連載
残照の中に
第6回(最終回) 仙台
東北大学名誉教授・元最高裁判所判事 藤田宙靖〔Fujita Tokiyasu〕
広瀬川は、奥羽山脈の宮城・山形県境付近に発し、作並温泉、ニッカ仙台工場のある奥新川等々を経て仙台平野に入り、青葉山の麓を削って河岸段丘を形成する。仙台は、この河岸段丘の上に造られた城下町である。東北自動車道仙台宮城ICのある折立からは、青葉山の北端と国見峠の間に、作並街道(国道48号線)に沿って、さながらミニ保津川(京都)の如き渓流美を形成するが、仙台市民は、その観光利用など考えもしない。この渓流が仙台平野に入ったところに架かっているのが牛越橋であって、いわば、渡月橋に当たる。その右岸、嵐山に相応するのが、私達の住む「広瀬川を望む丘」である(この愛称は、有斐閣元書籍編集部長O氏の命名による。藤田宙靖・藤田紀子『広瀬川を望む丘にて』有斐閣学術センター、2000年「はしがき」参照)。
第2次大戦後、大陸から無一文で引き揚げて来たT氏は、旧市街の西側に位置する青葉山の北端、私の妻にとっては「兎追いし彼の山」であり化石採りの宝庫であったこの地(荒巻字青葉)を、文字通り一山三文で手に入れ、戦後我が国の復興のため、住宅地として開発することを考えた。山裾の道路脇の、3畳間ほどの掘っ立て小屋に親子3人で住み、昭和30年頃から、一段ずつ宅地造成をしては販売し、開発業者としての規模を拡大して行った。この地は、もともと多くの急傾斜地を抱え、大雨でもあれば土砂崩落の危険もあるような場所であるから(現に、昨秋の関東東北豪雨の際、妻の実家がある近隣の団地の崖が崩れ、暫くの間通行不能となった)、その工事は、相当困難なものであったに違いない。麓のバス通りから団地に入る取り付き50メートルばかりは、その迫力を以て、時に訪問者を唸らせる。仙台平野は関東平野の飛び地のようなものであるから、冬でも雪はさほど降らないのであるが、一冬に2,3度はある大雪の際には、日常生活に車の欠かせない私達にとって、ここは、最大の難所となる。道路幅や勾配、そして道路両側の擁壁のあり方をも含めて、この団地は、高度差20–30メートル程の間に、いわば、戦後の我が国の宅地開発規制の歴史をつぶさに検証することのできる、貴重な史跡でもあるのである。
高度経済成長が始まり、法規制も進んだ昭和40年代、T氏は、氏の念願であった、広壮にして環境豊かな、「西欧流の」大規模高級住宅団地を建設する作業に着手した。30年代までに既に開発されていた麓地区(川内三十人町)の後背地を成す急崖の上、山頂に至るまでの間のややなだらかな部分に、新たに尾根を削り、1区画面積最低130坪(430平米)という、戦後の我が国の常識からすれば甚だ贅沢な宅地を、まずは15区画ほど造成し、将来はこれをさらに山の向こう側まで広げて、いずれは市バス路線をも導くという、壮大な計画を立てたのである。ところが、その第1期工事の数区画が完成したところで、この計画は頓挫した。東北道と仙台中心街とを結ぶ、国道48号線のバイパス(「西道路」)が、青葉山を横断して建設されることとなり、T氏が計画する宅地も、その予定地に引っ掛かってしまったからである。緑滴る夢の高級住宅地は、無残にも赤土の剥き出した、単なる自然破壊の象徴としての様を呈する羽目になった。もとより、このような土地を買おうとする者は、居るはずもない。しかし、天はT氏を見捨てない。当初切通し方式が検討されていた西道路は、青葉山を貫くトンネル方式で建設されることとなり、そうすれば、氏の住宅地造成には支障がないことが判明したのである。それは丁度、私達が2年間のドイツ留学に出発する直前であった。
出立直前に、造成前の土地(いうまでもなく、それは、当時の地価としては、破格の安値であった)を急遽購入した私達は、帰国後、ここに家を建てた。住まいというもの、住宅というものについての、ドイツ人の考え方にすっかり魅入られていた私達は、何よりも、大きくて頑丈であることを優先し、ちまちまとした小部屋を多く設けるような日本風の間取りとは大いに異なった、道行く人が、「何これ? アパート?」と訝るような鉄筋コンクリート打ち放しの家を建てた。そしてこの、ガタイにだけは当時の私達にとって明らかに分不相応な金を掛けた建造物は、その後仙台を襲った3回の大地震を耐えた。まずは昭和53年(1978年)6月12日の宮城県沖地震。次いで平成20年(2008年)6月14日岩手・宮城内陸地震。そして最後は、いうまでもなく、平成23年(2011年)3月11日の、東日本大震災である。
仙台と地震と言えば、今や東日本大震災を措いては語ることができないが、私にとって、地震の揺れそのものについての印象を最も鮮烈に残しているのは、今ではもう38年も昔の話となってしまった宮城県沖地震である。この地震は、マグニチュード7・4、仙台市で観測された震度は5(強震)であって、死者28名、負傷者1万人余を出した、私が生涯で体験した初めての大地震である。それに先立つ3月にも、前触れとしての大地震があったのであるが、その際には、私自身、研究室の書架が後ろから倒れて来て、首まで書物に埋もれるという恐怖を味わった。この地震によって、仙台市では、昭和30年–40年代に造成された近郊の住宅団地のいくつかが、地盤の崩壊による大規模な流出を起し、鉄筋コンクリートのビルの中には、1階が潰れ崩壊するものまでが現われた。当時の我が国では、高度経済成長に伴う都市への人口集中が急激に進み、都市近郊での宅地開発が凄まじい勢いで広がったが、尾根を削った土で谷を埋め、田畑を潰して造成された宅地が、甚だ地盤軟弱であり、地震を始めとする大規模な天然災害に際して如何に危険なものであるかということを、ほとんどの国民は、それまで知らなかったと言えよう。平成26年(2014年)8月20日に広島市安佐北区の住宅団地で生じた集中豪雨による土砂崩れも、ある意味でこの種の災害の一種であるが、地震の少ない中国地方と異なり、仙台は、既に30数年前に、この大地震によって洗礼を受けていたのである。三陸に地震や津波は多いけれども、仙台は地盤が固いから大地震による大規模な被害を受けたことはないという、それまで聞いていた話は、詰まる所、昔は、そのような危険な場所に街造りをする必要はなかったというだけのことであった。
岩手・宮城内陸地震の際には、私は未だ最高裁判事の現役であって、東京に居たが、伝えられる宮城県の被害の規模に戦いた。とりわけ衝撃を与えたのは、いわゆる「荒砥沢大崩落」である。この地震は、岩手県南部を震源とした内陸直下型地震で、震源の深さは8キロメートル。マグニチュード7・2のエネルギーは、震源地から90キロメートル離れた仙台にも震度5の強震をもたらしたが、震源に近い岩手県奥州市と宮城県栗原市では、震度6強が測定された。この揺れによって、栗駒山麓栗原市の荒砥沢ダムの上流で、国内最大規模といわれる巨大地滑りが起きたのである。山は割れ、それぞれに尖塔を持った幾重もの山塊(丸いケーキを縦にいくつにも切って、斜めに傾けた形状を想像すれば良かろうか)を形成して、麓のダム湖(藍染湖)に雪崩れ込んだ。地滑りの幅は900メートル、長さ1,300メートルで、総面積は約98ヘクタール。山が割れて出来た冠頭部の崖の高さは150メートルあり、崩れた土砂の量はほぼ7,000万立方メートル(東京ドーム56杯分にあたると言われる)に及ぶと言う。この大崩落地の全景については、震災の直後から、メディアにより航空写真等が紹介されているし、今日でもインターネットで容易に見ることが出来るが、仙台市に住む者にとって、その規模の大きさを何よりも実感できるのは、昨年(2015年)の6月14日付河北新報朝刊に掲載された、「荒砥沢崩落地と仙台市青葉区を合成したグラフィック」である(同グラフィックは、河北新報が、宮城豊彦東北学院大学教授の協力により作成したと記されている)。このグラフィックによれば、崩落地の長さは、宮城県庁周辺から青葉通りまで、幅は、仙台駅周辺の花京院地区から東二番丁を越え、東一番丁通りに及ぶ。これは、同紙が言うように、仙台市中心部の繁華街やオフィス街がすっぽりと入る広さであることになる。
そして東日本大震災。2011年3月11日のあの日、私は偶々、妻と共に、カナダからの帰国に向けてヴァンクーヴァーに居た。成田空港閉鎖によって東京行きの便が全てキャンセルとなり、帰ることが出来ず、滞在していたホテルのTVが仙台平野を飲み込む大津波を映し出すのを見て、ただただ息を呑むだけであった。翌日辛うじて成田に帰着したものの、仙台に帰る交通手段を全て断たれ、自宅に辿り着いたのは、結局3週間の後のことであった。高台の堅固な地盤の上に立つ我が家の被害は、津波に襲われた沿岸地域の家々に比べれば、真に恥ずかしい程のものであったが、それでも、インフラを中心として、充分に「被災」とは言えようだけの損害を被り、全ての機能が回復するまでには、多額の費用と半年以上の時を必要とした。
T氏が描いた「仙台のビヴァリーヒルズ」(某女性旅行誌)の夢は、結局完成するには至らなかった。その間の地価高騰の中で、この贅沢な住宅地を広く市民が購入するには、仙台の経済力は余りにも小さかったからである。有利な銀行融資の口を紹介するからと、「白松がモナカ」の大きな折を風呂敷に包み、汗を拭き拭きやって来たT氏の、隣地のもう1区画を買ってくれろとの頼みには、私もまた、到底応ずることができなかった。バブルの崩壊によって、氏の計画は決定的に挫折し、後継者に、もはや亡父の夢を実現する意欲はない。削られてなくなるはずであった背後の山は残され、団地の入り口近くに位置し、いずれは眼前をバスが行き来するはずであった我が家の周辺は、図らずも、裏山に雉が鳴き、様々な野鳥の囀る、どん詰まりの閑静な奥地となった。T氏が描いた壮大な夢の一部と、そして皮肉なことに、その挫折の上に、私のこの「広瀬川を望む丘」の上の静穏な日々は支えられているのである。しかも、比類なき数々の幸運の上に。
縁もゆかりもなかった仙台の地に赴任して50年。「置かれた場所で咲く」ことが、人のあるべき姿であるとするならば、私のこれまでの人生は、さほど大きく間違ったものではなかったであろう。ただそれは、例えば、この世に広がる余りにも多くの、現実の悲惨・不条理との関係では、ある意味で「怠慢の悪」(Philip Zimbardo “The Lucifer Effect” 鬼澤忍・中山宥訳、海と月社、2015年)を指摘されても仕方がないようなものでもあった。私は如何なる意味でもジムバルドーのいう「英雄」ではなかったし、恐らくこれからも、そうあり得そうにはない。それでもしかし、あれほど焦がれて今ここに実現した文字通りのRuhestandにおいて、仮になお、私だからこそでき、私だからこそなすべきことが残されているとするならば、それは実際何なのだろうか?
子供らの喚声も絶えて久しい残照の丘の上に、思い惑う日々は続く。