コラム
引き続き「権威への挑戦」――主張責任と立証責任
京都大学名誉教授 前田達明〔Maeda Tatsuaki〕
第1 本稿の目的
1、一昨年、本誌に「続々・権威への挑戦――法規不適用説VS.証明責任規範説」という論稿を掲載していただいた(本誌640号〔2015年〕8頁)。これが、伊藤眞先生のお眼に留まり、民事訴訟法の体系書の最高峰に位置する御高著『民事訴訟法 第5版』(有斐閣、2016年)367頁に御引用下さり、「今後の検討の課題となろう」と評して下さった。身に余る光栄であり、これによって、多くの民事訴訟法学者諸賢と実務家諸賢に拙見(「前田説」とする。)の存在を知っていただけるようになったと、誠に有難く存じている次第である。
2、しかるところ、ある裁判官から司法研修所の見解(通説)を擁護する私信(1)を頂戴した。厚く御礼を申し上げると共に、この御意見に対して前田説からの反論を展開しようというのが本稿の目的である。
第2 通説擁護の概要
1、「主張責任も立証責任(2)も勝訴という目的に鑑みれば現状の変更を求める自らの利益のために働くことを要請していると考えられる」(自己責任原理)。
2、主張責任も立証責任も共に「自助努力原理に基礎を置」き、それは共に「憲法第13条」に法的根拠が求められるから憲法論の観点からも両責任の所在は一致する。
3、両責任の意義が異なり、さらに仮に、両責任の法的根拠が異なり、働く領域が異なるとしても(3)、すなわち「理論的非連続性」があるとしても、そのこと自体が両責任の所在を「一致させる」ことを否定する根拠とはならない。
4、「実務上の便宜という観点でいうならば、争点整理のために、訴訟物あるいは抗弁以下の主張の大枠が決まれば獲得目標が決まるというのは便利」であり「非訟事件、特に保全事件のように」他方当事者「の言い分を聞かずに判断することの多い事件では、獲得目標が抽象的に決まる」のは「大変便利」である。さらに、訴訟事件でも「請求原因事実の立証の見込みと抗弁以下の可能性」は「あらかじめ決まっている土俵ともいうべき要件事実論」に依拠するのが通説である。
第3 前田説からの反論
1、たしかに主張責任(と主観的証明責任)は「勝訴という目的に鑑みれば現状からの変更を求める自らの利益のために働くことを要請している」(自己責任原理)といえる。しかし、立証責任は「自らの利益のために働き」尽した後の“真偽不明”の状態を解決しなければならない(憲法第32条“裁判所は裁判しなければならない”)ための責任であって当事者の“働き”とは無関係である(自己責任原理ではない)。さらに“現状変更を求める”という根拠は、例えば、不法行為の被害者が損害を受けているという「現状」の「変更」を求めて賠償請求するといった場合を考えると、果して被害者に立証責任を負わす「根拠」として適切といえるだろうか。むしろ、不法行為を起こして“原状”を“変更”した加害者にこそ立証責任を負わせる根拠として適切ではないだろうか。
2、主張責任(と主観的証明責任)は“自助努力=自己責任(憲法第13条。「自由」=私的自治原則)”であるが、前述のように、立証責任は当事者(そして裁判所)の「努力にもかかわらず、事実の存否について裁判所が心証を形成しえない事態」に対処するためのもの(伊藤眞・前掲書366頁)、すなわち、当事者が自助努力を尽したにも拘らず「真偽不明」に終ったとき、それでも裁判をしなければならないから(憲法第32条)、“真”か“偽”かを“無理にも”決定するのが立証責任の問題である。したがって、これは自助努力を超えた領域であり「自己責任」ではなく「結果責任」なのである(三木浩一ほか『民事訴訟法 第二版』〔有斐閣、2015年〕264頁)。
3、たしかに、両責任に「理論的非連続性」があっても、それは「一致する」こと自体を否定する根拠にはならないかもしれない。しかし“必ず”あるいは“常に”「一致する」(通説)というのならば根拠が必要であろう。現に通説は立証責任を“真偽不明”のとき“偽”と判断する責任と考えているから“必ず” “常に”「一致する」のである(4)。
4、(1) 「実務上の便益」という主張は、前田説に対する次のような誤解に基づくのではないだろうか。それは、前田説によれば立証責任は訴訟の最終段階で「真偽不明」の場合に、一言でいえば、「公平原則」(憲法第14条第1項=法の下の平等=民訴法第2条〔公正〕)によって分配される、という。そこへ通説の考え(“主張責任は立証責任の所在と一致する”)を結び付けて、前田説では主張責任の所在も訴訟の最終段階にならないと定まらない、と。しかし、前田説では、主張責任(主観的証明責任も)と立証責任は分断されていて、主張責任(と主観的証明責任)の所在(5)は訴訟の最初から定まっている。すなわち、一定の法律効果発生を当事者が裁判所に求めるとする。そのとき、その法律効果発生のためには一定の法律要件該当事実の存在を“法”が要求しているのであり、裁判所は“法”に従って裁判しなければならないのだから(憲法第76条第3項)、裁判所は、その法律要件該当事実が存在しないと法律効果発生を認めることはできない。そして、当事者が主張していない事実の存否を裁判所が認定することは「私的自治原則」(憲法第13条)に反するから、当事者の主張がない事実は、その存否を判断できず、結局、法律効果の発生が認められない。しかも、それは「自助努力」の範囲内であるから不当でない。しかも、前田説は、通説(6)よりも法文に忠実な「法律要件分類説」(例えば、民法第415条の「債務の本旨に従った履行をしない」)である(立法者重視)から「実務上」も通説より明解であり、より「便利」である。このように、前述からも明らかなように、当然、訴訟の最初の段階から、主張責任(主観的証明責任も)の分配は定まっているのである(さもないと、そもそも、どの法律要件をもって、当該法律効果の発生を求めているのか不明である)。
(2) あるいは、通説は、立証責任を最初から定めて負わすと当事者は一生懸命に訴訟活動をするという利点があると考えているのだろうか。しかし、それならば、“どちらに転ぶかわからない”という前田説の方が両当事者が一生懸命に訴訟活動をするであろう。
(3) さらに、一方当事者の主張立証活動だけで結審しなければならない場合については、保全事件などは「疎明」(民訴法第188条)であって、「証明」ではないから「立証責任」は問題とならず、一方当事者の主張立証活動によって「相当程度の蓋然性が認められれば」(伊藤眞・前掲書342頁)「真(存在)」と認定すればよく、さもなくば「偽(不存在)」とすればよいのである。さらに、一般の裁判において、他方当事者が出頭しないときは、一方当事者の主張立証活動をもって最終的に「真偽不明」に終ったとすれば、主張立証活動をしなかった他方当事者に不利(主張立証活動をした一方当事者に有利)な判断をするのが「公平原則」に適うであろう。
5、(1) 他にも「真偽不明」という状態についての事実認定に「公平原則」といった価値判断を持ち込むのは疑問であるという批判もあるかもしれない。しかし、それは通説も同じであって「偽(不存在)」と判断するのも価値判断である(事実認定自体ができないのだから)。
(2) さらに、「認めない」というのではなく、「認められない」というのであって通説は問題ないという主張もある。しかし、実際上は「偽(不存在)」とされることには変りないのであるから、この主張も通説を擁護するものではない。
(3) そもそも「真偽不明」とは何か。それは「科学的証明」ではなく「経験則に照らして全証拠を総合検討し」要件事実があると「是認しうる高度の蓋然性」がない場合である(最判昭和50・10・24民集29・9・1417)。そして、「証明」できたというのは「八割がた確かであるとの判断である」とされている(中野貞一郎ほか編『新民事訴訟法講義 第2版補訂2版』〔有斐閣、2008年〕351頁)。したがって、比喩的にいえば、79%以下の心証は「真」とはいえず、逆に20%以下の心証は「偽」となるから、79%以下21%以上の心証が「真偽不明」ということになる。それを全て「偽(不存在)」とする(通説)のが妥当であろうか。むしろ「公平原則」によって、ときに「真」、ときに「偽」と判断する方が妥当ではないだろうか(7)。
第4 結びに代えて
このテーマの研究は、「主張責任と立証責任」(判タ596号〔1986年〕)(前田達明『民法随筆』〔成文堂、1989年〕284頁)に始まり、「主張責任と立証責任について」(民商法雑誌129巻6号〔2004年〕)(前田達明『民法学の展開』〔成文堂、2012年〕66頁)において全体構想を提示し、「要件事実について――主張責任と証明責任を中心として」(法曹時報65巻8号〔2013年〕1頁)(「編集後記」に「根本を問い直すものとして大変示唆に富む」と評していただいた)において一応の結論を得て、さらに、前述の「続々・権威への挑戦」において「純証明責任規範説」を提唱した。これらの発展は、ひと重に数多くの実務家諸賢そして研究者諸賢からの御教示と御批判の賜物であり、心から御礼を申し上げる次第である。特に、賀集唱先生には深く感謝申し上げる次第である。かつて、先生が前田説批判のお電話を下さり、2時間余りの大議論となって、「今日はこれ位にして」ということで受話器を置いた。その後、数日して、再度、先生からお電話をいただき「あの後、いろいろ考えたが、前田説に賛成する。結論だけいうと簡単だが、これに至るまで『七転八倒』の苦労をしたよ」とおっしゃった。前田説のために、かくも御苦労をいただいたことに大いに感動し、今後、前田説をますます発展させなければならないと心に誓い、今日に至っている。この学恩に、いささかでも報いさせていただくために、本拙稿を、
故賀集唱先生の御霊前に捧げる次第である。
先生は、かつて「ザルツブルクのモーツァルト音楽祭に行って来たよ」と楽しげに語っておられた。そのお声を今も耳の底に記憶している。
先生を偲んで、モーツァルトの「レクイエム」を聴きながら、筆を擱く。
(注)
(1)「私信」である故に、さらに御意見を誤解していれば失礼と存じたので、「匿名」にさせていただく。
(2)ここにいう、「立証責任」は、勿論、「客観的証明責任」と同義である。
(3)前田達明「権威への挑戦(下)」本誌632号(2014年)47頁参照。
(4)前田達明「権威への挑戦(上)」本誌631号(2014年)59頁参照。
(5)さらに主観的証明責任も当事者は“ウソを付いてはいけない”(民訴法第2条)のだから(本誌636号〔2014年〕30頁)、この責任は主張責任の所在と一致する。
(6)通説は、立証責任の分配が公平原則から観て不当な結果になると考えるとき、「法律要件分類説」を“修正する”という(法文無視)“逆立ち”した理論なのである。
(7)前田達明「主張責任と立証責任について」民商法雑誌129巻6号(2004年)(『民法学の展開』〔成文堂、2012年〕76頁)。