自著を語る
『ゼロからはじめる心理学・入門――人の心を知る科学』
(有斐閣ストゥディア)
日本女子大学人間社会学部教授 金沢創〔Kanazawa So〕
理系と文系
心理学は文系か理系か。この判断が難しい。心理学は多くの大学で文学部にあるから文系だろうという人もいる。ただ中身を見ると、統計を使ったり実験室を使ったりというので理系だろうという人もいる。あるいは理系文系なんて分類がそもそも古いので、どちらでもいいじゃないか、という人もいたりする。
一応の公式見解によれば、もともと日本の大学はドイツをモデルにしたので、心理学は哲学と近い文学部におくことになった、というもので、私もよく年配の先生方にそうした話を聞かされたことがある。しかし、現状の日本の心理学は、どうみてもアメリカをモデルに発展してきたところがあって、その意味では文系か理系かという疑問も、単にどの国のものを意識したのかという「輸入元」の問題なのかもしれない。
さて、本書は心理学の教科書として企画された。心理学の教科書というのは、本書も含め過去に数多くのものが出版されているが、その中身は実は似ているものが多い。それだけ心理学という学問が1つの「パターン」をもっているということでもある。この点でいえば、心理学が理系の学問であり独自の原理(discipline)を持っているという証拠ともいえるかもしれない。であるがゆえに、逆に私としては、なんとかそのパターンを裏切りたいという気持ちがあった。「はしがき」にも書いたことであるが、本書の「ゼロから」というタイトルには、できるだけ心理学がもつ哲学的な背景を感じさせるようなものをめざしたいという気持ちが現われている。つまり本書を書き進めるにあたり、心理学がもつ人文科学的な背景を忘れないようにしようと努めた。その意味で、理系的な原理をもつ点と文系的な哲学的背景の、双方を兼ねそなえようという、少々無謀な地点をめざしたのが本書である。それがうまくいっているかどうかは本書を読んでいただくしかないが、目指した地点だけは明確であったとだけ記しておこう。
物と心
心理学が理系でありまた文系でもあるという点は、心理学の学問内容とも関連する。「心」という対象を科学的に考えることの問題だ。
通常科学で扱う対象は、すべて重さ、大きさ、位置などなど、測定し数値で表すことができるものを扱う。この測定の方法論こそが、当該の科学の学問領域(discipline)を決定し独立した学を形成する。対象を決め観測する。何を観測するか、そのための道具は何を用いるか。それが学問分野ごとに異なっている。
心理学が対象とするのは心である。本書でも繰り返し述べたことであるが、心はこうした大きさ、重さ、位置、をもたない。「大きな喜び」「軽い悲しみ」といったところで、実際にその大きさや重さを数値に直すとことはできない。心理学は数値化できないものを数値化する作業という意味で、他の自然科学とは決定的に異なっているのである。
この「文系的テーマの理系化」という作業は、心理学の弱みでもあるかもしれないが、逆に特徴でもあるはずだ。意外なことに、この点を強調している教科書はほとんど見たことがない。本書を、「ゼロから」心を考えるものにしようとした理由は、この矛盾こそが心理学の強みでもあると考えたからに他ならない。
心を理系的に考える学問としては、脳科学がある。脳科学は、心が脳のどこにあるのかという問いに答える。つまり「位置」という理系的な属性を与える。恐怖は扁桃核という場所にあるし、記憶は海馬という場所にある、といった具合だ。かつて神経科学者は、こういったものである。「心の科学的説明が脳科学の進展によって可能となったとき、人文科学は必要なくなるだろう」。神経美学、神経経済学、神経倫理学、といった言葉を聞けば、その予言が成就しつつあるという錯覚に陥るかもしれない。しかし、これは完全な錯誤であることもまた明らかになりつつある。心理学はどこまでいっても、必要なのだ。それは、方法論の不徹底からくる問題ではなく、むしろ原理的かつ理論的な要請なのである。その理解のためにも、ぜひ心理学を「ゼロから」考える本書を手にとってほしい。
心理学のプロと素人
心理学という学問のもう1つの特徴がある。それは、アマチュアとプロの差がない、という点だ。
例えば特殊な植物や動物を専門とする学問を考えてみよう。すると、そもそもその動植物を見たことがある、あるいは採取して所有しているというだけで、学問として成立することに気が付くだろう。なにせ、その動植物は珍しいものなのである。実際に野生においてどのような生態で生存しているのか、それを観察し記録することは、その学問の特権ということになる。
ところが心理学ではどうだろうか。「私は悲しみについて知っています」と主張したところで、特別な価値など存在しない。なにせ誰しもがそれについて知っているからだ。さらにいえば、それぞれの人が専門家を越えてその現象に関する独自の仮説をもっているかもしれない。もしその人が、それぞれの人生について本質的な見解をもっているのであれば「本当の悲しみとは……」と語り出すことができるだろう。
端的にいえば、心理学はアマチュアのレベルが高いのである。この点が心理学を学問として成立させることを難しくしている。「悲しみ刺激」の呈示により、「悲しみ反応」が観察され、これを集計することで「悲しみ量」が測定される、などと「専門用語」を使ってみたところで、「そんなことは誰でも知っていることですよ」と言われてしまうのがオチであろう。対人関係や人間関係に関する研究の結論が、「人は傷つくと悲しむ」「悲しんでいる人間は活動が落ちる」といった、ごくつまらない当たり前の結論となっていることもよくあることである。もちろんそこに至る方法論こそに心理学という学問の特徴があるはずなのだが、できれば聴衆をあっと驚かせる結論を呈示するのが学問の醍醐味のはずだという観点からすれば、物足りないということになる。
「ゼロから学ぶ」という言葉には、できれば心理学のプロではなく、アマチュアに向けてメッセージを発したいという意図も入っている。プロフェッショナルな心理学については素養がない、すなわち専門的な用語や専門的な知識をもっていなくとも、アマチュアとしては心について深く関心をもっている、そんな方にこそ本書を読んでいただきたい。「ゼロから」とは専門的な用語や概念によらず、ただ自身の経験と知力のみによって本書を読み進めていただきたいとの願いを込めたタイトルでもあるのだ。
心理学という言語ゲーム
色々と心理学という学問のもつ特徴について説明してきたが、最後に本書の中身について若干触れてこのエッセーを閉じることとしよう。
はしがきでも触れたように、私が担当した多くの章では、共著者である2名の若手心理学者からの質疑応答に答える形で草稿を修正していったという経緯がある。そこには答えることが困難な問いかけもあったが、全体としては、本書を構成するにあたって大いに助けとなった。その跡は、本書の全体にわたっているが、あえて本書のよみどころを1点強調するなら、ぜひ序章を読んでいただきたい。
この章は、先にも述べた心と物の関係、すなわち大きさ、重さ、形、位置をもたない「心」というものを、どのようにして計測し数値に直すのか、という問題について述べた章となっている。本書は表面上「計量心理学」の章となっているが、通常の心理学の教科書であれば、こうした問いかけは一切無視し、そのことが可能であるとする前提にまずは立ち、そのうえで尺度に関する解説が行われるのが普通である。しかし本書では、その前提を疑い「心は数値化できるのか」という問いの前にあえて立ち止まってみることで、逆説的に心理学という学問の狙いを浮かび上がらせようとするものであった。
本書では書ききれなかったが、念頭にあったのはヴィトゲンシュタインの言語ゲームのアイデアだ。オーストリアの哲学者ヴィトゲンシュタインは後期の代表作『哲学探究』において、言葉によるやりとりが成立するのは、コミュニケーションに関する規則があるからではなく、むしろ規則が跡付けて構成されていくのだということを論じた。つまり、なんらかの規則に従って、「通じた」「通じない」という成否が決定されるのではなく、まずは「通じた」ということを仮に設定することで、逆に何が規則として仮定されていたのかが逆に浮かび上がるのではないかと考えたのである。しかも、その規則は次々と新しい「ゲーム」が仕掛けられることで、変更が加えられていく。この変更の歴史全体をもって、1つの言語ゲームが成立しているとしたのだ。
ルールがあって正解を決めるのではなく、まずは正解しているとしてみて、逆に何がルールであったが明らかとなる。ちょっと言葉遊びか頓智のような物言いではあるが、これが実に心理学という学問の活動にあてはまっているように、私は常々考えていたのである。
たとえば、数値化できない(とかつてカントが考えた)心理量というものを、まずは存在すると仮定してみる。その上で、心理量の推定を、様々な方法で追究していくのである。こうして「操作的定義」が成立するのであるが、その心理量は、必ず存在するものであるのだから、その数値を前提に、人間の心の活動の総体をモデル化することもできる。あるいは類似の心理量を、同じ方法で計測することもできるだろう。序章で議論した幾何学的錯視は、その典型例であり、だからこそ、心理学を創出した先輩方は、この錯視量の測定を、心理学実習科目の最初に設置したのだと私は考えている。
本書が心理学という学問の特徴を、それこそゼロから考えるきっかけとなることを、著者一同心より願っている。