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書斎の窓

連載

残照の中に

第4回  鳴子

東北大学名誉教授・元最高裁判所判事 藤田宙靖〔Fujita Tokiyasu〕

 鳴子は、言うまでもなく、こけしと鳴子峡の紅葉で知られた宮城県内きっての老舗温泉地である。かつては名立たるスキー場でもあって、国体を始めとし、各種の競技大会がここで開かれていた。今では疾うに閉鎖されてしまったが、「花淵の壁」として有名な花淵山の急斜面は、格好の競技用スロープであって、県立女子高校のスキー部キャプテンであった妻などは、試合で、何度もここを滑降したという(残念ながら往時の私には、「降りた」というより「落ちた」という記憶しかない)。


 この鳴子に、Yさんという山菜・キノコ採りの名人がいた。5月の始め頃、そして秋口になると、「もしもーし! なるごっす!」という大声の、受話器を取っただけで誰から何の用であるかが直ちに分る電話が掛って来る(「鳴子」は、この辺りでは「ナルゴ」と発音するのである)。春は山菜、秋はキノコ採りに、そろそろ私達夫婦でも山に入れるようなシーズンになったよ、という、誘いの電話なのである。

 Yさんと初めて会ったのは、凡そ20年ほども前、当時の鳴子町の町長さんを介してのことであった。ひょんなことから町長さんが私達をキノコ採りに招待して下さった際に、ガイドを務めてくれたのが、「鳴子一のキノコ採りの名人」として紹介されたYさんだったのである。農林業を営む傍ら地元の建設会社に勤めていたYさんが千秋ラインの建設作業中に見付けたという、あのキノコの群生地に足を踏み入れた時の衝撃と感動は、今でも忘れることが出来ない。それはほとんど、世の中のあらゆる種類の(そのようなことがある訳はないが)キノコ達が、人の知らない世界に、ひっそりと自分らの王国を築き上げて来たのを覗き見たかのような、幻想的にして妖しくもある情景であった。私達の余りの感動ぶりが嬉しかったのであろうか、Yさんはその後、町長さんの頭越しに直接電話をして来るようになった。私達もまた、町長さんには多少の後ろめたさを感じながらも、その好意に甘え、Yさんの導く世界へと嵌り込んで行くことになったのであった。

 山菜と言えばせいぜい蕗・蕨・ぜんまい。キノコと言えば松茸・しめじ・なめこ・頑張っても舞茸くらいしか知らなかった私達は、先ず、その種類の豊富さに圧倒された。Yさんは、蕨、ぜんまいなどというものには、見向きもしない。シドケ、アイコ、コゴミ、ミズ等の山菜は、仙台の朝市でも見ることが出来るが、タカド(ボンナ)という絶品などは、それまで見たことも聞いたことも、まして口に入れたことなど一度もなかった。Yさんは、松茸はここにはない、として、はなから探そうともしない。ホンシメジやナメコそしてイノハナ等比較的世に知られたキノコはもとより、オリミキ・アミコ等街でも塩蔵品が売られているものの他、ヨシタケ・キンタケ・ヤマドリモダシ・アカナメコ・コナラシメジ・スギカノカ・ブナカノカ・ヒラタケ・ムキタケ等々、私達は、Yさんのお蔭で、一体どれほど多くのキノコ達と初対面したことであろう。

 Yさんは、一日も欠かさず、早朝山に入る。所有する山林の見廻りや、山中で栽培するナメコ・ヒラタケの管理もあるが、どこに今何が生えているかを点検して、2時間から3時間ほども山道を歩くのである。私達が鳴子を訪問する際には、どこに連れて行けば良いかを前日に現場検証し、立派なホンシメジなどがあれば、他人に採られてしまわないように、枯れ葉を掛けておくなどという隠蔽工作も行う。当日は、それとなく誘導された私達が、それとも知らずコロコロと喜ぶものだから、それを見てYさんは、一層嬉しくなる。「よかった! よかった!」というのが、帰り道での決まり言葉であった。

 しかしYさんは、識らないキノコは絶対に採ろうとしない。Yさんほどの名人ならば食べられるかどうか判別できないことはなかろうと、私達があれこれと持って行っても、「分りません」といって愛想もなく捨てられてしまうのが、先ず普通であった。

 山菜やキノコ採りの行程は、決して楽なものではない。水辺に群生する山菜もあれば、崖地に生えるものもある。地竹の藪の中にこっそり生えているようなキノコもある。尾根を越え、沢に降り、崖をよじ登り、藪を漕ぎ、しかも獲物を入れた荷を背負っての行軍であるから、ヤワな足腰では、到底、齢80のYさんに従いて行くことはできない。私達に一度従いて来た仙台市の若い職員などは、Yさんに「もっと身体を鍛えてから来なさい」と説教される始末であった。

 当然のことながら、Yさんがシーズン中に収穫する山菜やキノコの量は、膨大なものになる。しかしYさんは、自らの収穫物を、決して売ろうとはしない。自家用に食べたり保存したりする他は、皆他人に呉れてしまうのである。その理由をYさんは、「金に換えたのでは、楽しくないから」というのであった。

 このYさんが、ある日仙台の私達の自宅を訪ねて来た。ある国家試験を受けに仙台に出て来たので、一寸立ち寄ったというのである。何の試験かと聞くと、これが何と司法試験だという。実はYさんは、若き日に、東京のある私立大学の通信講座を受講して法学部を卒業しており、法学士の資格を持っているのである。それまで私達は全く知らなかったのだが、数十年この方毎年挑戦し続けて来たのだそうで、合格するとは思わないが、頭の訓練のために良いと思って、毎日試験勉強をしている、と言うのであった。私の最高裁判事就任がマスコミで報道された直後、いつもの「もしもーし! なるごっす!」の後「ウワッハッハッハー」という大笑いで、最大の喜びを伝えてくれたYさんであった。


 Yさんの様子に「おや?」と思う変化が現れたのは、それから2・3年後のことであったろうか。私より15歳も年上であるに拘らず、私達の倍の重さの荷を背負って山道をすたすたと歩き、山葡萄があった、と言っては、木にするすると登って房を取ってくれていたYさんの足取りが、心なしか重い。やがて、時折腰を下ろして休憩するようにもなった。それでも、シーズン毎の「もしもーし!」の大声の便りは、一向に変わらない。半年ぶりに鳴子を訪ねてみると、その間に、心筋梗塞を起こして入院した病院から「脱走」して、キノコの生育状態を見るために山に入ったり、電気鋸で誤って親指を切り落としたりなど、信じられないことをやらかしては、私達と会う前に再び回復しているのである。

 こんな不死身のYさんが、私が退官する前の年には、キノコ狩りに、Sさんという「助手」を連れて来た。やはりキノコ採りの達人だというのであるが、共に山に入り、Yさんはベース基地で待っていて、その指示の下、このSさんが、私達を、あちらの尾根、こちらの崖に導くのである。この仕組みはかなり有効に働いて、Yさんは、「よかった! よかった! このチームで、これからも続けましょう」と、喜んだ。

 そしてその冬。Yさんは亡くなった。

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 11月の初頭、妻と私は、鳴子温泉のすぐ裏手の山陰にある、「潟沼(かたぬま)」の畔に居た。鳴子は実は火山であって、周囲僅か1キロメートル余にして16メートルの水深を持つこの小さな湖は、その(異説もないではないようであるが)火口湖であるという。10年程も前のこと、いつもは手作りの山菜・キノコ料理でもてなして下さる奥さんの具合が悪いからと、湖畔のレストラン(というより食堂兼土産物屋)で昼食をとるために、Yさんがここに連れて来てくれたのである。温泉街のすぐ近くにこのような「秘境」があるということを、私達はその時初めて知り、大いに感銘を受けたものであったが、今や、一軒家の食堂の周辺には公衆トイレ付の広大な駐車場ができ、また、山腹に設けられたクレー射撃練習場の砲音が鳴り響くなど、抱いていたイメージとはかなりの違いがあった。それでも、全山の燃ゆる紅葉と強酸性を示す淡青の静かな水面には、あの時と少しも変わるところがない。あの日と同じようにきのこそばを食べ、あの時には時間がなくて叶わなかった湖畔一周の散策を、改めてゆっくりと愉しんだ。

 鳴子は、私達にとって、4年ぶりの訪問であった。


 最高裁を退官した年の5月、そろそろ鳴子からの誘いが来るかな、と思っていた矢先、Yさんの娘さんから電話が掛かって来た。父は昨年末に亡くなったが、藤田先生についての後事をSさんに頼んであり、Sさんもまたそれを承知しているから、是非また鳴子に来てくれ、というのである。当時、未だ東京で勤務していた私の多忙を気遣って、ご遺族は、私達にYさんの死を知らせなかったのであった。取るものも取り敢えず鳴子に駆け付けた私達は、娘さんに、秋になったらキノコ狩りに来るから、とSさんへの連絡をお願いした。しかし、Sさんとの山行は、結局この年だけで終わってしまったのである。

 Yさんは、私達が、何時行くからと連絡すると、いつでも、またシーズンに何回でも、二つ返事で待ち受けてくれ、そして、時によりまたその年の天候により、その内容と分量には様々に違いがあるものの、必ず何がしかの収穫を挙げ、持ち帰らせてくれた。Sさんもまた、キノコ採りの達人であるが、何時行くからキノコを採らせてくれと一方的に言われても、シーズンにより、キノコの発生や生育には大きな違いがあり、十分に対応できないことがある、従って、今何が盛りであるとこちらから連絡した時に来てくれ、というのである。しかし残念ながら、私達には、このSさんの要請に応じることが困難であった。

 Sさんの要請の意味は、私には、痛いほど良く分かる。それは、私が講演や原稿執筆依頼を次々と断る際の理屈と、ほとんど同じだからである。Sさんとしては、尊敬する先輩Yさんから後事を託された大事な客人を、自分の持てる最高の能力を最高の条件の下に発揮して接待することこそが、キノコ採りの達人たる者のあるべき姿なのであって、求められるからと言って、自分にとって不本意な仕事はしたくない。それは、ある意味、当然の姿と言うべきであろう。ただ私達は、キノコは採れるに越したことはないものの、それよりも何よりも、Yさんに連れられて山に入り、鳴子の山の空気を吸い、Yさんという名人のありのままの姿を見ること自体が、何よりも楽しかったのである。求められるままに、自分が持てる限りのものを与えるという、当たり前のようであって実は容易ではないことを、Yさんは、何の屈託もなく実行し、そしてそれを無上の喜びとしていたのであった。

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