巻頭のことば
第2回 判例・学説を調べる
中央大学大学院法務研究科教授・弁護士 加藤新太郎〔Kato Shintaro〕
リーガル・リテラシーを構成する要素である「調べる」対象には、事実関係と規範(判例・学説)とがある。弁護士が、クライアントから何事か相談された場合に、備えている規範に関する基本的情報について分かりやすく解説すると、クライアントはそれを基に次のステップに進んでいく。案件を受任した場合には、事実関係を認識し、規範面の調査も怠らない。民事訴訟の提起や応訴に際しては、関連判例・類似判例を十分調べ上げて研究し、万全の構えで臨む。裁判官であれば、担当案件の審理に当たり、基本的文献をチェックし、関連判例の調査をする。その意味で、「判例・学説を調べる」は、リーガル・リテラシーの中核である。
ところが、実際の民事訴訟においては、規範情報の提出に不足がみられるし、そもそも「判例・学説を調べる」以前の事象も散見される。宅地開発業者がマンション建設計画を立て、底地を取得する場合に、対価として底地提供者に対してマンション居室を与えるほか金銭を提供する契約を締結することがある。この契約の法的性質をどのようなものと捉えるか。多くの弁護士は、無名契約と構成する。それは必ずしも誤りとはいえないが、リーガル・リテラシーを備えた弁護士であれば、補足金付交換(民法586条2項)と構成するはずである。当該契約の効果を一言で言い表すことができるし、裁判所に対しても検討十分という印象を与えることになる。そう構成しなかったのが、民法学習ではなじみの薄い補足金付交換を知らなかった(忘れていた)ことが原因である場合には、猛反省を要する。司法修習生のころ、指導弁護士から、「事件を受任したら関連する民法条文は必ず読み返すことにしている」と聞いたことを思い出す。
ある過払金返還請求訴訟の控訴審において、「不当利得返還請求では、『法律上の原因あり』との事実を被告(控訴人)が主張立証するのが実務」と平気で記載している答弁書に遭遇したことがある【A】。これは誤りである。不当利得の請求者に法律上の原因のないことの主張立証責任ありという判例(最判昭和59.12.21金判789号19頁)があるからだ。過払金返還請求は、その訴訟の性格上立証負担を軽減しているが、主張立証責任の転換まではしていない。この弁護士は、判例を知らないため、的外れの書面を作成してしまっているのである。
裁判官も双方の訴訟代理人も揃って、そのケースに関連する最高裁判例を見過ごしている事例もある【B】。デパートの婦人服販売フロア長が、開店早々の別の婦人服販売専門店の店長に転職し、馴染み客に開店案内を送付したこと(退職後の競業避止義務についての合意はない)が不法行為を構成するかが争点のケースについて、最判平成22.3.25(民集64巻2号562頁)がまったく意識されていなかったのだ。この判例は、判断枠組みとして「自由競争の範囲を逸脱したとの評価が導かれるか」がポイントになることのほか、判断要素として、営業秘密に係る情報の利用、信用をおとしめる営業活動の適否、競業の時期、元の勤務先の営業弱体化の利用の有無などを挙げている。この枠組みに依拠した法的構成、判断要素に沿った攻撃防御の展開をしていけば、質の高い審理判断となったはずである。【A】【B】のような事態を避けるためには、基本的文献に当たる労を惜しまないということに尽きるであろう。【B】は、もとより弁護士だけに責めを負わすことはできない。
裁判官が、休日に自宅で単独事件の判決起案をしていたが、理由を書き始めたところ、ある争点について判例・通説を確認したい事項があらわれた。裁判官は、起案を続けるか、中断するか迷い、気分が乗らなくなってしまった。もちろん、こうしたことがないよう、弁論終結時には問題解明を済ませておかなければならないが、そうはいっても実際にこうしたことは起こる。しかし、自宅に基本的文献や判例検索ツールを備えておけば簡単にリカバーすることができる。法律実務家にとって、判例・学説を調べることのできる執務環境を整備することも立派なリテラシーなのである。