連載
ウェーバーの社会学方法論の生成
第3回 リッカートの文化科学――価値関係づけの円環
東京大学大学院総合文化研究科教授 佐藤俊樹〔Sato Toshiki〕
1.
リッカートの文化科学/法則科学は、W・ウィンデルバントの「法則定立的/個性記述的」、さらにはW・ディルタイが立てた「精神科学/自然科学」の区分の後継として位置づけられることが多い。
この二分法は現在でいう「文科系/理科系」にかなり重なる。けれども、ウィンデルバントらが領域や対象のちがいとして2つを区別したのに対して、リッカートは人間や社会に対しても自然科学が適用されることを認めた。いわば縄張りを否定した上で、方法論のちがいで2つの科学を定義しようとしたわけだ。現代風にあえて表現すれば、科学論の水準で勝負をかけた。
その主張は要約すれば、次のようなものだ。――文化科学の特徴は、価値を主題化する独自の方法論(「観察様式Betrachtungsweise」)にある。すなわち、観察者の「価値関係づけWertbeziehung」を反省的にとらえる視点にたって、対象を法則性ではなく個性によってとらえる。そうすることで初めて、本源的に一回性の営みである歴史や社会の事象を十分に解明できる、とした(注1)。
リッカートの『自然科学的概念構成の限界』は大きな話題になった。価値の介在を積極的に取り込んで、それを文化科学の独自性と優位性に結びつけたからだろう。ウェーバーが嫌った「講壇政治」のように、特定の価値観を独断的に主張するのではなく、ウィンデルバントのように分野で棲み分けを図るのでもなく、価値判断を反省的に主題化することの意義を、方法論の形で主張することによって。
現代の科学論にひきつければ、リッカートのいう価値関係づけは「観察の理論負荷性theory-ladenness of obser-vation」に近い。第2回では「観察者側の前提仮説への依存」として述べたものだ。こうした面は1906年以降のウェーバーの方法論、例えばマイヤー批判論文や「価値自由」論文でも取り入れられていて、「価値解釈Wert-Interpretation」とよばれている。
「価値解釈」とは社会科学の分析、特に因果分析での変数群の同定がもつ特性を形容した言葉だ。観察者の視野に入ってくる変数群は、その関連性の形態もふくめて、価値をともなう判断によって限定されてしまう。その意味では、変数群とその関連性の特定は、完全に客観的なものにはなりえず、観察者の解釈という性格を必ずもつ。
こう言い換えれば、「観察の理論負荷性」との重なりがより明瞭に見えてくるだろう。もちろん、これも自然科学と社会科学ではかなり変わってくる。自然科学でも、こうした面はたしかにあるが、個々の具体的な研究で注意を払う必要は少ない。
それに対して、社会科学では、具体的な研究の水準でも慎重に注意する必要がある。実験室のような「閉じた系」で先行変数を一括して統制できないだけでなく、観察されるデータが生み出される因果的なしくみまで、観察者側の前提仮説で直接説明できるからだ。
前回述べたように、少なくとも因果を具体的に特定する際には、観察者の前提仮説への依存を消去できない。統計的因果推論は、データと因果に関する仮説との対応関係を、具体的な分析に即して厳密に定式化することで、その点を明確にした。その意義は小さくない。
こうした点でも、価値関係づけに注目して人文社会科学の特徴をとらえようとしたリッカートの着想は、決して的外れではなかった。自然科学の通常の営みでは、価値関係づけは多くの場合無視できるが、全く無しにはならない。そんな風にいえば、自然科学者にもある程度納得してもらえるのではなかろうか。
2.
リッカート自身は、文化科学と自然科学の関係について次のように述べている(佐竹哲雄・豊川昇訳『文化科学と自然科学』228〜229頁、原著第7版S.140-141、傍点は原文強調部、ただし訳文は一部変更、原著の頁を記載する場合は以下同じ)。
自然科学といえども、やはり意味にみちた歴史的な文化所産Kulturproduktである。専門科学としての自然科学自身は、そのことを無視するかもしれない。けれども、自然科学がその眼差しを、たんに自然の客体Naturobjekteの上にばかりでなく、自分自身の上にも向けるならば、このような意味での歴史的な発展が自らに先行してきたことを否定しうるだろうか。この発展は必然的に、その一回的で個性的individuellな経過において、客観的な妥当性という価値基準の視点の下で観察されなければならない。すなわち、さまざまな出来事に対して、自然科学の歴史にとってそのなかの本質的なものと非本質的なものとを区別するために、我々が関係させざるをえない科学的真理の理論的価値theoretischen Wertesという視点の下に。
自然科学が文化発展のこの部分にとっての、この意味での歴史科学を是認するのであれば、他の諸部分の歴史をも科学だと認めないでいられようか? ……歴史︱文化科学的な視点は、それがはるかに包括的であるがゆえに、むしろ自然科学的な視点の明らかに上位に位置する。自然科学が文化人間Kulturmenschheitの歴史的所産であるというだけでなく、「自然」それ自体もまた、その論理的あるいは形式的な意味において、1つの理論的な文化産物Kulturgutであり、人間の知性による現実の、妥当な、すなわち客観的価値に満ちた把握にほかならない。
言葉遣いは少し旧めかしいが、こうした立論は、現代の私たちにとっても陳腐なものではない。文科系の学者が理科系に対抗して、自らの意義を主張するときに、今でもよく見かける。「文科系vs.理科系」図式の代表的な議論の1つだ。
図にするとこんな感じだろうか。ただし、統計学や美学、社会科学の位置づけは、私の方で仮に考えてみたものである。煩わしいので一部省略したが、もちろん全ての円が価値関係づけにあたる。
こうした形でとらえる意義はもう1つある。先にふれた、リッカートの科学論における価値判断の位置づけだ。「観察の理論負荷性」という表現をつかえば、理論負荷性をもった観察によって理論が検証されていることになる。(後の議論とも関わるので、ここであらかじめ断っておくが、この言い方は、本当はかなりレトリカルだ。具体的な対象をあつかう経験的な研究では、観察が負荷されている「理論」と観察で検証される「理論」は同じものにはならない。すぐ後でもう一度ふれる。)
そういう意味でいえば、価値関係づけは現代の言い方でいえば、科学の「内部観察性」を指摘したものだとも考えられる(『文化科学と自然科学』前掲219〜222頁、S.134-137など参照)。ニクラス・ルーマンの言い方を借りれば、文化科学はむしろ価値の介在を主題化することで、その脱同義反復化Enttatologisierungをめざす営みだといえるかもしれない。
もし現代の学術分野としての文化科学であれば、そんな位置づけも十分にできると思う。実際、ルーマンのお弟子さんのA・ナセヒは、こうした方向で現在の文化科学のあり方を構想しているようだ(Armin Nassehi, “Kultur im System,” Gesellschaft der Gegenwarten, Suhrkamp, 2011, “Die Paradoxie der Sichtbarkeit und die »Kultur« der Kulturwissenschaften,” Geschlossenheit und Offenheit, Suhrkamp, 2003)。
しかし、リッカート自身が構想した文化科学は、もっと強烈なものだった。なぜならば、こうした位置づけでは説明しがたい2つの概念を、明示的に立てているからだ。(A)「理論的価値関係づけtheoretische Wertbeziehung」と(B)「個性的因果関係individuelle Kausalverhältnis」である。この2つを外して、リッカートの文化科学は語れない。
3.
「理論的価値関係づけ」から解説していこう。
リッカートの考えでは、文化科学で見出される個々の具体的な価値関係づけは、さらに1つの価値関係づけによって関係づけられる。それを彼は「客観的な」「理論的価値関係づけ」と呼んだ。先の引用に出てくる「理論的」「客観的」という言葉も、そういう意味で使われている。文化科学的な歴史研究は、個々の対象への価値関係づけを反省的に見出しつつ、その対象の個性を明らかにしていくが、それらの価値関係づけも最終的に単一の「理論的価値関係づけ」によって関係づけられる――彼はそう考えていた。
それゆえ、文化科学はそれ自体で、1つの大きな円環を描く。特定の価値関係づけにもとづく歴史の探究は、自らの視点を反省的に主題化しながら、個々の対象の個性を解明することを通じて、人類の歴史が実現していく究極的な価値関係づけ、その意味で「客観的」で「普遍的」な価値関係づけを明らかにしていくことになる。
したがって、価値関係づけは対象を解明する視点であるとともに、解明された対象のあり方から見出される特性でもある。G・オークスや向井守が指摘するように、これは循環論になっている可能性があるが(Guy Oakes, “Weber and the Southwest German School,” W. J. Mommsen und J. Osterhammel (eds.) Max Weber and his Contemporaries, Allen & Unwin, 1987. 嘉目克彦訳「マックス・ヴェーバーと西南ドイツ学派」鈴木広他(監訳)『マックス・ヴェーバーと同時代群像』ミネルヴァ書房、1994年、向井前掲)、ウェーバーも「客観性」論文では、この循環を積極的に肯定していた。
リッカートの「価値関係づけ」の代わりに、ウェーバーは主に「文化意義Kulturbedeutung」という言葉を使うが、「客観性」論文における「文化意義」もまた、観察者と観察される対象の両方に現れる(前掲92〜93頁、GAzWL S.180-181、以下GAzWLからの引用は著作名を省略する)。
「文化」とは、世界に起きる、意味のない無限の出来事のうち、人間の立場から意味と意義とを与えられた有限の一片である。人間が、ある具体的な文化を仇敵と見て対峙し、「自然への回帰」を要求する場合でも、それは当の人間にとって、やはり文化であることに変わりない。……ここで、全ての歴史的個体が論理必然的に「価値理念」に根ざしている、という場合、こうした純粋に論理︱形式的な事態が考えられている。いかなる文化科学の先験的前提も、我々が特定の、あるいはおよそ何らかの「文化」を価値あるとみることにではなく、我々が世界に対して意識的に態度を決め、それに意味を与える能力と意思とそなえた文化人間Kulturmenschenである、ということにある。……それによって我々は人生において、人間の協働生活の特定の現象をこの意味から評価し、そうした現象を意義あるbedeusamとして、それに対して……態度を決める。そうした態度決定の内容がいかなるものであろうとも、――この現象が、我々にとって文化意義Kulturbedeutungをもち、この意義によって初めて、その現象が我々の科学的関心をひくのである。
自然への対し方そのものが文化の産物であること、そして「文化人間」というあり方こそが科学の意味をうみだしていること――そうした基本的な主張点が、先ほどのリッカートの文化科学の位置づけと共有されている(注2)。
そして結論部では、社会科学のめざすものが次のように語られる(160〜161頁、S.214)。
社会科学の本来の任務は……具体的で歴史的な連関の文化意義Kulturbedeutungの認識にもっぱら仕えることであり、それだけが最終的な目標である。概念構成や概念批判の研究もまた、他の手段とならんで、この目的に仕えるものである……
専門化の時代においては、全ての文化科学的研究は、ひとたび特定の問題を提起して特定の素材に照準をあわせ、その方法的原理を創り出してしまった後は、その素材の加工を自己目的とみなし、個々の事実の認識価値をつねに自覚的に、究極的な理念によって統制しようとはせず、およそ自らが価値理念に依拠していること自体を自覚することすらしない。まあ、それは仕方がない。しかし、いつかは色彩が変る。無反省に利用された視点たちの意義が不確かとなり、途は薄暮のなかに見失われる。大いなる文化問題たちの光がさらに差し込んでくる。そのとき科学もまた、その立場と概念装置とを換えて、思想の高みから事象の流れを見渡そうと身構える。科学はただそれのみがその営みに意味と方向を示すことができる、あの星座をめざして、歩みを進める。
格調高い文章を要約するのは気がひけるが、要するに、文化科学とは文化の下に文化を探究する科学なのである。この円環の究極的な終点を、リッカートは「客観的な」「理論的価値関係づけ」と呼んだ。そういう形で、文化科学の客観性を確保していた。
それに対して、ウェーバーはこの終点に関しては、明確に留保をおいている(例えば145〜146頁、S.206- 207)。だから、ウェーバーの「文化意義」とリッカートの「価値関係づけ」は、厳密には同じものではない。例えばリッカートならば、右の文章の「歴史的な連関」に、「具体的な」という形容詞は決して被せなかっただろう。
それゆえ、むしろこの円環を閉じない形で自覚的にそれに加わることが、「客観性」論文での「客観性」の中身だといった方がよい。ウェーバー自身が構想していたのは、いわば「理論的価値関係づけ」抜きの文化科学であった(注3)。……もちろん、そんな学がありうるとしたら、であるが。
抽象論に終始する「客観性」論文では、その点の論証は実際にはなされていない。「客観的可能性」や「法則論的知識」といった言葉が、定義はおろか、誰の術語かも明かされないまま、置いてあるだけだ。
4.
したがって、ウェーバーは「客観性」論文ではリッカートの文化科学に強く引き寄せられていた、といった方がよいが、少なくとも文化科学の再解釈や「批判的な研究」(マイヤー批判論文の正式の題名は「文化科学の論理学の領域での批判的研究」である)にはなっていない。
「現実を、その文化意義と因果連関において認識する」(79頁、S.174、なお「文化意義」も「因果連関」も単数形)ことが社会科学の目標とされており、『アルヒーフ』の同じ号に掲げられた「緒言」でも、「資本主義発展の一般的な文化意義の歴史的かつ理論的な認識」(同181頁、“Geleitwort,” Archiv 19(1), S.v, 1904)が研究目的として宣言されている。先の引用でいえば、「思想の高みからaus der Höhe des Gedankens事象の流れを見渡す」ことが科学の本来の、そして究極的なあり方なのだ。
「客観性」論文から見出されるのは、そうした文化科学者マックス・ウェーバーの姿である。そんな彼が最終的にどうなっていくのか。
その最後の姿を一番よく表すのは、「倫理」論文の改訂作業かもしれない。第1回で述べたように、この論文の最初の版(アルヒーフ版)は、「客観性」論文とほぼ同時期に書かれている。その結びで、この研究がめざすものをウェーバーはこう述べている(Archiv 21(1), S109-110、梶山力訳・安藤英治補訳では359頁)。
そうして初めて近代的な文化の他の形成要素との関係において、禁欲的なプロテスタンティズムの文化意義が明らかにできる。けれども、それには禁欲的なプロテスタンティズムが他方で、社会的な文化的諸条件、とりわけ経済的なそれらの総体によって、その生成と特性においてどのように影響されたのか、そのあり方を明確にしなければならない。
ところが、1920年の『宗教社会学論集1』に収められた改訂版では、次のように書き換えられる(GAzRS1 S.205,MWG1/18S.489、大塚久雄訳岩波文庫版368〜369頁、太字は原文の強調部)。改訂された箇所を下線で示しておく。
そうして初めて近代的な文化の他の形成要素との関係において、禁欲的なプロテスタンティズムの文化意義の大きさMassが明らかにできるのだろうkönnte。ここでは、その作用の状態とあり方を、1つの点において、重要な点ではあるが、その諸要因に遡ることが試みられたにすぎない。さらに、禁欲的なプロテスタンティズムが他方で、社会的な文化的諸条件、とりわけ経済的なそれらの総体によって、その生成と特性においてどのように影響されたのか、そのあり方を明確にしなければならないのだろうmüsste。
改訂版の「文化意義」は、「大きさ」=その程度を論じうるもの、すなわち量的もしくはそれに準じた測定を受けつけるものになっている。さらに、アルヒーフ版では、プロテスタンティズムの文化意義の解明は、社会経済的な要因の影響の解明とは別のものであったが、改訂版では、前者は後者の一部とされている。つまり、文化は対象側の属性として、社会経済的な要因の1つになっている。
そして、この箇所のすぐ前もふくめて、動詞や助動詞が直説法から接続法Ⅱ式に変更されている。言明自体が蓋然性の低い願望であることが示され、書き手のウェーバー自身が、元のアルヒーフ版に比べて、明確に距離を置こうとしている(注4)。なお、ウェーバーの文章における接続法の意味については、野崎敏郎『ヴェーバー『職業としての学問』の研究(完全版)』前掲362〜370頁参照。
これらによって、「倫理」論文改訂版は、リッカートの文化科学の円環から完全に抜け出している。個々の具体的な因果分析に焦点をしぼることで、文化意義も明確に対象側だけに限定されている。この変化はそれこそ科学論的にみても、とても興味ぶかい。
前回述べたように、具体的な因果の特定でも、結論は観察者側の前提仮説に依存するが、これが閉じた循環論になるのは、結論を求める上での前提条件と結論とが一致する場合だ。裏返せば、前提条件と結論の間の距離が大きいほど、反証可能性の程度があがる。先ほど述べたように、具体的な観察が負荷されている「理論」と、観察で検証される「理論」は必ずしも同じではない。
ところが、一般的な方法論として展開すれば、前提条件も結論も、「文化意義」とか「価値関係づけ」といった一般的な概念で表現せざるをえない。だから、閉じた循環論になってしまう。言い換えれば、循環論になるのは、結論が観察者側の前提仮説に依存するからではなく、前提条件と結論を抽象的な概念だけで表現するから、すなわち一般的な方法論の水準だけで抽象的に考えているからである。
それに対して、前提条件も結論も具体的になればなるほど、その間に距離をおく可能性域Spielräumeが拡がる。ルーマン的にいえば、脱同義反復化しやすくなる。したがって、経験的な研究の水準では、仮説などの前提条件と結論との間に一定の距離をおくことは、それほど難しくない。具体的な観察に負荷されている「理論」と観察で検証される「理論」は、必ずしも(=ア・プリオリに)同じではなく、循環論かどうかはケース・バイ・ケースで(=ア・ポステオリに)判断すればよい。
「倫理」論文の改訂版では、ウェーバーは明確にそちらの方向に舵を切っている。この改訂がどんな作業だったのかをよく示す箇所の1つだが、逆にいえば、1906年以降の著作、例えば「職業としての学問」論文と「客観性」論文の議論を直結するのはかなりあやうい(⇒第1回)。
次々回以降で詳しくみていくが、1904/05年段階でのウェーバーの社会学は、文化意義の解明を主な目的に掲げつつ、厳密な因果同定手続き論を欠いていた。つまり、実態としては、具体的な反証可能性を確保しないまま、歴史の因果を文化的意義から特定するものになっていた。その点で、経験科学というよりも思想に近い。現在でいえば、
だからこそ「倫理」論文は(いわばアルヒーフ版にそった形で)愛読された、という面もあるのだろうが。
……かくてウェーバーは、今後に残された研究課題を予告して全文を閉じることになる。
それらはその後この予告どおりには実現されなかったが、執筆当時の問題意識を記録として残し、それがその後よび起されたもろもろの誤解に対する事実上の答弁になりうると考えたためであろう、予定変更に関する事情を註記したうえで、また、文章も2、3の時称の変更と1つの加筆分(問題の所在の確認)とを除いて、原論文どおり現論文に移されている。
安藤は「倫理」論文の改訂作業を詳細に追跡して、その実態を明らかにした人だが、この箇所の改訂は重要だとは考えなかったようだ。安藤は「客観性」論文とマイヤー批判論文の間で、方法論のちがいを全く認めておらず(同375〜376頁の注記など)、その立場からの理解だろう。
私は、直説法から接続法Ⅱ式への話法mood(時称tenseではなく)の変更もふくめて、改訂版では意味内容に大きな変化が起きている、と考えている。「倫理」論文の改訂作業について、私は安藤のような緻密な追跡をしていない。それゆえ、安藤の理解が誤りだとここで断定することはできないが、マイヤー批判論文で転換がおきたと考えるかどうかで、ウェーバーの社会学の全体像も変わってくる。そのことを示す良い事例だとは思う。
5.
では、この「理論的価値関係づけ」として、リッカート自身はどのようなものを考えていたのだろうか? 答えは――空白である。1936年に亡くなるまで、「理論的価値関係づけ」の内容が特定されることはなかった。
おいおい! と言いたくなるが、リッカートという人は、どうもこういう人だったらしい。具体的なモノにはからきし興味がもてず、ゲーテの『ファウスト』に憧れる、永遠の少年みたいな人。向井守も述べているように、「個性的因果関係」を称揚したリッカートは、実際には、具体的な事象の因果関係には関心をもてない人間だった(注5)。
リッカートも、現在の文化科学はまだ「理論的価値関係づけ」を具体的に特定するまでに至っていない、と留保をつけている。だが、いずれ同定できることは全く疑っていなかった。厳しい目でみれば、そうやって彼は空手形を発行しつづけた。
彼の文化科学が奇妙な空虚さを感じさせる理由は、むしろそこにあるように思う。価値関係づけを抽象的な概念だけで論じれば、閉じた循環論になる。その中身を具体化するには、経験的な研究を進めるか、あるいは、それらを関係づける「理論的価値関係づけ」の中身を、ある程度以上特定しなければならない。
ウェーバーは前者の途を歩み、リッカートの円環を抜け出していく。具体的な因果の特定であれば、結論も、結論を求める上で必要な仮定も、具体的になるほど、観察者側の前提仮説との間に距離を見出しやすい。より正確にいえば、前提仮説に依存はするが、同じものにはならない。
それに対して、リッカートは前者、すなわち経験的な研究には全く興味がなかった。そして後者、すなわち「理論的価値関係づけ」の中身を特定すれば、その瞬間に、それは彼個人の主観的で個別的な価値判断ではないのか? それとどう区別できるのか? という反論が飛んでくる。
だから、その手前で彼は停止するしかなかった。それでも疑問をもたなかった、自分の主張は正しいと信じていられた。そこがいかにもリッカートらしい。
(注1) その意味では「個性化individualisierend科学/一般化generalisierend科学」といった方がより適切かもしれないが、文化科学/法則科学の方がわかりやすいので、こちらを使う。リッカート自身も「法則科学」を方法論の用語として使っている。例えば「「歴史の法則」という概念は形容矛盾である、すなわち歴史科学と法則科学は概念的には互いに互いを排除する」(『自然科学的概念構成の限界』原著第2版S.258)。
(注2) 「文化人間」という言葉は「職業としての学問」論文にも出てくる。ウェーバー以外もふくめて、その詳しい用例については、野崎敏郎『ヴェーバー『職業としての学問』の研究(完全版)』(晃洋書房、2016年)の162、200、203〜204頁を参照。
(注3) その点で、「客観性」論文での「客観性」の主張は、リッカートに比べて最初から弱い。G・オークスはリッカート自身が考えた意味での「客観性」の探究を「価値関係づけ問題Wertbeziehungsproblem」と名づけた上で、ウェーバーはこの問いには関わらなかった、と述べている(Die Grenzen kulturwissenschaftlicher Begriffsbildung, S.46- 47, Suhrkamp, 1982)。
そのことはおそらくウェーバーが別の「客観性」を模索する誘因にもなっただろうが、「客観性」論文では、結論部の引用にみられるように、「理論的価値関係づけ」にあたるものを否定しきれていない。
(注4) この箇所について、安藤英治は次のように述べている(『ウェーバー歴史社会学の出立』未来社、1992年、442〜443頁)
(注5) ただし、リッカート自身はなぜ空白かの理由づけも試みている(H.Rickert, Zwei Zege der Erkenntnistheorie, S.207, Königshausen & Neymann(reprint), 1909)。これについては後でまた述べる。