自著を語る
『金融商品取引法』
早稲田大学法学学術院教授 黒沼悦郎〔Kuronuma Etsuro〕
1 執筆まで
このたび、ようやく『金融商品取引法』を上梓することができた。有斐閣から最初に出版の話をいただいたのは、筆者が神戸大学奉職中であるから10年以上前になる。筆者が証券取引法の研究を志してからの年月を数えると、30年以上になる。そこでいささか感傷めくが、まずは執筆の経緯を個人的な感想をまじえて振り返ってみたい。
私が証券取引法を勉強し始めた頃は、証券取引法の授業を開講している大学はほとんどなく、私自身、証券取引法の授業を受けたことはなかった。助手論文でディスクロージャーを扱った際に参考にした体系書は、鈴木竹雄=河本一郎『証券取引法〔新版〕』(有斐閣、1984年)であり、その後、名古屋大学に職を得て証券取引法の講義を始めた頃には、神崎克郎『証券取引法〔新版〕』(青林書院、1987年)もあわせて参考にした。鈴木・河本先生の体系書は、幅広い実務上の知識を提供しつつ、証券取引法を理論と実務の両面から分析したものであり、初学者でもすっと入っていける親しみやすさがある一方、疑問を抱いた点を自分で解明したいと思わせる名著であった。たとえば、同書の92頁は、企業内容開示制度に対する効率的市場説の立場からの問題提起という、当時、最新の情報を紹介するとともに、効率的市場説という経済学上の重要問題について触れるには、筆者には準備不足であると正直に告白している。重要だけれど大先生が準備不足というのならば自分で勉強してみようという気になったものである。
神崎先生の体系書は、先生の研究の成果をまとめ上げたものであり、正確であるがゆえにいささか読みにくい日本語で書かれているけれど、読み込むと随所に先進的な見解が展開されていることがわかる。神崎先生の体系書は、その後、志谷匡史教授、川口恭弘教授との共著として改訂され、現在も学術上・実務上の重要な地位を占めているが、神崎説の記述がなくなってしまった箇所もある。そこで本書では、何か所かで、神崎説を上記単著版で引用した。ともかく、鈴木=河本『証券取引法』と神崎『証券取引法』で育った筆者としては、いつかこれらに匹敵するような体系書を書きたいと思っていた。
本書の内容はおおむね次の3つから形成されたものである。第1は講義資料である。法学部で証券取引法を受け持つことになった筆者は、準備のために講義ノートをワープロで作成し始めた。やがて講義ノートはレジュメに変わっていったが、これが本書の骨格となった。第2は論文執筆や研究会への参加である。私は研究の中心を証券取引法に置いていたので、ディスクロージャー、相場操縦、インサイダー取引、損失補填といった重要なテーマについて一通り論文を書くことができた。証券取引法(2006年以降は金融商品取引法)が改正され雑誌で特集が組まれると執筆を依頼されることが多くなり、改正法について考える機会も増えた。さらに、1989年に大阪証券取引所の証券取引研究会への参加を認められ(同研究会は形を変えて現在も続いている)、1997年からは神戸大学に移り、河本一郎、龍田節、神崎克郎、岸田雅雄といった証券取引法の諸先生から直接教えを受けることができた。第3に、2002年からは金融審議会またはその下の部会・ワーキンググループ等において、金融法制の企画立案に携わり、法改正について政策的な理解を深めることができた。とくに2003年以降、証券取引法(金融商品取引法)は毎年のように改正されており、本書のどのパートを見ても、筆者が研究を始めたころの法規制とは異なる姿をしている。
こうして振り返ってみると、金融商品取引法の体系書執筆について、自分がとても恵まれた環境にいたことがわかる。
2 本書の特徴
私は、研究生活の出発点において、効率的資本市場仮説に基づいて証券取引法を再構成したいと考えていた。それは、証券法制は全体として市場の効率的を確保するために設計(立法論)・運用(解釈論)されるべきであるが、市場が効率的な場合には効率性を前提とする設計・運用が認められるという考え方である。この試みは、本書において基本的に維持されているが、市場の効率性の確保という目的のみで制度の細部まで設計できるものではないし、効率性を目指す設計・運用と効率性を前提とする設計・運用とでは方向が相反する場合があるところ、どの場合にいずれを重視するかという基準を立てることは難しい。そこで、本書では伝統的な手法によって制度の趣旨を説明したり、解釈論を立てたりした箇所も少なくない。ただ、繰り返しになるが、本書は証券市場の実証研究や隣接諸科学の研究成果を積極的に取り入れる立場に立っており(たとえば、損害賠償額の算定における統計的手法の利用)、それこそが法学が依るべき方法論だと考えている。
筆者は、法と経済学(法の経済分析)のインパクトを最初に受けた世代に属しており、本書のインサイダー取引、相場操縦、損失補填の分析等に、読者は「法と経済学」的な記述を発見するだろう。この点は、本書が従来の体系書と異なる特徴といえるかも知れない。もっとも、筆者は、モデルを立てて分析する手法にはやや懐疑的であり、たとえば、モデルの前提が単純で現実的でなく、これを現実的なものにするとモデルは複雑になり、そこからいかなる示唆をも引き出せなくなってしまうのではないかなどと思っている。そのような懐疑は本書の叙述にも表れているので、どうか読み取ってもらいたい。
3 本書の叙述
本書は、2章から5章までをディスクロージャー制度、7章から9章までを不公正取引の規制、10章から12章までを業者規制および市場インフラの規制に充てている。これら3つが金融商品取引法および関連法令(金融商品取引法制)の中心的な内容であるという、一般的な理解に基づいている。金融商品取引法の条文数としては、業者規制(10章から12章)が多いが、学問的な分析の対象としての比重は低いと考えたので、簡潔に解説した。ただし、業者規制のうち行為規制は、不公正取引の規制と同様、投資者の信頼確保を目的としているといえるので、「投資勧誘の規制」として9章に独立させた。この点は他の書物と体系的に異なるかも知れない。また、9章では説明義務や適合性原則の違反に基づく民事責任についても触れている。民事責任は直接的には金融商品販売法や民法を根拠とするが、広い意味での金融商品取引法制に含まれる(金融商品取引法は業者規制だけではない)と考えたからである。
金融商品取引法制を理解するには、企業の資金調達の方法や資本市場における投資取引の仕組みなどの前提となる制度の理解が不可欠である。そこで、これらに関する記述を1章(総論)と6章(金融商品市場の仕組み)に置いた。金融商品取引法(証券取引法)の歴史は、各章の制度の説明において必要がある限りで触れることにし、1か所にはまとめなかった。読者の興味が殺がれると考えたからである。それでも1章が長くて、なかなか金融商品取引法の条文が出てこないと思う人は、2章から読み始めて欲しい。また、金融商品取引法制では、財務諸表の作成および監査が重要であり、財務諸表に対する会計上の規律や内部統制のあり方等が議論の対象となっている。本書は、財務諸表監査の重要性を意識して一定の説明を加えたが(3章)、なお問題点の理解に役立つ限りの簡素なものにとどまっている。
本書では、できるだけ説明注をなくし、これに代えて、詳しい論述を要する事項をColumnに取り上げた。Columnには専門的な事項が多いが、重要な事項、現在問題となっている事項も多く含まれるので、通読するさいにはColumnを読み飛ばさないことをすすめる。
本書は、1章から通読して理解できるように記述したつもりである。しかし、金融商品取引法はきわめて複雑で、後の章で出てくる概念を前の章で使わざるを得ない場合も多い。本書は、そのためにクロスリファレンスを多用したが、なお分かりにくいかも知れない。この点は読者の声を参考にして、改善をつづけていきたい。
4 本書のねらい
本書は、金融商品取引法制に含まれる各制度の趣旨・解釈を明らかにするとともに、各論点について筆者の考えを明らかにする目的で執筆した。前半だけでは、教科書にはなっても体系書にはならず、後半を理解してもらうためには前半が必要になる。筆者にとってはどちらも重要であった。自説の多くは論文で発表したものなので、いきおい自分の論文の引用が多くなってしまった。もちろん、自説を引用した論点について他の学説がある場合には、それらの引用も心がけたが、論点がかみ合わない場合には紙幅の都合で他説を省略することもあった。この結果、本書は黒沼説に満ちているという印象を与えてしまうかも知れない。それは本書のねらいであり、限界でもある。
かつて体系書は大学の教科書だった。大学は最高学府であり、書物だけではわからないことを教えるところだから、読んでわかる最高レベルの書物が教科書として使われた。いまは、人々が本にお金を払わなくなったので、学部で本書を教科書として採用することは難しいだろう。本書も実務家および研究者向けと銘打っている。しかし、本当は、学部または大学院の授業で本書を使ってほしいと筆者は願っている。本書で金融商品取引法がすべて解明されたわけではないけれど、新しい問題を考えるヒントは多く提供できたと思う。
冒頭に紹介した体系書の初版で神崎先生は、「本書は私の証券取引法の研究の現状を示すものであり、その限界は、まさに私の研究がそこまでしか及んでいないことを示すものである。ただ証券取引法の法規制が歴史的な発展の過程にあって1か所に留まるものでないように、私の証券取引法についての研究もここに留まるものではない。」と述べておられる。私の現在の心境もまったく同じであり、今後も研究に精進して本書をよりよいものに改訂していきたい。