鼎談
立教大学法学部教授 早川吉尚〔Hayakawa Yoshihisa〕
立教大学法学部教授 瀧川裕英〔Takikawa Hirohide〕
東北大学大学院法学研究科教授 森田果〔Morita Hatsuru〕
Discussion
早川 本日は、本当にありがとうございます。今回、『法学入門』(有斐閣ストゥディア)を出させていただいたことを機に、『書斎の窓』から本書についてどなたかと話し合う企画の打診がありました。お相手は、私が選んでよいということでしたので、比較的世代も近く、私が是非お話を聞きたいと思っているお二人に来ていただきました。
お一人は「法哲学」という法学を外から見る分野の方、もうお一人は本当は「商法」という王道の科目のご専門のはずなのに法学の外に出ていってしまった方です(笑)。そういう方々から、今の法学がどう見えているのか、法学教育の意義をどう考えるべきなのかについて、この本を契機に是非お聞きしたいと思って、今日お集まりいただきました。どうぞよろしくお願いします。
『法学入門』執筆 3つの理由
最初に私から、どうして「法学入門」についての本を書く気になったか、説明させていただきたいと思います。まず、現在勤めている立教大学で「法学入門」の授業を担当させていただいてもう10年以上になるのですが、それが形式的な理由です。では、なぜ私が法学入門の科目を自分から進んで担当してきたのか、それは結局『法学入門』をなぜ書いたかという実質的理由になるわけですが、それについては3つの理由があります。
⑴ 法学部の役割とは?――法科大学院設立のもとで
1つ目は学部生レベルにおける法学教育の意味という問題を、法科大学院の設立準備段階に関わった過程で意識せざるを得なかったという経験がありました。その当時、もしも米国型のロースクールを導入するとなれば、米国では学部レベルの「法学部」がありませんから、日本でも同様に「法学部」を無くしてしまったらどうかという議論がありました。そのため、「法学部」に所属する者としては、米国型のロースクールを導入しつつも学部レベルの「法学部」をなぜ維持しなければならないのかということを、説明しなくてはいけなくなったわけです。現実を見ると、立教大学の法学部では、将来司法試験を受けたいと思っている学生は実はごく一部で、それ以外の学生は法学を勉強して何らかの形で卒業していきます。ただ、長い間、日本の社会にそうした人材が貢献してきたことも確かで、そこには何か意義があるはずなのです。しかし、そのことがきちんと言語化できていないようにも思っていて、そこを何とかできないかというのが理由の1つであったわけです。
⑵ 学生たちは消化不良?
もう1つは、今の学生が現在の「法学教育」に対して消化不良状態に陥っているのではないかという懸念です。立教大学で法学教育に関わってから21年になるのですが、昔の答案と今のものを比較すると、文章力や内容の理解力という点で、大きな差があると感じることがあります。つまり、ゆとり教育やその他の様々な事情によって、20年前の学生と比べた時、現在の学生は、同じカリキュラムを与えたとしても、それを完全に消化するのがなかなか難しくなっているのではないかということです。しかも、知識量に着目したときに、「法学」の中身としてはむしろ量は増えている。つまり、教えなければいけない量は増えているので、まともにやっていると学生たちが悲鳴を上げるのは当然であるように思えます。そういった状況の中で、学部レベルの「法学教育」として何をやるべきなのか、日々の学生を見ている中でいつも考えさせられていました。
⑶ 法学方法論への懸念
最後に、実は森田さんとか、ほかの経済学の先生方にもいろいろ教えていただいて、「法の経済分析」の手法に則った研究会を、一時期長らくやらせていただきました。その中で、「経済学」と比較した場合に、「法学」という学問に決まった方法論がないことに愕然とした思いがあるわけです。例えば、法学では、ある規範について文言が曖昧なので、Aという解釈もできるし、Bという解釈もできるというときに、自分が拠って立つA説を正当化するために、比較法をしたり、歴史を調べたり、簡単なシミュレーションをしてみたり、自分に賛成の人が多数いるが反対の人は少ないなど、いろいろな手法を使うわけです。しかし、A説が絶対に正しいのかと言われると、実はB説を擁護している人も同じような手法で同じようなことをして正当化を試みていて、結局、決定打としては何もないのではないかということに帰着することもある、そうすると、AがいいかBがいいかということについて何も言えないという状態になってしまうわけです。そのためか私は、多分この10年ぐらい、「法学」における研究方法論に対して、非常に懐疑的なポジションに立ってしまっていると思います。「法学」におけるあるべき研究手法への懸念、それが3つ目の理由としてありました。
ですから今日、森田さんについては、「経済学」からの「法学」批判の権化のような方だと私は勝手に認識していますので(笑)、是非お話をお聞きしたいと思った次第です。また、「法学」を外から見ている「法哲学」からは、現在の「法学」の状況はどう見えているのかということも、瀧川先生にお聞きしたいと思ったわけです。もちろんお二人とも「法学部」や「法科大学院」で教育を担当する先生方でもあり、生の学生を目の前で見ているというところでも共通するところがありますので、現在の「法学」、「法学部」の状況に対してどのようにお考えで、何か示唆していただけるものがあるのではないかと思った次第です。
「法学」固有の感覚・思考を身につけさせること
最後に、私自身がこの本を執筆するにあたって非常に気を付けたのは、「法学入門」だからといって、最初に知識的なところをあまりに詰め込み過ぎると、平均的な学生の多くはすぐに挫折しますから、「法律行為」の定義から始まり、細かな知識を延々と講義するのはやめたいということでした。しかし他方で、「法学」というものがどういうことを目的にして、どういうシステム構造を有しているのかは、きちんとわかってもらいたい。そしてその上で、知識を完全に修得していなくても「法」的な作業や思考が可能なように、できるだけ身近に存在するルールを使って、同じような作業や思考が繰り返せるように工夫をしました。そしてそのことによって、ある種の「法学」固有の感覚を身につけさせて、「法学入門」を終えた後、次のステップとしていろいろな専門科目にスムースに入っていけるようにしたいと考えました。そこがこの本の特徴と言えば特徴だと思います。その点の是非についても、先生方のご意見等を伺いたいと思いました。
それでは、早速、この本を読んでの印象について、お二人に率直にお聞きしたいと思います。
「楽観的」法学入門?――法学は万能ではない
森田 私はこの本に対して、「法学」に対してかなり楽観的なスタンスで書かれているなという印象を抱きました。今の早川さんのお話の中にもあったように、「法学」というのは基本的に「対象」によって定義される学問で、その「方法論」によって定義される学問ではない。例えば、「経済学」や「心理学」などは「方法論」で定義されるものですが、「経営学」や「法学」というのは、対象が「経営」であり、対象が「法・ルール」であるということで定義されているわけです。
その「法・ルール」をどうやって分析するのかに関しては、基本的に白紙で、いろいろな人がいろいろな方法を持ち寄ってやる。「経営学」も基本的には同じで、いろいろな人がいろいろな方法でやる。最近は「経済学」的な「経営学」がだいぶ流行って主流になってきてはいますが、古典的な「経営学」というのはある意味、今の「法学」のような状態だったわけで、みんなが勝手に「理論」を打ち上げていたのです。そうすると、「法学」を学ぶことにどんな便益があるのかよく分からなくなってくる。
例えばこの本では、「法学」を勉強すると「潰しが効く」という指摘があります。しかしそれは、過去においては文系の中で「法学部」の偏差値が1番高く、大学受験の段階で「法学部」を受ける学生が1番「地頭」がよい蓋然性が高いという観点から、企業が採用していただけではないのでしょうか。最近の「教育経済学」のある成果によれば、実は「教育」にはあまり効果がなく、かなりの部分は「地頭」で決まるとされています。法科大学院の司法試験の合格成績なども、別に合格率が高い大学の教育法がいいわけではなく、ただ単にいい学生が入っているだけともいえるかもしれません。多分、それと同じことが「法学部」にも働いてきたにすぎないのではないでしょうか。
また、議論や交渉をするためのテクニックや思考方法などが「法学部」で身に付くという指摘がなされています。確かに、特定のルールが与えられたときに、そのルールの要件に当てはまるからこうだ、当てはまらないからこうだという議論の整理はできるようになるでしょう。しかし、そもそもそのルールが望ましいのか、あるいはルールが存在しない場面でどういう形で決着をつけたらいいのかということになると、「法学」よりも「経済学」やその他のよりきちんとした方法論を持っている学問のほうが分析に役立つかもしれません。「経済学」を勉強すると、ある特定のルールが予期しない効果をもたらすという、「法学」ではあまり意識しない視点からの切り込みができることもあります。
加えて、仮にルールが固まっていたとしても、そのルールの適用のところでは、法学は「自然言語」で書かれているので、その要件を具体的基準に当てはめるところに、やはり結構ぶれが生じ得ます。そのぶれる範囲の中で、どこがベストなのかというと、それには当然争いがあり得ます。先ほどA説・B説というのがありましたが、もしかするとそれは法学の中では結論がつかない問題で、「経済学」のような他の方法論があって初めてどちらが望ましいという整理ができる問題なのかもしれません。
とすると、「法学」がいろいろな問題解決や実社会で万能かと問われると、そんなに万能ではなさそうだ。この本ではかなり楽観的に「役立つ」と書かれ過ぎているのではないかという印象を抱きました。
「悲観的」法学入門?――本当に『法学入門』か
瀧川 今、森田さんは「法学」に対する楽観があるとおっしゃったのですが、私はこの本には筆者である早川さんの「法学」に対する悲観というか、懐疑がにじみ出ていると思いました。
本書のタイトルは『法学入門』となっています。『ルール入門』であれば内容にぴったりですが、なぜ『法学入門』なのかが、必ずしも明確ではない気がします。
例えば、第7章の「身近なニュースの法学的分析」では、沖縄基地の問題と原発の話が出てきますね。私から見ると、これは別に「法学」固有の話では全くない。確かにロジカルに物事を考えるためにどうしたらよいかとか、ルールをどう捉えればよいかという話にはなっているけれども、「法学」固有の話にはなっていない。第8章の水栓のルールや回転寿司のルールの意味も、「法学」固有の話とは違います。
つまり、社会全体のルールの1つではあるけれども、その中で「法」というルールがどういう特別な位置を占めるのかということに対しては、あまり関心がないというか、むしろそういうところに着目しないほうが、学生には取っ付きやすく分かりやすいというスタンスで書かれていると思うのです。
早川 そうですね。
瀧川 ルールに関わる学問というのは、法学のほかにもあり得るわけですよね。例えば、「倫理学」なら「倫理」的なルールとか、「社会学」だったら「社会的なルール」とか。この『法学入門』は、私から見ると、1年生に対しては、「法学」固有な部分より、ほかの学問と共通する形でルールを扱う能力の方を身につけさせるほうが重要で、「法学」はその1つの訓練の方法に過ぎないという立場に見えます。ですから「法学」に対してはすごく懐疑的であると読みました。
〈目次〉
第1章 「法学」を学ぶ意味
第2章 「法学」とは何か
第3章 「法」とは何か
第4章 法学における「法解釈論」
第5章 法学の分野
第6章 法の適用プロセス
第7章 身近なニュースの法学的分析
第8章 ルールの意味を考える
第9章 意味のないルールと見えないルール
第10章 「法学部」をめぐる環境の変化
「法学」をどうとらえるか
早川 ありがとうございます。今のお二人の問題提起にお答えするとすれば、まず、森田さんご指摘の「あるルールを設定したときに副次的効果が起きてしまう」といったことは、第9章「見えないルールを見つけ出す」で、「借地借家法の改正」とか、「消費者保護の光と影」という形で取り上げています。これなど、森田さんが言うところの「経済学」的な視点を入れるとそういう副次的な効果が見えるということを、あくまで一端としてですが見せようとしています。そして、学生には是非そこにも興味を持ってほしいと思っているわけです。瀧川さんの視点からすると、「法学」から外れている内容を扱っているのかもしれません。あるいは、ルールをどう取り扱うかという点に主眼を置くことで、「法学」というものを広く捉えすぎているのかもしれません。しかし、それはかなり意図的にやっているところがあると思います。その意味で私は、「法学」とは何かという問題をギリギリ詰めることは、本書ではあえて放棄しました。つまり、法やルールに関係すれば「法学」だという森田さんに近い前提を置いています。
そうすると瀧川さんがおっしゃるように、他の学問分野も混じっているじゃないか、どこが違うのだという疑念を持たれる方も出てくるかもしれません。ご指摘の第7章などは、まさに、ある事象が複雑に絡み合っているところを論理的に分析するというだけの意味で取りあげていますが、それは、「法学」においては定められた要件に複雑な事実を当てはめるときにやらなければいけない作業なので、身近なニュースを使ってその作業を体験させているのです。これ自体、「政治学」でもやるでしょうし、それ以外の分野でもやるでしょう。しかし、ほかの分野でやっているから、こちらではやらせるべきではないとは思わなかったのです。
それはなぜかというと、これはまさに「法学」の「入門書」なので、入学してきた学生に、まずは「法学部」を中心に展開されている様々な教育に興味・関心を持ってほしい。そうした勉学心を後押しするための本だと思っています。そこにおいては、「法学」の方法論には様々に限界があると内心では思いながらも、「教育手法」である以上、そうした自分の「法学」への懐疑はあえて取り払っている。
それでもにじみ出ているようですが(笑)、それはあえて取っ払って、学生たちがどうやって「法という現象」や「法学をめぐる現象」を楽しく勉強できるか、しかし、「法学」の骨子はしっかりと体得して次のステップに行けるかということを最優先に考えたのです。その意味で、お二人のように腰が据わった人から見ると、非常に「ぬえ」的なものに見えて、突っ込みどころ満載というのはよく分かるのです。しかし、そこはあえてしているところがあると思っています。
面白さは「法学」の外にある
瀧川 この本は、法学入門の本の中では異例ですよね。私自身「法学入門」という講義を担当したときに、結構いろいろな法学入門の本を集めました。正直にいって、あまり面白くない本が少なくないのですが、その中でこの本はすごく挑戦的なものになっています。しかし、この『法学入門』の中で、「これは面白いでしょ」と提示している箇所は、いわゆる従来の「法学」の枠を超えることの面白さみたいなものを伝えているところではないですか。
早川 なるほど。それが「法学への懐疑がにじみ出ている」ということですね。
瀧川 そういうことです。第9章の「見えないルール」では、ルール設定をしてもそれが外部性を持ってしまう、「法学」は1つの閉じた体系では全くないという話をしているわけです。そうすると、私などは読んでいて、「法学」固有の面白さは、法学の外にあるという話になりかねないのではないかと感じてしまいました。
早川 そうすると、今初めて気が付いたのですが、もしかしたら私は「狭い意味での法学」はもう面白くないと思っているので、それを超えるものを書いてしまっているのかもしれません。しかも、それを入門してくる法学部生に流布している。「狭い意味での法学」からいくと、悪しき伝播者、異端である(笑)。
森田 しかし、むしろそういった授業を、私は普段の学部の授業でやっているのです。
早川 どういうことをやられているのですか。
森田 今は法科大学院の授業の方が多く、そこでは受験対策を割り切って教えています。
早川 分裂していると。なるほど。
HOWよりWHY
森田 学部ではゼミで「統計学」などを教えるほかに、2年に1回ぐらいのペースで、「支払決済法」といって、昔でいうと「手形・小切手法」ですが、いわゆる手形・小切手だけではなく、電子マネーとか、振込みとか、いろいろな支払手段についてどういうルールになっているかを説明する授業を担当しています。そうした授業を学部で持つときは、ルールの中身を説明するだけではありません。それよりも、むしろなぜそういうルールがあるかということを説明します。
「支払決済法」というのは、間違った人に払ったとか、違う人が自分の電子マネーやクレジットカードを使ったとか、そういういろいろなリスクを誰にどう配分するかという話なのです。このルールはこうなっていますというときに、なぜそうすることが合理的なのかを説明する、そういう内容にしています。そのような視点から、いろいろな支払手段が統一的に説明できますというスタンスで授業をしています。目の前の条文から、こういうように解釈を導きますという導き方、「how」というのが多分伝統的な法学の方法でしょう。それよりも、なぜそういうルールが存在しているのかという「why」の部分が、私は昔からより好きなのです。
瀧川 それは「法哲学」ですね。
森田 今の、少なくとも、「会社法」を研究している人には、そういう人の割合が多いのではないでしょうか。そういう状況からすると、こういう教え方には連続性があります。私が高校などへの出張講義や模擬講義などで「法学部ではこういうことを学ぶことができますよ」というときも、だいたいが自分の研究や「経済学」の研究などで、「こういうルールを設定すると、こういう面白い効果が出た」というものを幾つも持っていって、「ほら、法・ルールって社会をコントロールする面白いツールでしょ。法学部に来るとこんな面白いことが勉強できるよ」という宣伝をして帰ってきます。そうすると、高校の先生方から、「法学部の先生からこんな話を聞くとは思わなかった」などと言われることが多い。多分、私の話を信じて入学してきた学生は……と思いつつも(笑)、一応、入学者、受験者を稼ぐためと割り切って宣伝をしに行っています。
「狭義の法学」の限界
早川 瀧川さんと森田さんのお話を聞いて、2つ申し上げたいことがあります。1つは、先ほど森田さんは「経営学」と似ているところがあるとおっしゃったのですが、違うところがあるとすると、「経営学」ではフレームワークがあり、そこには考慮すべきファクターが並べてあって、複雑に絡み合った事象のどれがどこに当てはまるのかを分析する際の道具として非常に役立つのです。「法学」における要件当てはめ作業に非常に似ているところがあって、どちらも似たような作業をします。
しかし他方で、「法学」と「経営学」でちょっと違うのは、「経営学」にはそういったフレームワークが幾つも幾つもあって、目的に合わせてどのフレームワークを使うかということの検討もなされます。それに対して「法学」では、基本的に法律と要件があらかじめ与えられていて、その要件に当てはまるか否かの検討を行う。しかし、その要件自体や法律自体がなぜそのように定めているのか、そのときになぜこういう効果が与えられるかについては、まさに「why」の部分ですが、そこは一応問わないという形になっているのです。例えば、民法なり商法なりを一所懸命に勉強しても、そこはあまり問わないということが前提になっている。それはもしかしたら、先ほど瀧川さんがおっしゃった、いわゆる「狭義の意味での法学」で従来やってきたことですが、その特質に限界はないかという問題意識を有しているわけです。
学生にわかる面白さ
もう1つ言いたいのは、最初に私が申し上げたことにつながってくるのですが、実務法曹にならない一般の法学部生たちは、その「狭い」ところの面白さにどこまで共感できるのだろうか、それだけを共感させる必要性があるのだろうかというところに、疑問があるのです。そこに共感できる人は、多分、実務法曹になってしかるべきだし、実務法曹に向いている人だと思います。ただ、多くの人々は、私や森田さんのように、なぜこうなっているのかというところに興味があるだろうし、その人たちが実社会に出て行って、ビジネス企業や、役所に入り、いろいろな場所で、政策を作ったり、新しい製品やサービスを作ったりするわけですよね。そのときには既存のものを打ち破るという発想も必要で、そのときには与えられたものを前提に整理するだけではなく、なぜこうなっているのか、他に選択肢はないのか、複数あるのであれば目的との関係でどれが1番いいのかを検討するというのも、むしろ非常に重要なはずです。
そうすると「狭義の意味の法学」を超えて、もう少し広い形でルールを扱う作業につき彼らに慣れさせる。我々「法学」を教える側も、もう少し広いスタンスでやっていかないと、学部生向きの「法学」は、彼らのニーズに合ってこないのではないかという問題意識があるのです。その意味では、この『法学入門』が挑戦的だというのは、多分、従来の「法学教育」がやってきたことを、これからもこのまま続けるだけで本当にいいのかという私自身の懸念がにじみ出たせいであり、より明確には、そうした懸念は第10章にかなり書かせてもらいました。ですから、瀧川さんがおっしゃった疑問というのもよくわかりますし、森田さんがおっしゃったアプローチについては、本書ではそれを意図してやっているところがあるのです。
知識と思考力
瀧川 なるほど。今の早川さんの話に関連して2つくらい言うと、1つめとしてこの本で面白いなと思ったのが、第2章の「狭義の法学」と「広義の法学」の区別です。「狭義の法学」では法的知識の獲得を目指すことが重要かもしれないが、「広義の法学」として「法的思考力」、「法的コミュニケーション能力」の養成も重要であると書かれています。この知識と思考力の二分法が興味深いです。
でも、「法的思考力」というのは、思考するための知識、一種のノウハウ・ナレッジではないですか。そのときに法的知識なしでできるのか、「法的思考力」というものがどういう意味で「法的」なのか、「法的思考力」と「法的コミュニケーション能力」はどういう関係になっているのか、この辺がバシッと打ち出せると、これこそ今後「法学」でやるべきことなのだといえるようになるのでは、と思いました。
内的視点・外的視点と法学教育
瀧川 もう1つ、「法学教育」で難しいのは、「内的視点」をどのくらい教育すべきであるかという問題です。「内的視点」というのは、つまり、ルールを使う人の視点です。例えば、ルールの存在理由を問うというのは、ルールがあることを前提として、その根拠付けを問うわけで、それはルールを「外的」に見ているわけです。ルールを実際に使っているわけではありません。あるいはそのルールによって、どういう社会的な紛争が解決されるかというのを観察者として見ているわけです。
でも、法学というのは、通常、弁護士などが典型ですが、「こういうときはこうすべきだよ」とクライアントに言って、実際にルールを使うわけです。この内的視点は、確かにロースクール生は学ぶべきだと思います。
では、学部生にそれをどこまで教えるのかということが、多分すごく難しい問題です。学部生には「外的視点」の方が分かりやすいからです。このルールはこうなっているのだから、こうすべきだといった「内的視点」については、ロースクールが立ち上がるまでは網羅的・体系的に教えていたと思うのですが、ロースクールが立ち上がって以降、今までのように網羅的・体系的に教える必要があるのか。学部生に対して「内的視点」の教育をどうするのかという問題が残っていますね。
早川 例えば、本書の59ページの「法解釈における留意点」という部分で、世界に「ウシ」と「ウマ」という概念しかない時に、「キリン」という存在をどちらかに分類するという作業を延々としています。法的知識が十分でない段階で、どうやってメルクマールを設定するかという「法的思考」をさせようとしているわけですが、どのようにメルクマールを設定してもどこかに問題が出てくる。
しかし、全体を総合して、どのメルクマールが優れているかの検討をする必要がある場合もある。その際の留意点として、「基準の明確性」、「一般的な結論の社会的妥当性」、それに、「運用コスト」も入れているのです。美しいし、そんなにおかしくない結論が出るけれども、しかし、実務的には依拠されないという学説には、だいたいここに問題があるように思えます。そこはちゃんと意識しなければ駄目だよと。授業では、君たちはこれからいろいろな授業を取る。その授業の先生の中には、こんなに素晴らしい私の学説を世間はなぜ受け入れないのかということをほのめかす人もいるだろう。そういう話になったら、「運用コスト」は大丈夫かなと思って聞いていると勉強になるよと言うこともあります(笑)。例えば、これはどちらですか。
瀧川 それはもう、いわゆる「法学」ではないですよね。「法学」の「外部」ですよね。「運用コスト」を考えるというのも法制度の設計の話になりますね。
早川 でもそれって、大陸法系の「法学」だからなのではないでしょうか。あるいはドイツ的。コモン・ロー系では、「運用コスト」というのはすごく考えますよ。
森田 例えば、デット・エクイティ・スワップにおいて債券を券面額で評価するのか、それとも時価で評価するのかという問題について、「時価で評価するとコストが掛かるから券面額」と、裁判所や多くの「商法」研究者は考えていると思いますよ。
早川 でもね、「商法」がそうであったからといって、他も当然のように「運用コスト」を含めて議論しているかどうかというと、必ずしもそうではないと思います。少なくとも、「国際私法」ではあまり「運用コスト」を考えないで話してきましたね。
(2016年4月29日収録)