連載
新世代法学部教育の実践
――今、日本の法学教育に求められるもの
第5回 解釈学の伝授から「ルール創り教育」へ
武蔵野大学法学部教授・法学部長 池田真朗〔Ikeda Masao〕
1 新世代法学部教育と教育内容の再考
本連載の初回に掲げたこの数字をご記憶だろうか。2015年の段階で、法学部(法学類含む)の定員総数は13万6,577人とのことである(読売新聞「大学の実力」編集部調査から)。つまり1学年の定員は約3万4,000人なので、毎年の司法試験合格者をほぼ現状の約2,000人とすると、その数字は法学部(法学類含む)の学生1学年の1割にも満たない。法律・行政関係の総合職国家公務員試験合格者(2015年度の同試験の最終合格者は学部卒生の法律区分277名、院卒生の行政区分253名)を加えても同様である。つまり、今や「法学部生の9割以上は法曹やキャリア国家公務員にならない」わけである。
そこで、わが国の法学部教育は(少なくともその主要部分は)、その9割以上の、法曹にならない「圧倒的多数派」の学生のために展開されなければならないとしたのが、本連載の冒頭で示した、私の「新世代法学部教育論」の基本コンセプトであった。
それに基づいて、前回はテキストのあり方などを再考したわけであるが、もっと根本的に、教えるべき法律学の内容それ自体を変容させる必要があるのではないかというのが、今号での議論である。
2 法律学者の問題意識と学生のニーズの乖離
それに関連して、教える側の学者の関心のありようについても問題提起をしなければならない。
以前、ある高名な裁判官の方に、民法学者の議論の場に同席していただいたことがある。後でその裁判官が漏らした感想は、「民法学者の皆さんがメタな議論がお好きなのに驚いた」というものだった。メタな、とは、あえて表現を選ばれたのであろうが、理論を解釈するための理論、というよりつまりは、「現実と乖離した、観念的な解釈論議がお好きなのですね」という、半ばあきれたような感想ではなかったかと私個人は感じたものである。
つまり、教わる側の9割以上が法曹にならないのに、教える側の学者の問題意識が人々の現実の生活と乖離した細かい法律解釈論や理論構築にばかり向いているとしたら、そこには大きな乖離があることになるのである。
具体例をもう1つ加えよう。これは現在国会提出中の民法債権関係改正案の下準備の研究会で、私が何度も経験したことである。いくつかの新奇な改正提案について、その必要性、必然性を問う私に対して、「でもこういう解釈でも説明はつきますよね」という返事が何度も返ってきた(詳細はここでは述べないが、例えば、契約の解除の制度から帰責事由の要件を外せば、危険負担という制度は解除で説明できるから不要になる、などという議論がその代表例である)。私は一国の民法改正は、その受け手であり使い手である市民の立場で問題があるのかどうか、使い勝手がいいかどうかという観点でなされるべきだと思っているのだが、民法学者の中には、理論的な整合性から民法改正を考えようとする者がかなりの数存在するということも事実である。
さすがに講義内容と問題関心とは別なのであろうが、そのような問題関心が講義にもにじみ出るというのであれば、論じるべき問題はかなり根深いものとなろう。
3 法曹養成教育を離れた法学部「専門」教育の追求
そして、これも本連載ですでに触れたところであるが、法曹養成教育を離れた法学部「専門」教育の独自の意味が探究されなければならない。法曹養成以外の法学部教育がいわゆる「リベラル・アーツ」の教育になったり、「市民教育」になってしまうのでは、法学部の独自の存在意義がないと私は思っているのである。
またこの点に関して、「リーガルマインドの養成」ということもよく言われるが、この「リーガルマインド」という抽象的な用語、またその「養成」という、方法論が不明なかつ達成度の測定困難な目標設定にも、疑問の目が向けられなければならない。
4 法学教育=法曹養成教育という歴史
さらにここでの議論の前提として指摘しておかなければならないことは、わが国の法学教育は、歴史的に見てもその最初から法曹・官僚養成のための教育であったということである(以下詳細は別稿に譲り、要点だけを記す)。
わが国の法学教育史は、明治5(1872)年の明法寮(のちに司法省法学校)に始まる。そしてその司法省での法律専門家の養成は、当初からブスケらによってフランス語で行われた(ボワソナードとブスケが担当して本格的な法律学教育が開始されたのは明治7年4月からである)。その「正則科」と呼ばれた修業期間8年の正科は、明治17年末に廃止され、いったん文部省直轄の「東京法学校」なるものに移管されてから、翌18年に東京大学法学部に吸収合併される(同大学が東京帝国大学法科大学に改組されるのは翌19年3月である)。
もう1つ、明治9年4月の司法省員外出仕生徒教育に始まる、司法官の短期養成を目的とした修業期間2年の「速成科」は司法省に残るのだが、この速成科も明治20年に終了する。ここからは多くが判事登用試験に合格し、またその他の卒業生には代言人の無試験免許が認められた(以上の詳細は手塚豊『明治法学教育史の研究』〔手塚豊著作集第9巻〕3頁以下所収の「司法省法学校小史」参照)。
つまりそれらの教育機関で養成されたのは、裁判官や政府の要職に就く法律専門家であった(今日の「官僚」の概念よりは少し広いイメージでとらえたい。梅謙次郎も司法省法学校出身である)。さらに言えば、この歴史の初めから、法曹・官僚養成教育について司法省と文部省の綱引きがすでに始まっていたことが指摘できる。そしてこの司法省・東京大学(文部省)による法曹・官僚養成に、私立の法律学校も参入したわけであるが、私立の法律学校は数的には代言人(弁護士)の主要な供給源となったと思われる。要するに、明治以来の官学・私学による法律学教育は、当初からほとんどすべてが法曹と官僚の養成を目的としていたのである。
なお、この点で唯一の例外と言えそうなのは、福澤諭吉の慶應義塾が開設した、大学部法律科(明治23年開設)であった。福澤は、法律は「人生必須の学問」であって、「判事となり代言人となるがために法律を学ぶと云ふ者は、未だこの学の区域を知らざる人の考たるに過ぎず」と述べて、ハーバード大学から招聘した、後年大法学者となる若き日のジョン・ヘンリー・ウィグモアに、(まさに旧民法典などの国内法が急速に整備されつつある時期に)英語で英法を講義させたのである(村上一博教授は、その論考「福澤諭吉と『近代的代言人』児玉淳一郎」の中で、「福澤が法学教育の重要性を認識していたことは疑いない。しかし、福澤の場合、私立法律学校における法曹養成を積極的に評価する姿勢はどこにも見られない」と評する(『福澤諭吉の法思想』〔慶應義塾出版会、2002年〕163頁)。しかし、この孤高の試みは(いわば当然の結果として)成功に至らず、10年間で卒業生は30名にとどまり、かつ同校もウィグモア離日後は急速に、他の法律学校と同様の、日本法を日本語で講義する教育機関になっていったのである(詳細は岩谷十郎「法科大学院の創始と福澤諭吉」福澤諭吉年鑑32〔福澤諭吉協会、2005年〕85頁以下参照)。
5 法曹・官僚養成の枠組みの中での法学教育論の限界
私はすでに、法学教育論の歴史と「法学部教育論」の不在について、末弘厳太郎博士の業績から説き起こして書いたことがある(池田「新世代法学部教育論――「法曹養成」を超えた真の指標を求めて」世界〔岩波書店〕2015年9月号256頁以下)。したがってここではそれを繰り返すことはしないが、セツルメント教育などで時代の先駆者であった末弘博士にあっても、法曹や官僚にならない「その他の一般学生」は、「工場見学者に喩ふべきものたるに過ぎ」ず、それらの法学部生のための教育は、「特殊の法学教育」という位置づけであったのである。
さらに、ここ十数年の我が国の法学教育論議は、ほとんどが法科大学院関係のものであった。代表的な業績としての米倉明東京大学名誉教授の膨大な連載には、本稿と方向性の近い法学部教育論(ただし同教授の記述は「市民教育」の方向)も含まれるが、基本はやはりそのタイトルにも示されるとおり法科大学院の目線・距離感からの言及である(米倉明「法科大学院雑記帳」戸籍時報連載中。ことに本稿との関係では、同誌721号、723号、さらに736号での拙稿の詳細なご紹介には深甚の謝意を表する)。
他にたとえば滝澤聿代『変動する法社会と法学教育――民法改正・法科大学院』(日本評論社、2013年)所収の論考は、完全に法科大学院論である。さらに、滝沢教授が言及する近年の平井=内田論争(NBL684号、685号、689号、690号等参照)と呼ばれたものの中の教育論議も、(両者の契約法学観はさておき)つまるところ、法曹・官僚(あるいはより広く「法律家」)養成の使命を与えられてきた東京大学における世代間論争であったとも見うる。平井教授の、同大学での教育経験に基づく論理展開の姿勢は至極正当であると思えるが、内田教授側の批判に、他大学等での具体的な実践に基づいた問題提起や提案が見出せないのであれば、これは結局、本稿の法学部教育論が参考にする一般性には乏しい議論であったと言わざるを得ないのである。
6 エアポケット状態の「法学部教育論」
前掲の「世界」拙稿で十分に紹介できなかった大村敦志東京大学教授の(およびその率いる学会の)「法教育」についての業績にも若干触れておく必要があろう。それらは、高校生や市民らに法教育を普及させていこうとする方向の試みとしては、相当に高い評価を与えられるべきものと思う。ただ、それらも、私がここで論じようとする「大学法学部での法学専門教育」とは発想においてすでにズレがあるように私は感じている。この点は大村教授自らが、その初期の論考において、「正攻法として考えられるのは、現代日本の「法学教育」、とりわけ法学部における法学教育(以下、「法学部教育」と呼ぶ)の現状を子細に検討し、そこから方策を見出すというやり方であろう。しかし、本章はあえてこのようなアプローチをとらずに、検討対象たる「現代日本の法学教育(特に法学部教育)を相対化して、言わば外側から見ることによって、法学教育のあり方を考えるというやり方をとりたい」と述べているところである(大村『法典・教育・民法学』〔有斐閣、1999年〕124頁)。
したがって、「法曹養成以外の法学部専門教育」についての議論は、なお見落としはあろうかとは思われるものの、過去も現在も、エアポケットに入ったように手薄になっていたと感じるのである。
7 解釈学中心の教育法との訣別
以上の検討を踏まえて、私見の「法曹養成以外の法学部専門教育」論を展開することになる。結論を端的に言うと、これまでのいわゆる解釈学中心の法律学講義は、今後大幅に変容していかなければならないだろうというのが、私の見解なのである。
これまでのわが国の法学部では、いわゆる法律、すなわち国会で制定された憲法、民法、刑法などの法律を教え、しかもその解釈論を詳細に教えてきた。そして学説の対立を論じ、また判例の形成を紹介してきた(先に述べたように、既にこれは判例と学説の教える順序が逆なのであるが)。しかしそれは誰の何のためになるのかということである。法律を使う専門家の裁判官、検察官、弁護士(さらに学者)を育てるため、また官僚を養成するためには確かに役立つであろう。けれども、それらにならない9割以上の法学部生たちをメイン・ターゲットと考えたときには、それは最も有用な教育方法・教育内容となるであろうか。
つまり、最近の文部科学省的な言い方をすれば、現代の法学部は、9割以上の法学部生に対して、どのような到達目標を設定するのか。そしてその目標は、詳細な法解釈学を伝授することによって達成できるものなのか。換言すれば、解釈論の緻密であることが「良い」教育の指標になるのか。我々は、解釈論の伝授を最大の目標とする法学部教育と訣別すべき時期にきているのではなかろうか。
8 「ルールを創れる人」を育てる法学部教育序説
ここから先は、まだ私自身も完成させていない、開発途中の教育手法にかかわるので、記述は抑制的にならざるを得ない。もっと言えば、軽率に手の内をさらけ出すわけにもいかないというより、成果も世に示せていないうちに書いてはいけないことかもしれないのだが、ここでも私は、既にテキストについて「ユーザー・オリエンテッド」という表現をしたように、いわば「カスタマー・オリエンテッド」な視点で法学部教育を考えようとしているのである。
現代の法学部生たちの最大の進路は、民間企業への就職であろう。ついでは、地方公務員になったりする者が多いかと思われる。もちろん法曹や各種士業の資格試験を目指す学生に対する手当も怠ってはいけない。それらの各進路に進む法学部生すべてを対象として包含する内容での、法学部「専門」教育が探求されなければならないのである。
そこで私は、現在教鞭を取っている武蔵野大学法学部法律学科では、既存の法律の解釈ばかりを教えるのではなく、法律の学びを通じて、もっと広い意味の「ルール創り」を教えることを目的にしたのである。具体的には、判例がどう、学説がどうという話よりも前に、この条文は何のために、誰の利益を考えて、あるいは誰と誰の利益のバランスを考えて作ってあるのか、とか、この条文はどういう機能を果たしているのか、またこういうルールがなかったら人はどう行動するのか、などを教えていくのである。
9 多様な集団における最適ルールの創造
繰り返すが、私が念頭に置いている法学部生は、非常に多様な進路に進む学生たちである。そうすると、法学部教育は、それら卒業生が入っていくさまざまな人の集団(国、企業、地域社会)のあり方を考慮して、そのいずれにおいても、「構成員たちの幸福を考え、その集団に最適なルール創りができる人」を養成するものであるべきなのである。
したがって、教える素材はいわゆる狭義の「法律」であっても、新世代の法学部教育は、その法律の解釈論で完結するのではなく、それをあくまでも「素材」として、あるべき「ルール」の意味、機能、そしてその作り方、を教授する方向に新たな地平を見出すべきと考えるのである。
このように、解釈論の伝授を「ルール創り」教育に置き換えると、法学部教育は、これまで縁遠い存在と思われていたいくつかのものと接近することになる。次回はそれらについて例を挙げて説明し、そして、教育の理念と実践の関係を再論して結びとしたい。