連載・対談
東京大学大学院情報学環教授 北田暁大〔Kitada Akihiro〕
龍谷大学社会学部准教授 岸政彦〔Kishi Masahiko〕
北田 (調査をするのは)社会学者じゃなくていいわけだから。
岸 あ、計量ができたら、それでいいって思われたわけ? なるほど。
北田 そう。でもそれなら、もう一方でルーマンとかハーバーマスみたいな理論の人が、それをちゃんとガードしなきゃいけないはずなんですよ。社会学だからこそできる精度のある調査ってものがある、と。でもあの人たちはまるっきり関心ないし、弟子たちもまるっきり関心ないでしょ。それで、みんな「死」に向かっている。ズーアカンプも――言ってみれば日本なら岩波書店みたいなところですけど――社長が替わって、このままでは「大塚家具」みたいになりかねない……みたいなことが言われてて、ズーアカンプのあの分厚いシリーズだって、なくなる可能性だってある。
岸 それは要するに、そのとき社会学のアイデンティティが、フランクフルト的な社会批判にしか残っていなかったと。
北田 とか、ルーマンみたいな社会理論。そりゃ衰退するわけです。だから、いまの日本の社会学は本当に例外的なんですよ。似てる部分があるとすれば、宮台さんとか、上野千鶴子さん、大澤さんとかを想像して「社会学だな」っていうふうに思われているうちは本は出る、ということぐらい。
岸 なるほど。
北田 世間もそれで「社会学」っていうものがあると思ってるんだよね。むしろ問題は、後ろで動いているもの。後ろというか、調査のように、普通に学問のなかで動いている方向性が、不可視化されている。ドイツの場合は、これがどんどん小っちゃくなっている。アメリカもそう。例外なく縮小している。ものすごい勢いで。前に『現代思想』の「社会学の行方」特集(2014年12月号)に寄稿した議論では「1970年までこんなふうに社会学の学生が増えているんだ」って書きましたけど、じつはオチがあって、そのあとにガクンと減ってるんですね。ポストも講座もどんどん減っている。唯一の「先進国」の例外が日本。日本では社会学はポスト、学生数ともに堅調。これは大学院重点化以降も相対的に見て、よその国の社会学よりはるかに恵まれている。少なくとも縮小の速度が遅い。私立大学なんかでも、社会学は人気があるでしょう?
岸 やっぱり就職率もいいしね。入試にも、人が集まってますからね。だから、人気学部ですよ。
北田 東大の文学部を見ても、全然ポストを減らされてなくて、私のいるところのような、東大のなかの陸の孤島から見ると「いいなあ、いっぱい座布団があって」って羨ましくなる。それは、国際的にみると奇妙な状況で、言われているほどの危機というのには、じつは日本の社会学はまだ接していない。若手はたしかに苦しいでしょう。何しろ、人の数が増えちゃったから、将来、アカポスに就ける率が下がっているという不安感がひとつ。それに、奨学金や研究費など獲れるお金の配分枠がきつくなっている。それでも、大学組織のなかで社会学が例外的に維持されているというのが日本である、という実態がまずあると思います。これは「いい感じ」でおめこぼしに預かっていることなので。
岸 見逃されているだけ?
北田 だと思うよ。だから、本気で「役に立たねえや」っていうふうに思われるのをなんとかごまかさないと。
岸 ちょっとアレですね。見逃されているのか、それともある程度実績を上げているのか。
北田 調査の文脈で?
岸 これは関西の事例なんですけども、社会学者が行政の下請けを担っている、ということもあるんですね。たとえば、一番わかりやすい例でいうと、部落問題です。たとえば、大阪市立大学の社会学教室なんかは、戦前から大阪市社会局の下請けでずっとスラム調査をやってきている。理論も何もないような、住民のカロリーの計算だとか、一人当たりの生活スペースが畳何畳分、とかを見ているような調査なんですけども。そういう調査をずっとやってきていて、戦後も山本登のような、東大で社会学を学んだ研究者も入ってきた。同和問題研究室も立ち上がった。今は人権センターになってますけども。それで、同研ではなく文学部社会学教室ですが、山本登さんが中心になって部落の調査をやっていて、同研の上田一雄さん、そのあとは野口道彦さん、いまでも齊藤直子さんまで続いていますが、基本的に「調査のエコロジー」というか「調査の生態系」みたいなものができあがっている。
北田 なるほど。
岸 こないだからこのあたりのヒアリングをしてるんですけども、たとえばまず行政が同和対策事業をある被差別部落でするために、実態調査をしなければならないと。それで、その予算の一部を大阪市大の同和問題研究室の研究者などで構成された調査チームにおろしてくる。そこで、山本登さんとか野口道彦さんとかが地域の実態調査に入るということですね。ここでそのお金を出すところと、調査地と、それから調査主体。その三角形の「調査のエコロジー」みたいなものがうまくできあがっていて、そのなかで野口道彦さんなんかは、部落の実態調査もするし、同時に一般市民を対象とした、社会心理学的な部落差別意識の調査なんかもやっていて、スマートな多変量解析とか構造分析なんかを持ち込んでたりする。そういう行政とタイアップしたかたちの地元調査とかって、部落だけじゃなくて、たとえば商店街のまちおこしの関連とか、ちょっと前でいうと都市社会学者が全国でスプロール現象がどうのこうのとか、ニュータウンの調査をやっていたりとか、わりとそういう形でやってきている蓄積が、これまでにあると思うんです、全国の大学の社会学科や社会学教室に。
北田 うん。
岸 おそらく、そういう方面について、ほかの国では民間のコンサル業者が委託を受けてやるようになっても、日本の場合は大学の社会学者がやっていた。ある意味でコンサルの代わりに担ってきた蓄積があるので、まだわりと居場所があるのではないかなと。だから、地方の自治体からつく予算の変化を調べると、もしかしたらおもしろいかもしれないですね。どうしても科研費ばかりに目がいってしまうから。
北田 たとえば磯村英一とかは、もともと東京市に勤めていたんですね。それから都立大に赴任する。磯村は都立大で調査の伝統をつくりだした人ですよね。じっさいにあの時期は、膨大な予算を落とす先としては、大学に落とすしかなかったし、調査の継続性を維持するために予算が比較的安定的に供給されていた。いまは大学の運営費交付金をどんどん減額され、調査予算は科研の微々たる枠に申請するしかない。コンサル系の困った調査が広がっていくなかで、調査予算は安定的に組めず、社会学者を賄う人件費は増える気配もない。
岸 研究費とはまた別?
北田 研究費がどういうふうになっているのかっていうのは、もう少し丁寧に考える必要があって、たとえば大学教員が、運営費交付金が減らされたせいで「去年までもらっていた本を買うための60万円が今年20万円になった」とか嘆いてますよね。そんな少額を嘆いていても仕方がないわけですよ。そんな40万円の話で文句を言ったりしても仕方がない。むろん「研究外業務が増えた」というのは文句が出ても仕方がないにしてもね。問題は、科研費以外、地域行政や企業からどれだけ継続的に資金を調達できるのか、ということ。まちおこし系のものとか、地域再生だとかみてると、雑な調査しかできない変なところにお金が流れてる。たとえば、コンサル会社に2,000万出してやらせているところを、大学の社会学者に500万出してくれたら大喜びでやるし、ぜんぜん精度が高いものをやるはずなのに、なんとなく「都合のいいもの」だけをみせてくれる人たちにお任せする、というのが傾向としてあると思う。新聞社の世論調査なんてひどいでしょ。クライアントの意識改革も必要。
岸 うん。
北田 そういうところから、調査のための資金を持続的に引き出せると望ましい。大学にしっかりした学問的自律を委ねたうえで、クライアントにも「役立つ」調査を委託してもらえるようなルートを本気で考えないと。社会学は、行政や国家、資本から自律していなければならない、とか言っていると馬鹿を見ますよ。だったら、運営費交付金ってなんですかっていう話でね。交付金・科研頼みではない資金調達をやっていくためにも、これまでの調査実績をかっちりとプレゼンしていく必要はあると思うんです。
岸 東大なら実績はあるでしょう。
北田 東大の社会学だと、いま一番上は、佐藤健二さんかな。調査系の人は計量の非常にスマートな研究をやられている白波瀬先生みたいな方になる。けれども、蓮見音彦〜似田貝香門的な人がいない。いわゆる農村社会学とか都市社会学の流れを汲んでいる「調査屋」といわれるような人たちです。東京都立大や大阪市立大のような学問的伝統を理解・尊重したうえで、さっき岸さんが言っていた「調査の生態系」のようなものを理解する必要があると思うんです。本だけを相手にしたり、たとえば「17世紀の誰々が……」というような研究だけをやるならば、社会学をやらなくてもいいと思う。それだけ調査というものが社会学の要だということは、これから生き残っていけるかどうかの1つの鍵だと僕は思います。日本は、言い方が悪いけど、コンサルにあまり優秀な人がいなくて助かっている(笑)。だって、アメリカはすごいからね。社会学や政治科学の若い優秀な人材をどんどん引き抜いて雇ってしまうわけですよ。そういうのを防いでどう学問として生き延びていくのか。岸さん頑張って(笑)。
岸 いやいや(笑)
北田 この辺りで最初の岸さんの問いかけに戻りましょう。調査の歴史をどうして調べているのか、という話です。1つは「社会学の本義がそこにある」という格好いい答え。もう1つは、僕は、歴史研究は意外とずっとやってきていて、そのテーマとして単純におもしろい、と。つまりいかなる実践として社会学の調査が立ち上がって、どういう根拠で、どういう社会状況のなかでどういうふうに社会との連接を保ちつつ制度化されたのか。これを見ること自体が、社会をみることになる。調査という近代的な実践の歴史的意味を考えてみたい。基本的に酒井さんも僕も、「調査こそが社会学」というのではなく、そういう社会学という実践の系譜に関心がある。そのさいポイントになるのが、1920年代と40年代にある戦間期のアメリカだと。このときに奇跡的なことがいっぱい起こっている。まず、社会改良運動の流れとその行政への参入、ニューディール、ドイツ知識人たちの亡命。それから第二次移民問題、新移民への偏見・差別。シカゴ大学ができて以降、アメリカ社会学のPh.D.の取得者が全国に拡散し、こうした流れのなかでテーマと資金をみいだしていく。後続のコロンビア大学は、ラジオというニューメディアの効果測定のため、現代にも通じる計量的手法を用いた社会調査の基礎を作っていく。西海岸では、シカゴ亜流のシンボリック相互作用論のような流れが出てきて「数える」のとは違う調査のあり方が構想されていく。そこに、当時のロックフェラーやカーネギーといった財団がどんどんお金を落とす。ニューディールの影響もあって政府からも潤沢な資金が貰えた。さらに2つの大戦があった。第一次大戦では、兵士の適正を測る研究やプロパガンダ研究にお金がおりてきて、第二次大戦期には、士気(モラール)をどうやって高めるかというテーマに資金が投下された。そこで社会学者たちが――本気で士気を高めるつもりがあったかは別として――いろんな分析手法を試すことができた。こうした偶然が重なって社会学が黄金期を迎え、さらに戦後に復員してきた若者たちが大量に大学に入ってくる。「今を時めく」社会学部にも大量の人が入ってきて、1960年代まで栄華を極めたわけです。パーソンズは偉いわけですが、こうした大きな潮流の一端にすぎないともいえる。
こういう制度化がどういうふうに実現したのか。というのも、こんなことができたのって、ほかの国になくて。わりと近いのはフランスだったかもしれないけれど、日本は明らかにそうじゃないし、ドイツは社会調査自体が一度壊滅した状態になってますね。イギリスはそもそもフェビアン協会的な社会調査が強かったから、社会学が調査をやるというシステムはだいぶ遅れをとっていた。そういうわけで、アメリカは相当特殊なんですよ。けれども、そういう特殊なものがいま国際的に一般化している。方法が統制されているし、カリキュラムは組みやすいし、言葉は明瞭だし、変に凝った修辞は使わない。理論と調査の関係も、まず調査を軸に据えてそれから理論をまとめていくというスタイルを貫徹してきた。パーソンズが日本ではやたらと取り上げられるけれど、アメリカ社会学史の調査史を読んでもほとんど出てこない。とにかく、そうした調査の専門職化が1つのポイントになっている。こうした観点からみたとき、官費で賄われる帝国大、公立大を中心とした日本の社会学の事情はだいぶ異なる。
こういう考察は、「調査」分析を通して、「それぞれの国での社会とはなにか」という問いにもつながってるはずで、僕としては、特異な、そしていまグローバル・スタンダードだと言われるアメリカというものの成り立ちの歴史的偶然性を確かめていきたい。その超・偶然のうえに成り立った現代的な社会学っていうもののあり方を考えていきたい。それによって他国との比較とか、これから滅びゆく(のかもしれない)社会学がどう生き延びていけるか、を考えるヒントも得られるかもしれない。僕と酒井さんはともに1920〜30年代から始めているんですが、酒井さんは戦後行動科学のほうへ、僕は第一次大戦より前へどんどん遡行している。趣味の違いだと思うけど、狙いとしては「調査をする」という実践がいかなる社会的な行為だったのか、を考えようという点は共通していると思います。なので、これは、現代の社会学がどうあるべきか/ありうるか、という問いと直結するんです。制度的社会学の表舞台から姿を消した女性たちの社会調査や、黒人研究者の掘り起こしとともに、「社会学が何を忘却したのか」も同時に考えつつ。