自著を語る
大西洋横断・豪華客船の旅――『ひとりで学ぶ刑法』を携えて
慶應義塾大学大学院法務研究科教授 和田俊憲〔Wada Toshinori〕
本書『ひとりで学ぶ刑法』と掛けて、大西洋を横断する客船クイーン=メリー2号と解く。以下、その心を述べながら、本書の特色と豪華客船の旅の魅力をともに示したい。
大西洋を横断する
2016年の元日はニューヨークにいた。在外研究のため2年弱を過ごしたカナダから、次の留学先となるフランスに引っ越す途上である。大西洋横断という貴重な機会を飛行機に乗り短時間で終えてしまうのはもったいない。そこで目をつけたのが船だった。
ニューヨーク港と英国のサウサンプトン港との間には定期航路がある。片道7泊を要するうえに、使用される客船はカリブ海や世界一周旅行にも出向くので、定期といってもニューヨーク発は年に10便のみである。そのうちの1便が引っ越しに最適の日程で運航されるのだから、今回は船に乗る運命だと考えるのが筋であろう。しかも、タイタニック号の流れを汲む豪華客船でありながら、宿泊はもちろん、乗船中の飲食すべてと重量無制限の手荷物代を含むその運賃は――客室のグレードで虚栄心の満足を求めない限り――飛行機よりも格段に安い。それを知った翌日には早くも乗船券を入手した。
出航日に先立って、滞在していたホテル宛てに出来たての本書『ひとりで学ぶ刑法』が送られてきた。共著者の一人として完成品を1日でも早く手にしたかったので、渡欧の道中で受け取れるよう編集部にお願いしたのだ。本書のような、刑法をひととおり学習した人向けの演習書型副読本を船旅の友にするという行為の希少性に魅力を感じたことも、もちろん否定できない。
かくして、東京は神保町から太平洋と北米大陸を郵便で越えてきた本書を携え、自由の女神を臨むブルックリン埠頭に停泊中のクイーン=メリー2号(QM2号)に乗り込んだ。
外洋を行く大型船のような
船で大西洋を渡ると言うと「揺れないのか」と訊かれる。外洋における波のうねりの間隔はせいぜい120メートルだとどこかで聞いた。一方、建造時は客船史上最大だったという本船の全長は345メートル。うねりの3倍もあるのだからその影響は受けないと思っていたが、考察が足りなかった。横幅は45メートルしかないのだ。つまり、前後には揺れないが左右には揺れる、が答えである。しかも13階建てで高さがあるため揺れ幅が大きい。
出航後2日目の夜から嵐に見舞われ、丸2日間、真冬の北大西洋の神髄を存分に味わった。揺れの周期が長い(精確に測っていないが感覚的には十数秒である)ので気分が悪くはならないものの、心地よいわけでもない。
船酔いを防ぐために、船外を一周できる7階デッキでの散歩が推奨されていた。夜間や荒天による閉鎖時以外は、多くの乗客が、3周で1マイルに達するそのプロムナードを、主に左回りでぐるぐるしていた。みな前方の一点を見つめて歩いており、端から見ると異様なのだが、船側を見るとビュッフェで食事中の人と目が合ってしまい、逆に海側を見ると海中に吸い込まれそうになるからだと、自分で歩いてみてわかった。
ところで、法の基本的な性質、すなわち〈適法〉と〈違法〉とをクリアに分節し、しかしその境界は単純な平面ではないという様は、まるで海のようである。そう喩えると、刑法の学習の大半は〈犯罪〉と〈非犯罪〉との境にあるべき海面の形状を理解する作業になる。
その際、基本書を読み込み、さらに論文等に手を伸ばして学ぶ方法は、ヨットやクルーザーでの航海に当たるだろう。翻弄されない技術が要るが、波を間近に見て体感できる。その充実感と達成感はこの上ないものである。逆に、判例・通説ベースで、しかも実質的な議論に立ち入らず形式だけを表面的に学ぶのは、超大型タンカーだろうか。あるいは、上空から眺める飛行機か。海上は無風で海面は鏡のようだと割り切れば、最高の安定感が得られそうである。
いずれにもそれぞれ目的に応じた一定の合理性があると思うが、本書が追求したのはその間である。気にすべき波とそうでない波とを峻別し、気にすべき波によって左右に揺られ刑法の大海原の神髄を味わいながら、しかし気にすべからざる波には翻弄されることなく安定して前に進めるようになっている。その意味で本書は、外洋を行く大型船である。
重要なところとそうでないところでメリハリを付けるのはどの本も同じと思われるだろうか。本書の最大の特長は、気にしがちだが気にすべきでない事柄を、その理由を含めて詳細に示すところから始めている点にある。重要でないことに触れないのではなく、なぜ重要でないのか、そしていかなる限度で重要でないのかを丁寧に説明している。具体的には、構成要件該当性・違法性・責任という犯罪論の体系、とりわけ故意の位置づけと、行為無価値論および結果無価値論という思想について、2章を割いて解説している。
この2章を冒頭に置くことは最初期の編集会議で決まったことだった。刑法の事例問題の答案を書くときに、この論点についてこう述べながら、こちらの論点でこのように書くことは矛盾しないのか、という疑問が真っ先に思い浮かぶ向きには、冒頭のこの2章を読むだけで本書の価値の半分は得られたことになると思う。
豪華客船のような
さて、豪華客船の典型的なイメージどおり、QM2号には、客室階級別のレストラン、毎日22時間営業のビュッフェ、シャンパン=バー、プラネタリウム機能付きのシアター、トレーニング=ジム、屋外と屋内のプール、ゴルフ練習場、日本語の蔵書もある図書館、そして美容院やスパなど充実した設備がある。託児所に朝9時から夜11時まで無料で預けられるのも、子どもの旅客運賃が大人と同額であることを思い出さなければ、かなりのお得感がある。
ドレスコードは厳格であり、大西洋横断中7回のディナーのうち3回はフォーマル。男性はタキシードでなくブラックスーツでもよいとされているが、貸衣装サービスでタキシードが――安いスーツほどの値段で――借りられるようになっている。
もちろんカジノも大々的に付いている。せっかくなので覗いてみた。結論だけ言えば、そこには、2年弱の海外留学で身につけたつもりの度胸程度では越えられない壁があった。服装が違う。年齢層が違う。見るからに階層と経験値が違う。2千名を超える乗客の中で日本人家族は自分達だけだと聞いていたこともあり、何かの名誉を害しないように参加は控えてルーレットを観戦だけした。夫と思しき人の背後から指示を出すご婦人が、着実に的中させてチップを増やしていく様は、賭け事は所詮確率論だろうという浅はかな人生観を揺さぶるに十分であった。
さて、カジノといえば賭博罪。本書で賭博罪は扱われているだろうか。巻末付録の「体系対応一覧」には賭博罪が載っている。執筆者の一人でありながら記憶がなかったが、知ればなるほどのところで触れられていた。正確には常習賭博罪である。
この「体系対応一覧」は、校正段階で編集部に作成をお願いしたもので、本書の特長のひとつである。これを見ると、刑法総論と各論の全体がほぼ網羅的に触れられていることがわかる。本書は演習書型の教材であるが、帯でも「『読みごたえのある』演習書」と銘打たれているように、問題を解くことよりも解説を読むことに主眼が置かれている部分が大半を占める。その解説において刑法の重要部分が網羅されているということであり、本書は設備に満ちた豪華客船でもある。もちろん、体系書ではないので、責任能力とか往来危険罪とか、手薄なところはある。豪華客船にも回転寿司やカラオケ=ボックスまであるわけではないから、許していただこう。
おひとりさま向けの
QM2号の船内はソフト面も充実しており、乗客が決して時間を持て余さないように、映画や演劇、講演会、スポーツ大会にカードゲーム大会、そしてなぜか長蛇の列ができる船長のサイン会や乗客による演奏・漫談ショーなど、様々な企画が毎日豊富に用意されている。
その手の企画ではないが、大西洋の真っ只中を航行中に前倒しで行われる船内での入国審査が興味深かった。そのためだけに出張乗船している英国の入国審査官は、空港の審査窓口だったら不適格だと思われるほど柔和な紳士であった。このような客船で不法入国を試みる者はおらず、疑う必要がないからだろうか。
さて、通常の企画としては、各種の少数者に交流の機会を提供するものも多く、LGBTやアルコール中毒快復者の集いのほか、ひとり旅の客の集いまで開かれている。建造から十数年が経ったQM2号は、2016年の大規模改修で定員1名の船室も多数新設されたようで、〈ひとり〉への対応は時代の要請である。
〈ひとり〉といえば、本書の企画に誘われてそのタイトルを聞いたとき、寂しい名前だというのが率直な感想だった。先行する好評書『ひとりで学ぶ民法』の姉妹書として事前に決定されていたタイトルだが、いまになってみればとてもよいものだと思う。「ひとりで学ぶ」というのは、第一義としては〈自分だけで〉ということであろうが、あとがきにも記したように、〈自ら能動的に理解しようとする意思的な姿勢〉をも含意すると解されるからである。
もっとも、もともとそのような確固たる姿勢をそなえた人にはこのような教材は必要ないともいえるから、本書は「〈ひとりで能動的に学ぶ気〉になる刑法」を目指して、読み手の気分を上げるべくあの手この手で工夫している。少々怪しい数式を用いて誤想過剰防衛を説明したり、文書偽造罪の理解のために文書の存在しない世界を想像してもらったり、退学処分を受けた学生に乗っ取られてK大学(たぶん京大)に突っ込もうとしている旅客機を手前で撃墜することは緊急避難として正当化できるかといったハードな問題を挙げたり。
本書の帯は、「『そうだったのか!』思わず膝を打つ解説が満載‼」と煽ってもいる。思わず膝を打つのは学生読者だけではない。刑法各論の2〜3割は罪数論だという島田さんの指摘や、私文書有形偽造と2項詐欺の拡張を対照させる安田さんの説明などで、私も膝にあざができた。また、過失犯や不作為犯のような自分では扱いたくない領域についての安田・島田両氏の解説は、授業をする際にもとても助かるもので、同業者の虎の巻という効用も大きいと感じている。さらには、教材であることを越えて、刑法学の学問的発展に資する記述も発見されると嬉しい。結果的に、いろいろな〈ひとり〉に向けられた本になっていると思う。
やはり謎かけで
最後は謎かけでまとめておこう。『ひとりで学ぶ刑法』と掛けて、大西洋を横断する客船クイーン=メリー2号と解く。その心は――川無い/買わないところで大航海/大後悔するでしょう。
比較的順調だと聞いている売上げのスクリュープロペラが、少し不思議な本稿によって逆回転しないことを願っている。