連載
“BREXIT”
――イギリスのEU「離脱」の歴史的深層
第1回 ブレグジットの核心
明治大学経営学部教授 安部悦生〔Abe Etsuo〕
2016年の大きな政治的事件は、衆目の見るところ、イギリスのEU「離脱」と、トランプの大統領当選であろう。筆者にとって、イギリスの離脱決定は意外であったが、その後のトランプ当選は意外ではなかった。この伝でいけば、来年のフランス大統領選挙で、ルペンが当選しないとも限らないであろう。
昨年の6月23日に、イギリスは国民投票によってEU離脱の決定をした。ただし、これが現実の離脱をもたらすかどうかは、筆者の予測では定かではなかった。イギリス議会(下院)の承認が必要となり、その結果、否決される可能性もあり、離脱に括弧を付した(議会では2対1の割合で残留派が多数)。だが、1月17日のテリーザ・メイ首相のハード・ブレグジット(EUからの完全離脱)声明によって、イギリスのEU離脱は決定的になったようにみえる。ただし、トランプの当選を見ても分かるように、何が起こるかわからないのが現代政治というものであろう。
個人的な体験を話せば、国民投票の数日前に、ロンドン大学で教えている友人にメールを送り意見を聞いてみた。彼の返事は、「わずかな差で、残留(remain)が勝つと思うが、どうなるかは分からない」という慎重なものであった。しかし、私を含めて大方の人は、スコットランド独立をめぐる投票のように、あれこれ言っても、結局、政府側が勝つのであろうと予想していた。労働党の残留派女性議員ジョー・コックスが殺されたこともあり、弔い合戦的な様相で、残留派が楽勝するのではないかとも考えていた。しかし、予想は見事裏切られ、離脱派(leave)が残留派をかなりの差(3.8%)で打ち負かした(51.9%対48.1%)。しかも、残留派が勝利したスコットランドや、北アイルランド、あるいはウェールズ(離脱派勝利)を除いてイングランドだけを取ってみれば、その差は6.8%と、7%近い差がある(53.4%対46.6%)。
EU離脱国民投票の分析
なぜ離脱派が勝利したのであろうか。様々な分析が行われているが、1つには、地域の違いである。イングランドでもロンドンだけは残留派が勝利したが、それ以外の地域は離脱派が勝利した。イギリスでは、イングランド南部はサービス・金融業が中心で高所得地帯、北部が重工業中心で相対的に低所得地帯というように「南北問題」がある。だが、その南部でも離脱派が勝利した。第2に、年齢構成から見て、高齢者は離脱、若者は残留という明瞭な分布が見られた。55歳から64歳は離脱が57%、65歳以上は60%であった。これに対して、若年層は、残留が18歳から24歳は73%、25歳から34歳は62%であった。中間の年齢層は伯仲であった。ただし投票率は50歳以上が80%程度、30歳以下は60%台前半と差があり、高齢者パワーが投票結果を左右することとなった。第3に、残留派は高学歴者、離脱派は低学歴者という相違がある。これは次の職業分布とも関連する。第4に、白人ブルーカラーは離脱、白人ホワイトカラーとアジア・アフリカ系の人は残留という違いである。先のロンドン大学の友人はアイルランド系であるが、白人ホワイトカラーとして残留に投票した。ケンブリッジ大学の知人に聞いたところでは、ケンブリッジでは70%が残留であり、大学関係者だけを取れば、80〜90%が残留に投票したであろうと言っていた。このように、地方都市でも大学町のようなところでは残留派が圧倒的に強かったのであるが、それは全体のなかでは少数であり、地方では圧倒的に離脱派が大勢であった。ロンドンのような大都会では、人口800万のうち3分の1強が外国系(フランスなどの西ヨーロッパ、ポーランド・ハンガリーなどの東ヨーロッパ、インド・パキスタン・バングラデシュなどの南アジア、シリア・イランなどの中東、さらにはアフリカ、カリブなど)に占められているので残留派が勝利したが(59.9%対40.1%)、移民が少ないイングランドの他の地域は押しなべて離脱であった。第5に、輸出業者(特にEU向け)や大企業関係者は残留派であり、逆に、輸出非関連の企業関係者や海外活動を活発に行っていない中小企業関係者は離脱派であった。外国企業、例えばイングランド北部に日産が生産拠点を構えるサンダーランドでも、残留を期待する日産の意向に反して、有権者の6割が離脱を支持したことは意外な気もするが、分析していけば決して意外ではないことが分かる。では、以上のような投票傾向はなぜ生じたのであろうか。
ブレグジットの最大争点は移民問題
国民投票における最大の争点は、移民問題と国家主権の問題、それに付随してのブリュッセル官僚主義の問題であった。まず最大の課題である移民問題を取り上げると、イギリスにおける純移民(移民の流入から、流出を引いた数)は、1990年代は10万人を超えることは概ね無かったが、1998年に10万人を突破すると、以後一貫して増勢を続けた。2004年のポーランド、ハンガリー、バルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)など、東欧8か国がEUに加盟した2004年の翌年、2005年には純移民は20万人を超え、2014年、2015年には30万人を超えるまでに激増した。
これも筆者の個人的体験であるが、2000年代前半は毎年ケンブリッジのカレッジで夏を過ごしていた。2005年だったろうか、部屋を掃除してくれる年配の女性が英語を話せないことに気付いた。そこで、「どこから来たんですか」と聞くと、ポーランドからという答えであった。英語を話せないと言っても、ヨーロッパ人なのでこれくらいの応答はできる。それまでは、掃除のおばさんと四方山話をするのが好きだったので、それができないことが残念で、このことをよく記憶している。2016年のカレッジでは、掃除の女性はほとんどが東欧からのようであった。彼女らが集団で行動しているので何となく分かる。
もう1つは、昨年ロンドンのホテルに泊まった際、メイドの人と少しだけ話をしたのだが、英語がたどたどしいので、どこからと聞くと、ハンガリーからということであった。2004年に、EU加盟国はそれまでの15か国から、マルタ、キプロスを入れると25か国に急拡大した。約1.7倍である。この頃から域内移民(EU圏からの移民)が急増し、30万人を超えるころには域外移民とほぼ同じ規模になった。大雑把にいって、近年は域内移民と域外移民は15万人ずつである。このように2005年以降、域内移民が急増したのが特徴で、また域外移民も横ばいなので、総数が急増したのである。
こうした移民の激増は、イギリス社会にさまざまな軋轢をもたらした。まずイギリス人の雇用が奪われるのではないかという危惧である。近年の経済好調を反映して、イギリスの失業率は5%なので、ほぼ完全雇用に近い。また移民の職種とイギリス人の職種は重なりが少ないので、移民の増大が雇用に与える影響は小さいという意見も聞かれる。だが、重なりが大きいブルーカラー職種、例えば食品などの製造工場ではポーランド移民などが大量に雇用されていて、イギリス人労働者の職を奪っているし、賃金への引き下げ圧力ともなっている。食品工場があるイギリス中部のコービー(Corby)――かつては大製鉄所があった所――では、彼ら移民がいなくなれば労働する者がいなくなるという経営者の嘆きも聞かれるが、高賃金を払えばイギリス人労働者も応募するであろう。高賃金を払えば、コスト増となり、たしかに競争力は減退するが、この食品工場は輸出産業ではないので、製品を値上げしても、価格転嫁できる可能性がある。
もう1つの理由は、移民がもたらす生活習慣の違いである。東欧と西欧の生活習慣は概して差があり、そのギャップが耐えがたいという感情である。ただし、東欧は概してキリスト教(ギリシャ正教などの東方教会)なので、同じキリスト教という共通感覚はあり、また白人なので、それほど大きなギャップとは思われない。移民排斥を叫ぶトランプの妻も東欧系である。むしろ、アジア、アフリカから来た有色人種――これは現在では差別用語になるのだろうか――つまり非白人との溝の方が越えがたいと思う。特に、中東、北アフリカ、南アジアからきたムスリム(イスラーム教徒)との相違は大きい。生活習慣、価値観、宗教儀礼などが大きく異なるからである。中国、香港などの東アジアからの移民もいるが、彼らとのギャップはそれほど大きくはない。
ムスリム問題の深刻さを筆者が最初に認識したのは、1987年、イギリス北部のデューズベリー(Dewsbury)で起きた事件である。その町で白人の親たちが子供を小学校に通わせないという事件が持ち上がった。ある学校では生徒の半数以上がパキスタン人の子供で、給食などもパキスタン風になっていた。これでは英国流の教育が受けられないと親が子供の登校拒否という実力行使に出たのである(安部「私見卓見」『日本経済新聞』2016年8月5日)。2008年、昔住んでいたロンドン北方のキルバーン(Kilburn)に20数年ぶりに行ってみると、そこはムスリムの町と化していた。日中でも、怖くて入れない雰囲気であった。表通りはよいのだが、昔住んでいた家に行こうと細道に入ると、ムスリムの人が立っていて、とても歩いていける雰囲気ではなかった。それからムスリム問題に注意してみると、問題の深刻さが認識できるようになった。旅行者がよく行くパディントン(ヒースロー・イクスプレスの終点)の近くでも多くのムスリムが住んでいて、夜など一人で歩くのが憚られる状況である。ちなみに、先のキルバーンはアイルランド人のかつてのハートランドであった。またムスリムが大勢住んでいるロンドン東部のステップニーなども、かつてはユダヤ人が数多く住んでいた地域であるが、現在は圧倒的にムスリム居住地域となっている。昨年夏、このステップニーや隣のスピタルフィールズを約4時間ほどかけて歩いたのだが、この時は怖さを感じなかった。日中で人通りも比較的多かったせいだろう。このような移民問題は、ある意味でイギリスが19世紀から抱えていた問題なのだが、歴史上最も深刻な問題になったと言えよう。次回は、この移民問題をさらにその歴史的深層から見ていくことにしたい。