連載
お墓事情と墓地法制
第1回 法における死者の「住処」の位置づけ
京都大学大学院総合生存学館教授 大石眞〔Oishi Makoto〕
はじめに ――シャルリ・エブド社襲撃事件の陰で
2015年1月7日、アルジェリア系移民の兄弟が、パリ11区にある諷刺出版専門のシャルリ・エブド社を武装して襲撃し、編集長をはじめ、その護衛に当たっていた警察官、漫画家など12名を殺害した事件は、言論の自由・表現の自由を守れとのスローガンの下に抗議集会が世界各地で催されたという事実とともに、なお記憶に新しい。この事件には、しかし、あまり話題に上らない別の隠れた問題があった。
この兄弟は、2日後に発見されてドゴール空港から約15キロ北東にある印刷会社に立てこもったものの、包囲した国家警察特殊部隊との銃撃戦で射殺された。その数日後、弟が住んでいたジュヌヴィリエ市と兄が住んでいたランス市の市長は、ともに当初、そこが「聖地化」することを怖れて、それぞれの墓地に埋葬することを拒否しようとした。フランス政府の説得などもあって、両市は、止むをえず、厳重な警戒の中で密かに墓標のないかたちで埋葬したらしいが、人口4万人余りのジュヌヴィリエ市には市営墓地は1か所しかないようで、そのどの区画に弟が埋葬されたかは不明、また人口17万人余りのランス市には6か所の市営墓地があり、どの墓地に兄が埋葬されたかはやはりよく判らない。
いずれにせよ、この事件の陰では、地方自治体の墓地提供・埋葬義務のあり方、別の言い方をすると、法における死者の「住処」の位置づけという問題も投げかけられていたのであるが、この点を伝えた日本の報道機関はほとんど見られなかったようである。
欧州諸国の墓地埋葬法制 ――墓地提供の公役務性
私どもの研究グループは、これまでヨーロッパ諸国の墓地埋葬法制を調査してきたが、その中間報告に代えて言えば、そこでは一般に墓地提供と埋葬の公役務性を前提として、それを地方自治体の義務として法制化していると言うことができよう。
実際、オーストリア連邦憲法は、遺体・埋葬に関する事項を自治体の事務と定めており(118条)、ドイツのバイエルン自由国憲法は、より明快に、自治体の事務の1つとして「死者の埋葬」を挙げるとともに(83条)、自治体が「死者はすべて丁重に葬られること」に配慮すべきこと、「各宗教団体のためにのみ認められた墓地においては、異教徒の埋葬は、ほかに適当な埋葬場所がない場合、その通例の様式の下にかつ隔離することなく、許されるべきである」ことなどを定めている(149条)。したがって、自治体にはそれぞれ固有の公営墓地が設置されているが、ウィーンでは墓地会社として公社化されている(ウィーン市の100%出資)。
自治体の墓地提供・埋葬義務が憲法以外の法令で定められているところもある。例えばフランスでは、公衆衛生法典が「各市町村又は墓地につき権限のある市町村協同公施設法人は、遺体の埋葬に充てる土地を含む墓地を少なくとも1か所配置し、かつ、人口2,000人以上の市町村又は人口2,000人以上の墓地につき権限のある市町村協同公施設法人は、遺体が火葬に付された死者の遺灰を受け容れるための納骨場を少なくとも1か所配置する」と定めており、イタリアでも同名の法典で、「すべての市町村は、死体取扱規則に定める規範に従って、土葬という方法のための墓地を、少なくとも1つは設置しなければならない」と定められている。
このような仕組みになっているため、シャルリ・エブド社襲撃犯の埋葬を両市長は拒否することができなかったわけであるが、地方自治体が墓地提供・埋葬義務を負うというのは、欧州各国にほぼ共通する考え方であると言えよう。公園化され、整備された墓地をみるたびに、さながら「死者に捧げる都市計画」のようだと感じ入ったが、その入口では、必ず、訪問者に対し死者のために静穏を保つべきことが掲示されているのも印象的である。
こうした墓地のあり方が、埋葬の方法とともに宗教の位置づけと密接な関連をもつことは、改めて言うまでもない。けれども、ヨーロッパ諸国における国家と教会の関係――いわゆる政教関係――は、国教制(イングランド)、公認宗教制(ドイツ)、政教分離制(フランス)などがあって一様でないため、墓地における宗教の取扱いもそれに応じて微妙に異なる。例えば、政教分離制の下での公立墓地には宗教的中立性の原理が働くので、その中に特定の宗派区画を設けることを認めるかどうかが問題となるが、公認宗教制の下では初めからそれが用意されることになる。
日本のお墓事情と墓地埋葬法 ――法の建前と実際
日本の地方公共団体、とくに基礎自治体である市町村には、そのような墓地提供・埋葬義務があるという意識は乏しいようで、公立墓地の数もきわめて少なく、いわゆる寺院墓地などに任せているのが現状である。その上、これまで国内でも京都・浜松などの墓地のあり方も調べてきたが、国には「地方公共団体の墓地」と報告されていても、その実態はまるで違っていることに気付かされた。
例えば、厚生労働省『衛生行政報告例』(平成26年度)では、墓地・火葬場などが経営主体別に地方公共団体・民法法人・宗教法人・個人などに分けられているが、これによって政令指定都市をみると、人口147万人の京都市には市営墓地は7か所しかない(うち1か所は募集停止)のに対し、同じく81万人の浜松市には482か所の墓地があることになっている。しかし、その墓地のほとんどは旧来の各地域墓地の土地を市に編入したことによる形式的なもので、市が実質的に管理・運営している市営墓地といえるのは7か所しかない。
この一事から考えても、厚労省の『衛生行政報告例』の掲げる数値の信憑性には首を傾げざるをえないが、これでは、都市化にともなう墓地不足の問題や地方の人口減少にともなう墓地の無縁化の問題などに対して、事実の精確な把握を基にした有効で適切な墓地政策を打ち出すことなどできないのではないか、とも考えてしまう。
そもそも、明治前期の「墓地及埋葬取締規則(明治17年太政官布達25号)を引き継ぐかたちで制定された現行の墓地埋葬法(昭和23年5月31日法律48号)は、土葬(埋葬)を前提とした仕組みになっており、公衆衛生の問題として、その所管も厚生労働省(旧厚生省)とされている。火葬と土葬の割合が近かった当時としては当然であったかも知れないが、現在の火葬率を見ると、その前提自体がほとんど崩れている。
ヨーロッパの場合、最近の火葬率をみると、例えばイギリスは74.8%と少し高いが、イタリアで19.7%、フランスは34.5%、ドイツ55%などとなっていて(2014年、英国火葬協会資料による)、遺体は基本的に納棺して埋葬する土葬のかたちをとるので、腐乱などにともなう公衆衛生の問題がどうしても生じる。日本の場合、死亡者の99.97%が火葬に付され、台湾の92.8%、タイの80%などとともに世界トップレベルの火葬率になっているが、その代わり、基本的に公衆衛生問題は生じないはずである。
したがって、墓地埋葬法に掲げる「墓地、納骨堂又は火葬場の管理及び埋葬等が、国民の宗教的感情に適合し、且つ公衆衛生その他公共の福祉の見地から、支障なく行われること」(1条)とした目的のうち、「公衆衛生」の見地はほとんど意味をなさず、むしろ「国民の宗教的感情に適合」しつつ、「公共の福祉の見地」から墓地等の管理・埋葬等が「支障なく行われること」に重点が移るが、この場合の「公共の福祉」の内容は必ずしも明らかでない。このほか、墓地埋葬法には、通達行政の典型例ではないかというそれ自体大きな問題もあるが、ここでは省略する。
なお、ヨーロッパでは、その所管部局は、緑地環境局(パリ)、文化局(ウィーン)、都市計画環境局(ベルリン)などいろいろ考えられるが、日本では公衆衛生の問題はもはや存在しないのに、保健衛生部局で担当するのが当たり前という感覚が存続している。
おわりに――本連載の目的と概要
われわれは、「墓地の中で生き続ける死者」(森謙二・茨城キリスト教大学教授)のために何をすることができるのか。この問いがわれわれを墓地埋葬法制の再検討へと向かわせた根本的な動機であるが、その問いは、声高に叫ばれてきた人間の尊厳と比べて「死者の尊厳」が等閑にされてはいないかという問題提起でもある。
この人間の尊厳と「死者の尊厳」とを結び付けるのは、生者の死者への想いであるが、墓地埋葬法制の基本となるべきは、その想いをかたちにすることではないか。人間の尊厳を守ることはむろん大事であるが、その想いは同じように「死者の尊厳」を確保することを求める。この死者の尊厳という考え方は、もちろん、死者自体の尊厳への要求を示すものではなく、われわれ生者が死者に対してどのような姿勢や態度で臨むのかという姿勢を映す「鏡」であり、したがって、国や地方自治体の墓地提供・埋葬の義務という観念と密接に結び付いている。その意味で、死者の尊厳を語ることは、人間の尊厳を語ることにも通じるであろう。
さて、これから約1年間にわたって、本誌面をお借りし、これまでに訪れたヨーロッパ諸国や都市に焦点を当てながら、標題に掲げた「お墓事情と墓地法制」について連載させていただく機会を与えられた。この内容は、田近 肇教授(憲法・近畿大学)を代表とする私どもの研究グループによる調査を反映したものである。
ここで今後の予定を示しておくと、次回(7月号)は私がパリ又はフランスの事情を紹介し、次いでミラノ又はイタリアについて田近教授(9月号)、ウィーン又はオーストリアについて片桐直人准教授(憲法・大阪大学、11月号)、フランクフルト又はドイツについて重本達哉准教授(行政法・大阪市立大学、来年1月号)が、それぞれ担当した後、日本における「お墓事情と墓地法制」の問題について、竹内康博教授(民法・愛媛大学)が論じることにしている(同3月号)。