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書斎の窓

座談会

政治学をどう教えるか

――『政治学の第一歩』をもとに考える(下)

専修大学法学部教授 伊藤武〔Ito Takeshi〕

神戸大学大学院法学研究科准教授 砂原庸介〔Sunahara Yosuke〕

大阪市立大学大学院法学研究科准教授 稗田健志〔Hieda Takeshi〕

神戸大学大学院法学研究科教授 多湖淳〔Tago Atsushi〕

砂原庸介,稗田健志,多湖淳/著
A5判,250頁,
本体1,900円+税

多湖 砂原さんと稗田さん、お2人はこの『政治学の第一歩』を使ってみて、1年生がゲームみたいなところから入るのに対して、どういうリアクションを得てます?数字や数式なんか見たくないって学生の話もさっきあったけど。

稗田 僕はこの教科書を使って、大阪市立大学と神戸大学で授業をしているのですけれど、そこまで拒否反応みたいなものは出てないです。そこまで難しい微分積分だとか線形代数だとかが出てくるわけじゃなくて、初歩的な足し算・引き算レベルとあとはロジックだけじゃないですか。それを囚人のジレンマのチャートを見せて、パワーポイントでAが行動するときBがどうのこうのというのを光らせながらやって、授業中に利得はいくつと訊いたりすると「ええっと……」とか言いながら計算してくれていて、まあ大丈夫だとは思っていますけどね。

砂原 僕も教科書をそのまま使うわけではないですけど、基本的に教科書に書いているように話を進めていって、その途中でたまに思いついた設例でこういう利得ってありうるよねって話をしますね。就職活動とかの話も出して、結局皆さんの行動ってこんな感じで、企業や経営者の側はこうでしょとか言いながら話をしたりすることもあって、適当に数字を入れながら話をすることがあります。

 その延長で言うと、学生と普段喋っていると、政治っていうものを見るときに、自分たちとは違う何かであるみたいなものととらえがちで、「権力」とか特にそういうものとしてとらえているように感じます。つまり、権力っていうのは自分と違う世界の出来事だと。自分のこととして感じてもらうために、僕がさっき言った授業中の話をするときなど、僕が「権力」をもっていたとしても君らの後ろに二人羽織をして文字を書かせても勉強じゃないでしょって。結局自分たちで自分たちを動かさないといけない、そういうのも権力の1つの作用なわけだから、そういう皆さんを動かす構造を考える必要があるよねってことを言っています。

伊藤 私も1年生の導入の授業を担当して感じたのは、学生で政治学に何となく興味のある人は、それこそナショナリズムのように、人間が頭の中でこう考えてるとか、こう望んでるから、こうなる。もちろん何か制度論的視点で、制度的な壁につき当たって、結果がゆがむことはあるけど、その結果は人間が考えたことから発してるんだととらえる傾向があります。間違いじゃない場合も多いと思うのですが、先ほどお話しした戦略的相互作用の話で、複数プレイヤーがいるときに、そういう頭の中の考えから説明したら、たどり着かない答えがあって、それが政治のおもしろいところであるということを話します。実例を交えて話すと、そこは比較的受けがいいところでした。

 その関連で特に多湖さんにお聞きしたいんですが、いわゆる「イズム」の説明に慣れてる人が多いんですね。それに興味のある人はテロのそれこそイスラム原理主義でいうと、イスラム教だとか、ナショナリズムだとか、こういう考えが強まってるから世界はこうなってるんだとか。実際にそう教えられている場合も少なくない。そういう説明で理解できないことが世の中にいっぱいあるってことが、この教科書の中にも書かれていますね。学生に対してどう説明したらいいのか。もしくはアクター中心の説明をするのであれば、それは違った説明もあるけど、ということを少なくとも言えないといけないと思います。イズムだけではありませんが、「昔」の政治学を信じてる人たちと齟齬そごが生じるのでは、と懸念するのです。

多湖 なので、そこは悩んだわけです。

伊藤 カタログとしては役に立つかもしれないですよね。でもカタログとして載せることに意味はあるのかっていうことかとは思いますが。

多湖 ある種、学説史としてイズムを載せるのであれば必要だったと思うんです。また、価値があったと思います。しかし、すでに国際的な国際政治学の先端研究がイズム論争を「卒業」している現実を踏まえれば、分析枠組みとしてのラショナリズムについて、その分析の枠の中であろうが、またはその枠を出るのであろうが、強く意識せざるをえない。ユニタリー(単一の)アクターとしての国が大事とか、力や利益が大事とか、アイディアが大事とか、理論を支える要素があらかじめ定められたドグマ的(教条的)なイズム論に陥るのではなく、例えば分析枠組みとしてのラショナリズムを踏まえて現実主義も理想主義も両方の側面の入ったモデルを作り、それが国際関係の政治現象をいかにうまく説明できるんですか、という部分で勝負すべきなのかなと思います。

伊藤 多湖さんとしては、そんなことはもう乗り越えているとお考えなのですよね。

多湖 デーヴィッド・レイクらの教科書(6)もイズムの話は乗り越えていると宣言して始まっています。つまり、ラショナルかつ戦略的相互依存の枠組みで既存のイズムの話を包摂的に取り込んで説明できるっていう立場に立っている。現実主義対理想主義みたいな議論は、国際政治学の先端ではやっていない。

伊藤 便利ですからね、イズムは。演繹的に説明してるって言いながら、帰納的に説明している。

多湖 言い方は悪いですが、イズムはある種の「宗教」になっちゃうんだと思う。

砂原 僕も思考を固定化してしまうのが嫌で。つまりあらかじめ定められた枠組みでとらえちゃうと、他のアイディアとか出てこないですし、そもそも論みたいな話ができないと思うんですよね。特に、学生の関心のあるところでそういう問題をどう伝えるかを考えます。

 授業では、稗田さんのやり方を見習って、関係ある本を読ませて任意で書評レポートを最大3回ほど書いてもらっています。1回目、選んだものに古典が多かったってのもあるんですけど、そこの中に入れてた本の中で、出した人の半分くらい『ヘイト・スピーチとは何か』って本(7)を選んだんですよね。学生の関心としてはそういうところにあって。

 その内容を伝えるときに、なんか善対悪でとらえるのは嫌で、あれも強制力を使って禁止するか、正統性を強める教育みたいなのを重視するかっていうところからスタートして話をしたいねっていう感じをもちました。ヘイト・スピーチっていうものを、ある意味社会に対する裏切り行為っていうか、フリーライドをやっているんだっていうふうにとらえてみると、ただ単に何かがあらかじめ悪と決まっているように見るのとは違うように見ることができるのではないかと思っていて。何か決められた枠内で我々は生きてます、みたいなのは避けたいなっていうのはあったと思うんです。実際、何がヘイト・スピーチかということは、そんなに単純に決まるわけではないし。

伊藤 たぶん今の話を伺っていて、伝統的な、それ以前の政治学の考え方だと強制力のほうが素直にわかってもらえると思うんですよね。正統性については、本書で、いろいろな実績からも生じると書かれています。他方、こういうルールを追求している国家がいるから、国家に対して正統性意識をもつとは書いてなかったと思います。しかし、正統性は長期的にもっと安定したもので、もっと「自生的」に心の中から生まれてきたもののようにとらえられがちです。だから、その源泉をどう理解してもらうかは難しいようです。

砂原 本当に最後の段階で意識したんですけど、第1章を書き直して、多湖さんがそこに「繰り返し囚人のジレンマゲーム」を書いたこと、あれがすごいよかったと思うんです。はじめ我々はやめたほうがいいんじゃないかって言ったんですよ。繰り返し囚人のジレンマゲームってそもそも入門の教科書の第1章にくる話じゃないし。

伊藤 確かに。学生からこれ授業で教えてくださいって言われるのですが、式書いてたら「ちょっとやだなと」と言われてしまいました。

砂原 なんですけど、コンセプトとしては長期の関係を築くことによって、「将来の影」を意識するっていう説明のフレームがあそこにあったっていうのは結果的にすごくよかったと思うんです。今みたいな話を、強制力で押し付けるだけじゃない形で、将来を見越した正統性みたいなのが生まれることで問題を解決するっていう説明になっていると思うんですよね。

伊藤 そうですね。本書は、統一したアプローチで書かれているだけでなく、国際政治であれ、国内政治であれ、どうやって秩序ができていくのかまで統一的に説明しているところが興味深かったです。もちろん秩序の性質は違うし、でもそういった1回限りで終わるか、繰り返しのジレンマか、問題処理の過程で集合行為問題も出てくるかもしれない。でも、その処理の仕方が違うだけで、見方は同じなんですよということを読者に訴えているように読めました。

 しかし、そういったことを統一的に理解できる本はなかなかないのです。あるとき学生から、「国際政治だとイズム……じゃあ何で国内政治ではイズムを使わないのか」と聞かれたことがあるんですよ。ここでも、イズムの思考停止問題に直面してしまいます。

砂原 僕が1つ指摘されたのは、政治行政二分論の話ですかね。両者が全く違う規範で動くことになっている、というのはある種の「お約束」というか。ある人から、そこも削ってよかったんじゃないの?って言われたんですけど、何となく言い訳してました。でも今思うと、教科書なんだからそれを書かないといけないと感じていたようなところはあるかもしれません。

伊藤 だから端々に教科書として妥協しているところが見えていて。

砂原 いくつもありますよ。やっぱり。

伊藤 だから全体主義体制のことが結構書かれていたのはびっくりしました。

稗田 あれは僕の好みですね。

伊藤 たぶんそうだろうなとは思っていました。重要な問題だと思いますし、権威主義体制からの連続的な形で理論的に説明できるかもしれないことは、学生も関心をもつだろうし、あったほうがいいんですよね。それは権威主義体制とどう違うのかとか教育的選択として必要。すると全体主義体制を扱うのは、必然的なものと感じられます。

稗田 僕としては、何でリベラル・デモクラシーが大事なのって言われたときに、比較対象が必要だと。で、権威主義体制だとそこまでひどくならないよねって言われるのが、全体主義体制だとやっぱりリベラル・デモクラシーは大事だし、問題大きいよねって。

伊藤 入門書っていうのは学説史をするところではないっていうのはもちろんその通りですが、それでも、そういうところに関心をもっていく、やっぱり全体主義と対決する中で戦後の政治学が生まれてきたのも事実だと思っています。だから、今それをどれだけ議論しているかだけでは教科書は書けないのですね。

砂原 権威主義体制でも人々は最終的に自分の選択で機会的に服従しているという側面もあるわけです。やっぱりリベラル・デモクラシーでの選択の延長に全体主義体制がありうるっていう、それが本当かっていうのは別として、「隷属への道」があるっていうのはある程度意識の中に置いときたいんですよ。

伊藤 学生さんたちに、大学の導入演習でいまだに『1984年』(8)を読んでもらうのですが、読む意義はなかなかわかってもらえません。コメントを見ると、究極的な形として全体主義体制っていうのがあって、それがいけないものだと書くか、社会システム論としてどのようにコントロールされているかと書くのに分かれてしまいます。なにか縁遠いものと考えている。方法論的個人主義と戦略的相互作用が1つの尺度になって、統一した枠組みの中で、いろいろこういう説明ができて、場合分けできること、別に国を超えた問題であっても、国の中の問題であっても、実は似たような問題であることがわかれば、たぶん全体主義体制のような話も、リベラル・デモクラシーと連続的にとらえられると理解してもらえるでしょう。だから本書で取捨選択して絞ったことが、教育上絞りすぎだとか、偏っているとかという批判はあると思います。

 しかし、絞ることによって、かえって学生の中に何が残るかを考えている本だと思います。いろいろなことを教えて学生が自分で体系を組み立てなければいけないのは実は大変な作業で、半分研究者みたいな人でないとできない作業だと思うのです。でも頭の中に残る材料になるためには、入門テキストは大胆に絞らないとダメだと、自分が1年生を教えていて感じています。

稗田 今、伊藤さんがおっしゃったこと、実はこれ教科書を書いてるときに、政治学を学ぶ意義ですね、このことについて思いをめぐらしていたんですが、1つそのとき考えていたのが、学説とか理論とかを暗記するっていう科目にしたくない。で、この教科書はゲーム理論の話が典型なのですけれど、何の事象に対しても当てはめられる分析枠組みを提示しているのももちろんなんですけど、各章でもモデルですよね、やっぱり。その説明に力点を置いて、歴史とかそれ以外の部分はそんなに書いてないっていう。それはモデルを説明することによって、それこそデュベルジェの法則でもいいですし、ダウンズの空間理論でもいいんですけど、実際に自分が新聞を開いて政治現象にふれたときに、これはこういうことなんじゃないかっていうふうに頭を働かせてほしい、政治現象を説明できるようになってほしいというのがあって。

 だから集合行為問題を解決するっていうのがこの本を貫く1つのテーマなんですけど、繰り返しこれを言っておけば、例えば新聞で環太平洋パートナーシップ協定(TPP)の議論の時に、何でオバマ大統領は大統領貿易促進権限(TPA)法案を通さないといけないと思っていたのか。そこには集合行為問題があるんじゃないかっていうところまで頭が行くように教育したいっていう。やっぱりどうしても文系、特に政治学系の場合、授業で言ったことを全部暗記して、試験のときに暗記を問うような問題を出し、それを書き出して、それでおしまいっていうふうになりがちなので。考える学問にしたいし、そのための手助けとなるような教科書にしたいなって思って書いてました。

伊藤 本当にその通りです。授業では料理の例えをよく話すのですが、「さしすせそ」のように基本的な手法は、学ばなければ絶対できません。実際にはフライパンを観察しながら、パスタのどこで油を乳化してるのかを観察するように、自分で経験して、考えて使ってみないと、できるようにならないし、だからテキストの手法の統一は重要でしょう。そのうえで初めて、違う手法もあるのだというところにも目が行くのだと思います。そして、どう距離感をとっていくかっていうのは自分で学びながら選択することができれば。政治史が好き、政治哲学がやりたい、というなら、それが自分が今まで学んできたこととどう違うのかを考えてくれると嬉しいですよね。

砂原 試験問題の作り方も違っていて、ツイッターに出てくる公務員試験のbotとかを見てると、「寡頭制の鉄則って言ったのは誰」とかそういう問題が出てくるんですよね。この教科書で勉強しても、そういう問題にはなかなか答えられません。例えば大阪市立大学にいたときに、新聞記事を読ませて、「何でこれが集合行為問題と言えるのかを説明しなさい」っていう問題を出したことがあります。さっき稗田さんが言ったことと同じなんですけど、ある程度スタンダードな解釈をさせるトレーニングだと思うんですよね。料理の話にも通じると思うんですけど、スタンダードな解釈ができない人が、それを超えたすごい説得的な解釈をできるのかっていう話です。スタンダードを設定すること自体望ましくないという考えもあるかもしれませんが、しかしある程度、通説というかスタンダードは共有できるところがあってもいいんじゃないのっていうふうに思うんです。

伊藤 さっきも指摘したように、他のアプローチ、たとえば思想史とか政治哲学とかの分野でも最近スタンダードの明示を意識した本が漸く出版されるようになっています。どういうアプローチとか理論的背景とかがあって、教科書に思想家のカタログが載っていたり、テーマが載っていたりするのかが、公開される必要があると思います。学史のようなものが、専門外の人にもわかる、少なくとも教える人がわかるようになるといい。わかったうえで選択するかしないかは、研究者も学生も決められると思うので。でも政治史はまさにそうなんですけど、そういうものがないから判断できない、そのためなんとなく勉強してしまうという問題があります。

砂原 体得していくみたいな?

伊藤 そう、体得していくみたいな。それじゃまずいと思うんです。

多湖 やっぱりこの本のタイトルの英語のほうの、ポリティカル・サイエンスっていうのは大事だよね。そこに思想史とか政治史が入るのかっていう論争は1個あってもいいかなって。今の話をおうかがいしていて、思うところですけど。

稗田 デパートメント・オブ・ポリティカル・サイエンス(アメリカの「政治学部」)の場合、普通4つのサブフィールドで、ポリティカル・セオリーもその1つなので、ポリティカル・サイエンスに入ってくるでしょう。

多湖 何が政治なのか、の議論にからめて最近感じるのは、分野の細分化のことかな。例えば、国際政治学をやるから日本政治を含む比較政治学は勉強しませんじゃまったくダメで、それは我々には自明でも、学生には自明でない。ワークショップをやっても国際政治だと日本政治の学生が来なくって、逆もまたしかり。このくらいのことは最低限理解してねっていうのはあって。しかも今日のように比較政治と国際政治がすごい近くなってきてるんであれば、双方の学問的先端を意識しないってのは理解ができない。国際政治に関心があって、内戦をやりたいっていう学生が、仮に、連邦制については関心ありませんじゃ、先端的な研究はできないよとなる。

 でも意外に多いんだよね、逃避者。例えば、僕のゼミと4単位授業で国際政治やりたいっていう学生が、よくよく聞くと国際政治にも必ずしも強い関心があるわけでもない。彼・彼女曰く、僕の同僚の先生がやられる行政学は授業としては楽しいんだけど、学問の学びに身が入らない。国際政治はなんか「カッコいい」し、最近問題になっている内戦やテロについても扱える。だから僕のゼミに入りたいって言うのだけど、でも、隣接分野との関連性と緊張関係を理解できない人には、深みを伴って政治学を習得して、自分なりの考えや分析を深めるところまでは到達できないと思う。

伊藤 本当そうですよね。国際なんて嫌だから内政いくとか、逆もあるし、研究者にもそういうこと言う人いますよね。「政治科学化」の是非を論争させたいんだったら、全体にあるポリティカル・サイエンス化っていう現象がどういうものかを理解しておかないといけないと思うんです。

砂原 思想の話も正統性みたいなのがどう作られるかっていう話でもあると思うんですよね。だから、全く無関係ではないと思いますし、同じ対象を研究しているわけですから、そんなに全く共通言語がないっていう状況のほうが変だと思うんですよね。

伊藤 ただし、この教科書に出てくる程度の話ならいいと思うのですが、例えば修士課程ぐらいで、『マスターのための政治学の第一歩』を書くとしたら、多分数式は入ってきますよね。そうすると共通言語がなくなってしまうのではないか。対照的に、ある思想史・政治哲学研究者が言っていたのですが、自分たちのやっていることは誰でもわかると思われてしまっている、一般の人でもわかると思われている。だから本の売れる注文は桁1つ大きいよと皮肉を交えて言っていました。本当は違うのだけれども、そういう学問と思われている。同じことは政治史についても言えます。玄人の歴史家もいれば、一般の歴史家もいるのです。他方で、政治学でサイエンスになった部分は非常に専門化していて、やはり外の人たちにはわからないと思います。もちろんこの教科書に関して言えば、論理的思考力のある人が読めばわかると思うんです。しかし、最終的にはそういう問題に行きついてしまうのかなって。

稗田 そうですね。再現性っていう問題でいうと確かにゲーム理論で演繹的にモデルを作って、データ集めて計量分析にかけるっていうのは、やり方さえ覚えれば真似はできるけど、政治史とか政治思想史とかはどういうプロセスでこういう論文を書けるようになるかというのは、一見秘伝的。

伊藤 たしかに、秘伝ですね。良し悪しを判断する基準は公開されていない。もちろん共有知みたいなのはあって、すぐれた研究者同士であれば評価はだいたい一致するのですよ。でもそれが外から見るとわからない。悲劇なのはそれがわからないまま、研究を続けてしまうということです。だから、歴史好きだから政治史を研究しましたというのは動機としてはいいのですけど、専門職になるためには足りない。例えばファシズムのことをやるのだったら、どういうアプローチで研究するのか。例えば、さっきおっしゃった、ばりばりの政治学のポリティカル・サイエンスとして研究するのも全然構わないのに、なぜあなたは埃にまみれた史料館にいて、抽象的な分析概念を使わない記述スタイルを選ぶのか。歴史が好きです、だけでは理由にならないですよね。

 自分たちの方法はこういうものですっていう明確なものがあるのは、正直羨ましいですね。もちろんそれは批判にもさらされているわけだけど、でもラベルが貼れるわけですよ。でも、ラベルがない分野もあるのです。

砂原 再現可能性っていうのはサイエンスとしての前提ですし、さっきも言った話ですけど、僕の新聞コメントなんていらないっていうのと同じで、学びを通じて理解を再現できるっていうのは意味があると思うんです。今の大学教育を考えるときにも、一定の水準の再現性が確保できる教科書っていうか、教え方が重要だと思うんですよね。

 ただ難しいのは、再現性があることばかりじゃなくて、再現性が効かない特殊なケースが出てくるところだと思うんです。そこへのインプリケーションをどう考えるかっていう問題があって、それは説明できないだろって言われたらその通りですっていうだけなのかもしれませんけど。さらに、なんで政治学を学ぶのかという話でもありますが、要は政治学を学んで、理解を再現できるのはいい、ただ、この本を読んでも秩序は作れないわけですよ。あなたがたは権力を掌握できますかって言われたら我々は絶対できないわけですから、それとは別問題なんですよね。何のために政治学を学ぶのかというと、確かに再現可能性っていうものを重視して理解はできるとは思うんですよ。さらにそのうえに現実を分析したり、社会に乗り込んでいったりするときに、政治学をどう使ったらいいんだろうというのを最近ずっと考えています。

伊藤 よき市民になるためっていうのは昔からよく言われていて、よき市民が何かはわからないけども、もののわかる有権者になるっていう点においては、知っておいたほうがいいことですよね。

稗田 制度選択って確かにエリートがやるんですけれども、やっぱり有権者の支持がなければ選挙制度とかも変えられないわけじゃないですか。それで昔から日本では中選挙区制をとっていたので、今もまた中選挙区制に戻せばよくなるとかいうことを言う人がいる。そこで、これこれこういう理由でこういう個人と戦略的相互作用を前提に分析すると、中選挙区制ではこうなりますよっていうのを理解できるオピニオン・リーダーを作っていって、ようやく将来制度が、いいものになるかもしれない。そういう市民教育しかないんじゃないですか。政治学は。

砂原 エリート教育ですか?

稗田 エリートに限らないけど。エリートを教育して、そこから先が広がっていくってことを期待していくしかない。

伊藤 レベルは違いますけど、アメリカで「法と経済学」はそういうプロセスで広がっていったと聞きました。そのエリート的視点って言われればそうかもしれないけど、やはり研究者だけではない世界に届ける意味はあると思います。先日NHKで公共事業に関するドキュメンタリーを放映していたのを見て、これは本当に集合行為問題だなって思いました。当事者はそんな言葉は使ってないのですが。最初からこういうことを知っていれば、こういう公共事業をやっていればそのまま自動的に後に残りますよっていう曖昧な言い方で、その事業を通じて再配分問題をどう扱うかなど現実的な話ができる専門家を中長期的には増やすことができるのではないかと思います。

多湖 話が変わってしまうのですが、この対談で1つ指摘しておきたかったのが、稗田さんが書いた、この教科書の「はじめに」は秀逸の文章です。こんなに政治学を勉強することを正当化されたことはない。

稗田 書いたものは、最初に多湖さんが書いていたものをいかに18歳に届くものにするかを考えて、それでロビンソンクルーソーから始めたんですよ。

伊藤 私、毎年クリスマス前のこの時期に「両性の闘い」の話をします。だからそういう身近な話とか、社会を変えたいと思うのだったらどうするかなど「はじめに」に書かれていた周りの政治につなげられると思います。その点で「はじめに」は面白いですよね。

 変えるためにはどうしたらいいのかっていう。その人の頭の中の考えを直接変えるっていうのはできないっていうか、政治的規範としてもやっちゃいけないことだって考えると、実質的に行動を変えるためにはどうしたらいいのかっていうことに注目するしかないってことですよね。ものすごい自由主義的な。

砂原 ものすごい自由主義的だとは思うんです。僕はそれを結構何回も言っていて、我々はこうものすごい自由主義にコミットしてますよねっていう。

稗田 民主主義よりは自由主義なんですよね。

砂原 どこかにポジションを取るとしたら、経済合理的だといってポジションを取ってるってよりは、自由主義的にポジションを取ってるって言ったほうがよくて……。逆に我々の本、はじめ有斐閣のウェブサイトの宣伝では、「自己の利益の最大化をめざす個人」って書いてあったけど、本の裏表紙では「自由な個人」ってなってたと思うんですよね、これは絶対「自由な個人」のほうがいいと思うんですよ。

稗田 自由な意思をもつ個人ね。

伊藤 自己利益の最大化というと、すぐにわがままな人が政治をするんですかってなって、学者でもそういうこと言って。そうじゃなくて、例えば他人のために身を投げ出して、銃弾から人を守ることに、どんな自由があるか、それだって選択なんだ、利他心と利己心を区別できるのかっていうことを考えなくてはいけないんですよね。本書がわがままな個人を基盤としたアナーキーではなく、自由主義的な政治観に裏づけられた本だと伝わるとよいですね。

(2015年11月28日収録)


(6)Jeffry A. Frieden, David A. Lake, and Kenneth A. Schultz,World Politics: Interests, Interactions, Institutions, 2nd edition(W.W.Norton & Co. Inc., 2012).

(7)師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』(岩波新書、2013年)。

(8)ジョージ・オーウェル/高橋和久訳『1984年〔新訳版〕』(ハヤカワepi文庫、2009年)。

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