で旧高額紙幣がいくらで有効紙幣に交換されていたかのレートを見ることにより、代理を用いた資金洗浄のコストがどのくらいかを間接的に知ることができる。廃貨の直後には、旧500ルピー紙幣が450ルピー程度、1000ルピー紙幣が800ルピー程度で交換されていたとの報道がある。500ルピー紙幣の方が割が良いのは、相対的に少額の紙幣の方が引受け手が見つかりやすいという事情を反映していたと思われる。
11月末に筆者が耳にした闇レートは、3割引き、すなわち1000ルピー紙幣を700ルピー分の有効紙幣に交換するというものだった。割引率が2割から3割に上昇したのは、旧高額紙幣を代理人に有効化してもらう手間が、政府の対策により、以前よりも面倒になったことと整合的な変化である。とはいえ、このくらいの手数料で済むならば、不正資金を現金で蓄積していた者は喜んで払ったのではなかろうか。
生活者として廃貨の現場で
2017年を迎え、モディ首相の当初の発言、「2016年内に落ち着くので少しの辛抱だ」は実現していない。デリー市内のATMの多くが停止したままで、現金があれば長蛇の列。ATM正常化は会計年度末(2017年3月末)以降になるという見方が強い。
筆者には、ATM機能不全が特に頭が痛い問題だ。生活に必要な現金を日本の銀行口座からのATMキャッシングで調達していたためである。友人からの信用に助けられながら、何とか流動性不足に対処した。現金を節約するために、最も安い交通機関である市バスを頻繁に利用するようになった(バスの最低料金は5ルピー、約8円である)。
初めは経済学者としてこのような現場にいられて幸運だと思っていたが、長く混乱が続くと、今日の現金管理が気になって研究に専念できない自分を見出すようになってきた。近年の開発経済学においては、行動経済学的分析をもとに、貧困に窮する家計は、長期的・合理的資源配分を行うだけの注意力・集中力が足りなくなり、貧困を悪化させるような短期的・非合理的資源配分をとってしまう可能性が指摘されている(黒崎・山形[2017年]、第3章参照)。この話が他人ごとではないことに今さらながら気づいた。
さて紙数が尽きた。廃貨の影響が階層別にどう異なるか、経済のキャッシュレス化への影響などについては次号以降にお話ししたい。
引用文献
黒崎卓・山形辰史『開発経済学 貧困削減へのアプローチ〔第2版〕』日本評論社、2017年。