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書評


『民法学を語る』
民法のための弁明
 ――民法学者の仕事

東京大学大学院法学政治学研究科准教授 加毛明〔Kamo Akira〕

大村敦志・小粥太郎/著
四六判,254頁
本体2,400円+税

 「現代日本において民法学者は何をしているのか、そして、何をすべきなのか――」(8頁〔大村〕)


 現在のわが国では「判例と学説が相互参照を繰り返しながら、よい法が求められて民法の解釈が更新されていく、という従前の暗黙の前提が揺ら」いでいる(6頁〔大村〕)。法実務の自律性を背景として「具体的な解釈論や立法論の局面では、今後、民法学者が独自の存在理由を示すことは容易ではない」(19頁〔小粥〕)。外国法の調査についても「日本の大手法律事務所に依頼すれば、彼らは、世界中のネットワークを活用して、数日内に結果を出してくるのだから、研究者固有の仕事としての価値は乏しい、という意見」もある(53頁〔小粥〕)。今日の日本社会において、民法学にいかなる存在意義があるのか、民法学者はどこに居場所を求めればよいのか。本書は、2人の著者が、自らの研究者としての歩みを素材として、1980年代以降の民法学の展開を跡付け、今後の民法学のあり方を提示する試みである。民法学の基礎と方法(第1章)、立法・教育に対する民法学のかかわり方(第2章)、民法学の良き伝統と今後の学説の役割(第3章)をめぐって交わされる書簡は、「民法」とは何か、「民法を学問する」とは何を意味するのかを問い直すことを通じて、民法学が現代の日本社会において占めるべき地位(の回復)を主張する(1)


1⑴ 本書の2人の著者は「同世代に属する」(5頁〔大村〕)。80年代の民法学が「事実優先の社会学主義」――法学の自律性の相対的軽視――によって特徴づけられるのに対して、90年代の民法学は「議論重視の論理主義」――自律性の相対的重視――を基調とする(8頁〔大村〕)(2)。著者の世代観は、80年代の民法学を経験しつつ、90年代の民法学を牽引してきた自負を基礎とする(3)

 この世代観は民法学の方法への関心の反映でもある。70年代から80年代に集積した民法学の基礎研究について、その意義を問い直すことが、世代共通の関心事とされた(30頁〔大村〕)。これに加えて、同時代のフランス民法学の基層への関心を共有することが(5頁〔大村〕)、本書の2人の著者の立ち位置を基礎づける。

⑵ 本書の著者は、民法学の現状について、大学のあり方や社会科学一般に共通する問題を意識しつつも(15―6頁、230―2頁〔小粥〕)、ヨリ直接的な原因に着目する。第一に、民法学に求められる内容の変化がある。「実務が力を付け」、「判例が蓄積してきて自律性を持つようになってきた」(224頁〔大村〕)現代においては、解釈を通じた法創造における民法学の重要性は低下する。その一方で、法科大学院制度の導入・民法(債権関係)改正などを背景として、教育の重視・解釈論から立法論へのシフトが要請される。それにもかかわらず、教育との関係・立法過程への働きかけのあり方が、民法学において「十分に意識化されていない」のである(7頁〔大村〕)。

 第2に、民法学の内部における研究のあり方の変化がある。現在の民法学は「ベタな利益衡量を嫌う」あまり「社会から距離を置くこと」になり、「解釈論・立法論が規範の世界のもの」であると割り切ることで「事実の世界」(社会)から遊離する可能性を孕む(182―3頁〔小粥〕)。「議論重視の論理主義」の意図せざる結果として、民法学が「単純な論理主義、あるいは偏狭な規範中心主義と受け止められかねない」様相を帯びる(8―9頁〔大村〕)。その結果、「民法学それ自体が、現在の若者、あるいは知的世界の中で、魅力を失っている」おそれが生じることになる(15頁〔小粥〕)。


2⑴⒜ 民法学の現状に対する1つの選択肢は、民法学を諦めることである。法学の学問としての無価値性(Wertlosigkeit)については19世紀以来の議論の蓄積があるし、戦後の民法学における「事実優先の社会学主義」も法学の自律性の否定につながる要素を含んでいた。現代のアメリカでは、そのような学問観が支配的であるともいえる。分析の対象として法制度は存在するものの、分析の方法は法の外部からもたらされる(4)(「法と経済学(Law and economics)」は「法の経済分析(Economic analysis of law)」であって「法」(対象)と「経済学」(方法)は等価でない)。立法を含む制度設計への寄与を高めるために、法制度が現実にいかなる機能を果たしているのかを分析し、立法の前提となる事実を提示することは有望な戦略である(5)。そして、分析手法を法の外に求めたとしても、法というシステムを適切に作動させるうえで、法的技術に対する法律家としての知見の意義が失われるわけではない。

 しかし本書の著者は、この戦略を採用しない。「具体的な法令・判例、立法論・解釈論をある種のコアと申しますか、共通言語とするような形で、『法』学としてのアイデンティティを維持する、ないし法システムを維持することを前提に、民法学の展開を考えたいのです」(23頁〔小粥〕)。民法学に望みをかけるのである。「法学は『研究』だけをするものではな」く、「『学』の中には『術』が組み込まれており、『術』の中にも『学』が組み込まれている」(212頁〔大村〕)という理解も、「学(science)」と「術(art/technique)」を一体として捉えることで、法学(民法学)のアイデンティティを擁護する。

⒝ 民法学に望みをかけるとしても、その方法は一様でない。比較的新しい法分野や法律問題については、伝統的解釈の営みを通じて法の形成に貢献しうる。「実務と学説が幸福な関係を築く希望をもてる(6)」領域は残されている。その領域の研究は、単に既存の法概念・法理を新しい問題に応用するだけでなく、既存の法概念・法理の更新にもつながりうる。近時の民法学者の多くにとって、なじみやすい民法学の構想ともいえる(7)

 しかし本書の著者にとって、具体的な解釈論や立法論の提示は必ずしも「大事なのではない」(20頁〔小粥〕)。むしろ「日本の民法学が、社会とつながる伝統を持っていた」ことに目を向けるべきであるとする(183頁〔小粥〕)。本書の著者の1人の営みは「切れかけたかのようにも思われた民法学と社会との回路を、修復しようとするもの」と評され(183頁〔小粥〕)、もう1人の著者は「批評」を通じて「民法学を社会(読者たる一般市民)に開くことを構想」する(194頁〔大村〕)。

 同時に民法学の独自性が自覚される。法学教育において「法的なものの考え方の実相を示す」ことに注意が向けられ(8)(143頁〔小粥〕)、「制度を創る」際の「法学の特色」に関心が寄せられる(219頁〔大村〕)。隣接する学問領域との関係では、法を通じて社会の一側面に光を当てる「社会認識の学」として民法学を再定位することが試みられる(167頁〔大村〕)。民法学の良き伝統の回復と、90年代以降の「プラスの遺産」(222頁〔大村〕)の継承が目指されるのである。

⑵⒜ 本書の著者は、社会とのかかわりにおいて民法が持つ意味を明らかにすることに、民法学の今後の展望を見出す。「実定法学が市民社会を支えているという法学観」、「民法は市民社会の基本法であるという民法観」が共有される(196頁〔大村〕)。「『市民であること』(citoyenneté)を自覚的に引き受けられること、自ら市民になることが、(近代)民法の究極の目的であるとともに存在基盤である」。そのために民法学は「市民社会を構築する技法を、それを支える思想とともに提供する」(220頁〔大村〕)。それゆえ、法学教育の1つの目的は「民法の諸制度を内面化すること、すなわち共感しつつ受容するということ」(74頁〔大村〕)であり(9)、導入的な法学教育は法教育――狭義の法律家でない人々に対して法の考え方を教える点に重点を置いて行われる教育――と連続性を有することになる。

 立法に関する民法学者の貢献は「別様のあり方」の提示に求められる。新法を制定の文脈に位置づけることで時間的・空間的な「相対性を浮き彫り」にし(114頁〔小粥〕)、「あり得たかもしれない立法を想定しつつ、あるべき解釈を探求する」(132頁〔大村〕)。将来の立法に向けて「問題を解決すること以上に重要なのは、議論に新たな視点を導入したり(議論空間の拡張)、考慮すべき新たな原理を提示する(議論要素の再編)こと」である(10)(133頁〔大村〕)。「『別様の』推論のあり方を探すことが『別様の』世界の捉え方を探すことに繋がる」(104頁〔大村〕)という認識が、これらの主張の前提を成す。

⒝ 民法学のあり方に関する基本的理解を共有しつつも、本書に示される2人の著者の指向性は対照的である。両者の違いは――民法学の「基礎」と位置付けられる――外国法研究に顕著に現れる。大村は、差異に配慮しつつも、普遍性を希求する。「巨視的な比較法」研究に基づいて「変化の趨勢を語る」こと(「進化論的な比較法」)を支持する(35―6頁〔大村〕)。今後の比較法研究について「東アジア諸国の相互比較」と「法継受をより一般性の高い現象としてとらえること」の重要性を指摘しつつ、それによって「私たちの経験を共通の枠組みで理解することが可能」となり、「民法学が共通の基盤を持つこと」になるとする(213―4頁〔大村〕)。大村の主眼は、共通の枠組み・共通の基盤の探求に置かれる。

 これに対して小粥の主たる関心は、比較対象の差異に向かう。初期の研究においてフランス契約法を特徴づけるコーズを取り上げた理由は、フランス法に対する違和感に求められる(「この違和感は何だろう、なぜそう感じるのか。理解したいのです」(56頁〔小粥〕))。小粥は「フランス民法学における分類好きという現象(…)の背後にある考え方を言語化しよう」(86頁〔小粥〕)と志し、マルセル・プラニオルという(日本の民法学者の目には特異に映る)民法学者をオーソドックスと位置付けるフランス法学に関心を寄せる。この関心は「法学者という観点から、それぞれの法学観を取り出し、それについて考える」(186頁〔小粥〕)ことへとつながっていく。小粥の視線は、差異を生み出す前提に向けられている。


 民法学に対する本書の目論みは、革新的であり、懐古的でもある。本書の映し出す民法学は、収斂しつつも、多様な像を結ぶ。様々な可能性を秘めた希望の種を、本書は次代に託している。


(1)本書の著者による同様の試みとして、大村敦志「新しい利益考量法学のために――ポスト司法制度改革の民法学」高翔龍ほか編『星野英一先生追悼 日本民法学の新たな時代』(有斐閣・2015年)77頁。

(2)この民法学の転回を主導した平井宜雄は、両者を「還元主義」と「自立主義」とする(平井宜雄「『法的思考様式』を求めて――35年の回顧と展望」北法47巻6号1817頁)。

(3)この世代観は大村の認識によく示される。第一論文『公序良俗と契約正義』(有斐閣・1995年)には80年代の民法学の痕跡が色濃く残されているのに対して、第二論文『典型契約と性質決定』(有斐閣・1997年)は90年代の民法学の特徴を強く帯びているとされる(31頁〔大村〕)。大村は自ら(と同年代の幾人かの研究者)を民法学の転換期に位置づける。このことは、実年齢において6歳年下の小粥を同世代とする一方で、4歳年上の内田貴を「少し上の世代に属する」(38頁〔大村〕)と評価することにも現れる。

(4)方法を前提として対象の法領域が選択されるため、ある研究者が法領域を跨いで研究・教育を行うのはごく自然なことになる(148―9頁〔小粥〕参照)。

(5)小粥太郎『日本の民法学』(日本評論社・2011年)が、狭い意味での民法学者(法学者)でない森田果を取り上げるのは、民法学(法学)のあり得る1つの像を描き出すものといえよう。

(6)加藤雅信・加藤新太郎・小粥太郎「民法学と民法学方法論」加藤雅信・加藤新太郎編著『現代民法学と実務(下)』(判例タイムズ・2008年)308頁〔小粥太郎〕。

(7)本書も「既存の制度や概念の理解を深める、あるいは、新しい概念や原理を構成・発見すること」を目的とするフランス民法学の指向性に言及する(215頁〔大村〕)。

(8)職業として民法を用いる者(狭義の法律家)との関係でも、民法学者の役割は「法とは何かとか、法的なものの考え方とはどのようなものか」という課題に切り込み、「法律家たちの思考の底にじわじわと影響を与えるような類いの深度にある」研究を行うことに求められる(55―6頁〔小粥〕)。

(9)大村は、星野英一の利益考量法学を「共感の技法」――「共感した上で民法典を受け入れる再継受の試み」――と位置付ける(74―5頁。大村・前掲注1・85―6頁も参照)。

(10)「外国の動向などをファクトとして考慮に入れつつ、さまざまな考慮要因を議論の空間に提出する」(140頁〔小粥〕)という大村の立法に対するスタンスには、「法を社会現象としてとらえ、多面的に検討するための素材を広く求める」(204頁〔大村〕)穂積重遠との類似性が見出される。

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