書評
(有斐閣ストゥディア)
東京学芸大学教育学部教授 浅野智彦〔Asano Tomohiko〕
1 原問題への照準
教科書というのはふつう何らかの「教科」、すなわち通説となった知識の体系に対応するものと考えられている。本書も、例えば副題をみれば「社会学で探る」となっているし、執筆者の顔ぶれも社会学とりわけ教育社会学の専門家であることから、社会学の教科書であるといってもあながち間違いではない。だが本書は、そのような意味での教科書である前に、もう少し読み手の原的な問題意識に照準しているようにも思われる。
人は、日々の生活を送る中でときおり感じる違和感や居心地の悪さ、ぎこちなさのようなものと、あれこれのやりかたで折り合いをつけている。やりすごすというのは中でも最もありふれた折り合いのつけ方であろう。しかし、そのもやもやとしたものを自分と社会との関係の中におきなおして考えてみる、というやり方もこの社会には用意されている。本書が教科書であるとしたら、それはそのような「やり方」を伝えようとしてるという点においてである。
その意味で、本書は社会学を学びたい人のために書かれたものであると同時に(あるいはそれよりも少し手前で)、もやもやを自己と社会との関係においてとらえなおしてみたい人のために書かれたものだ。考えてみれば、人は社会学(あるいは経済学、法律学、政治学等々)を学びたいと思う前にまずはこのもやもやを何とかしたいと願うものではないか。そして個別の学問は、その必要に応えるものとして選び取られるものではないか。そのような原的な問題意識に本書は呼びかけようとしているように思われる。
そのような呼びかけを最もはっきり聞くことが出来るのは、各章の扉に掲げられた素材である。本書を読むかどうか迷っている方には、まずはこの各章扉をざっと眺めてみることをお勧めしたい。その素材がどのように展開されていくのか、少しでも先を読んでみたいと感じた人にとって本書は得るところの大きいものである。
2 生々しさの奥へ
くりかえすが、本書は通念的な意味での教科書ではない。すなわち、ミクロな相互行為からマクロな構造(階層、グローバリゼーション、近代化・脱近代化等々)へといった社会学の慣例にしたがった記述にはなっていない。あるいは、学校教育や(学校教育から労働市場への)移行過程といった主題が扱われているものの、教育社会学の定番の主題が網羅されているわけでもない。具体的に各章の内容を概観してみよう。
第1章「言説」では、ある犯罪者の語りを手がかりに、今日の社会がその内部に生み出す格差、経済や関係における貧困、宛先不明の憎悪などが分析される。第2章「能力」では、学校教育に期待される機能を明らかにすることで、その前提におかれた「能力」の扱いの難しさが示される。第3章「仕事」では、組織と個人との関係を原理的に踏まえた上で日本的雇用システムの成り立ちと失調について分析がなされる。第4章「友だち」では、学校内で結ばれる友人関係の現代的なあり方が検討される。第5章「家族」では、日本の近代化の歴史的に特異な位置付けに言及しながら、家族をめぐって今日生じている様々な問題が、「近代家族」への独特の固執によってもたらされていることが示される。第6章「居場所」では、「居場所」という言葉が「生きづらさ」と結びつく過程をたどりなおしながら、若者の自立支援、社会運動、地元等が居場所との関連で論じられる。第7章「排除」では、「元犯罪者の社会復帰」を主題として、今日の社会がどのような排除の仕組みを備えているのかを明らかにする。第8章「分断」では、戦後日本型循環モデルという見取り図を提起し、そこから今日の社会に走る様々な分断線(性別、地域、階層、等々)を分析する。
このように概観しただけでも、そこで取り扱われている素材がある「生々しさ」を備えていることがうかがわれる。例えば第7章では、執筆者自身が聞き取ったある「元犯罪者」の語りが素材として用いられるのだが、章の終盤で彼のその後を知り読者は強い印象を受けることになるだろう(その内容についてはここではあえて述べない)。その強度を通して、読者は今日の日本社会を貫く排除の機制について生々しく感知し、この執筆者がなぜこの章を書こうとしたのか理解することになる。
同時に大切なのは、その生々しさの奥を見通すことだ。
例えば、第3章の冒頭では、就職差別に関わる事件として有名な「三菱樹脂・高野事件」が取り上げられている。三菱樹脂に就職した後、学生時代に関わった政治活動を理由に解雇を言い渡された高野さんという男性の事例である。今年の夏、安全保障関連法案に反対の声をあげ、国会前に集まった学生たちに向けて「そんなことをしていると就職できなくなるぞ」という恫喝ともいうべき言葉がネット上に溢れたことを考えると、これもまた生々しい素材である。
この事件の判例は、企業が思想信条を理由として採用を拒否(あるいは解雇)することを容認するものだと通常は解されている。そのかぎりで、国会前に集まった学生たちに投げかけられた「恫喝」にはそれなりの根拠があったともいえる。もちろん、後に厚労省が出した通達に依拠してそのような採用拒否を今日では容認されない差別であると解することも可能であるかもしれないが、ここで注目したいのはそこではない。本書が語るのは、この高野さんが13年にわたる裁判闘争の後、三菱樹脂と和解し、同社に復職、部長にまで昇進した後、同社の子会社に常勤顧問として勤務していたという後日談だ。思想信条による就職差別という生々しい問題の奥に、高野さんのようなケースをさえ飲み込みながら貫徹する日本的雇用システムがそこに見通されるのである。
3 矛盾の集約点としての「若者」
「『社会』の全体は不可視である」と編者はいう(21頁)。かつてマルクス主義がそうであったような、社会および歴史の全体を説明し、そこから今なすべきことを明示してくれるような「大きな物語」はもはや存在しない。それでも社会と「出会う」ためには何かの見取り図が必要だ。本書にとってその見取り図は、「半圧縮近代」と「戦後日本型循環モデル」という枠組によって与えられている(第8章)。
近代が1970年代以降に新しい段階に入ったという認識は多くの社会学者に共有されている。近代化において先行した諸社会は、この転換に十分な時間をかけて対応してきた。他方、近代化の最後発群はむしろこの新しい段階をはじめから所与として「近代化」を果たした(圧縮近代)。だが両者の中間に属する日本社会は、その圧倒的な「成功」ゆえに転換のための十分な時間を持てなかった(半圧縮近代)。中間グループであるがゆえに享受してきた「成功」の土台となったのが「戦後日本型循環モデル」である。そしてその過去の「成功」ゆえに、今やこのモデルは桎梏となり、近代の新しい諸条件に対応することを妨げている。第1章、第8章に濃密に書き込まれた閉塞感、無力感、憎悪といったもろもろの負の意識はこのような「立ちすくんでいる状態」(184頁)のうちにこそ胚胎する。
ところで、旧来のモデルと新しい諸条件との間の矛盾は均質に遍在しているのではなく、ある人々、ある領域において集約的に現れる。おそらくそのような人々、領域の1つが「若者」と呼ばれるそれだろう。あるいはこうもいえるかもしれない。日本社会は、次々に露呈する諸矛盾を「若者」という枠組において主題化し、対応しようとしてきた、と。結果として「若者」という枠組はほとんど限界まで拡張されてしまった(政府の施策大綱である『子ども・若者ビジョン』の定義では「若者」はいまや39歳まで含む)。
本書で取り扱われている主題の多くが「若者」に関わるものであるのは、若い読み手が想定されていることや、執筆者の多くが若い世代に属しているという理由だけではないだろう。2章の学校、4章の友だち、5章の家族、6章の居場所、これらはいずれも若者にとってこそ最も身近な主題であり、それゆえにこそ「社会」とその諸矛盾に出会うためのかっこうの入り口となる。
他方でそのような記述ゆえの難しさもある。1章で論じられているように、当の若者が社会についての語りを先取りし、自他の振る舞いをメタ的に語り合い(あるいはその語りを参照しながら自らの行為を組織し)つつ閉塞感を増幅していくという事態がありえるからだ。本書で提供されるような様々な分析もまた、メタ的な語りの素材として陳腐化していくリスクを完全には免れ得ない。しかも、閉塞感の構造的な由来を首尾よく説明すればするほどそうなってしまうかもしれない。例えば、4章で与えられた「友だちのルール」についての鮮やかな説明に得心し、得心したからこそそのルールに準拠して自らの行為を組織し、また語る(それによって「ルール」を再生産する)ということが起こりえる。あるいは5章でみごとに説明された「近代家族」の困難に深く納得し、納得するからこそより懸命に「婚活」に励むということもありえよう。
4 情熱(ストゥディア)
本書が属するシリーズに与えられた名称「ストゥディア」 は、「熱意、情熱、学問、勉学」を意味するのだという(本書扉)。編者の情熱が伝わってくるという点で、本書はこのシリーズの名にふさわしいものといえるだろう。その情熱は、今日の日本社会が決定的な転換点に立っているという認識に結びついている。一方には取り返しのつかないほど悪い状況へと転げ落ちていく可能性、他方には少しずつでもよりよい状況に変わっていく可能性。前者を退け、後者に向かっていこうとする強い志向性が本書を貫く。
編者のこの激しい熱量を敬遠したくなる読み手もいるかもしれないが、読み手の中のもやもやとした原的な問題意識にそれは何かを着実に点火するであろう。