自著を語る
『社会を数理で読み解く――不平等とジレンマの構造』
関西学院大学社会学部教授 東京大学名誉教授 盛山和夫〔Seiyama Kazuo〕
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このたび、ほぼ5年越しの作業がようやく実って、『社会を数理で読み解く――不平等とジレンマの構造』を刊行することができた。主として社会学を学ぶ学生を念頭に置いて、さまざまな社会学の諸分野のなかでも、数理社会学という、特異ではあるが触れてみれば必ずや知的な感興を味わうことのできる学問を知ってほしいとの願いを込めて、4人の共著者で編んだテキストである。
ご存じのように、社会学に限らず、人文社会系の学部の学生のほとんどは「数学が苦手」である。むろん、最初からまったく数学が嫌いな学生は、数理社会学の授業を履修することはない。私立大学だと圧倒的多数がそうである。しかしそれでも、半分とはいかないけれども、知的好奇心の旺盛な2、3割の学生は、恐る恐るではあれ数理社会学なるものを学んでみたいという気持ちを抱くものだ。そうした学生に向けて、ぜひとも彼らの期待に応えうるようなテキストを作成したい。そうした思いが、途中、挫折しそうになりながらも、なんとか刊行にまでたどり着くことができた原動力だったように思う。
率直に言って、「数理社会学」という学問分野は広く普及しているわけではないし、世界の社会学のなかで主導的な役割をはたしているとも言えない。おそらく多少とも社会学についての知識のある人であれば、「社会学」という言葉でイメージするのは次の2つのうちのどちらかだろう。1つは、N.ルーマン(社会システム論)、P.ブルデュー(文化的再生産論)、U.ベック(リスク社会論)といった社会学者たちのきわめて「理論的」な仕事である。少し昔を知っている人だと、T.パーソンズ、R.K.マートンなどの名前も思い浮かべるかもしれない。それに対して、もう1つのイメージは、貧困、格差、差別、ジェンダー、エスニシティ、LGBT、介護問題などの社会的排除に関わる問題状況へのさまざまな「実証的」な諸研究で構成されているだろう。これらは今日の社会学的研究の圧倒的多数を占めており、その多くは研究者自身による「現場での社会調査」を基盤にしている。
明らかに、これらのどちらとも、「数理」とはほとんど無縁である。
では、なぜ「数理社会学」なのか。それは、社会学のこの現状は学問として大きな問題を孕んでいるのではないかという感覚と関連している。端的に言って、一方の「理論」的社会学と他方の「実証」的社会学とは、同じ「社会学」を名乗りながらもほとんど隔絶している。言い換えれば、後者の実証的諸研究には、ほとんど「理論」らしきものが存在しない。むろん、「理論的」諸概念はしばしば活用される。たとえば、社会的排除、文化資本、家父長制、創造の共同体、集合的記憶、感情労働、当事者主権……といったさまざまな概念には一定の「理論的な背景と意義」があるのであって、それらが実証的な諸研究を支える基盤的枠組みとして重要な役割をはたしていることは間違いない。
しかしながら、そうした性能にもかかわらず、たとえ「理論的」ではあっても単独の「概念」はある意味でアドホックな性格を免れない。諸概念は相互に孤立しており、その分、諸研究もまたそれぞれの諸概念によって牽引される範囲でしか広がっていかないのである。
数理社会学というのは、こうした社会学の現状を少しでも改善し、社会学にとってより共通性の高い理論的基盤を構築することをめざした1つの学問運動という性格を有している。他の学問運動でもそうかもしれないが、とくに数理社会学には、福音伝道に携わる宣教師にも似た使命感で、社会学という学問を改革したいとの意欲が内在しているのである。もっとも現時点では、残念ながら、おせじにもその企図は成功しているとは言えない。数理社会学のプロジェクトはいまだ道半ばに留まっている。しかし、それでもこの改革運動は続けられるべきであり、そのためにも、後継者を育てるための最も大切な手段として、よいテキストの刊行が必要だと思われたのである。
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数理社会学が社会学改革の使命を抱くのはなぜか。
日常的に数理モデルを活用している学問分野の人には釈迦に説法となるが、そうでない分野の人(多くの社会学研究者を含む)に向けてあえて説明すると、数理モデルというのは数学的な言語を用いてある意味仮想的な世界を組み立てることから成り立っている。仮想的というのは、現象を「忠実に」再現することを目的とするのではなく、現象の「エッセンス」と考えられるものを組み立てようとするからである。何がエッセンスであるかは、むろん研究の問題関心に依存する。数理モデルを組み立てようとする企図に先だって、「解明されることを待っている」経験的な現象が存在する。さまざまな観測を通じて知られているが、なぜそうなのか、どのようにしてそうであるのか、その本質的な構造やメカニズムはどうなっているのかなどが分かっていない、あるいは明確には理解できていないような現象である。そこで、その現象の背後にはなにか論理的な構造が潜んでいるのではないかと想定し、その論理的な構造を数学の言語を用いて明示的に構成してみる。数学の力を利用することで、現象のなかに潜んでいる論理的な構造を取り出し、それを通じて現象についてのより深い理解を得ることができる可能性が開けてくるのである。
むろん、このようにして組み立てられた仮想的世界としての数理モデルは、現実とよく対応していることもあれば、逆に間違っていて大きく乖離していることもある。その判断は、経験的な知見・データによる検証を基盤とする、学問共同体における議論の対象になる。しかし、数理モデルによる現象の説明の試みは、そうした議論自体を含め、当該現象に対する共通の知識を学問共同体で共有し確立していく過程に貢献しうるのである。
すでに述べたように、今日の社会学の圧倒的多数は、社会におけるさまざまな問題状況への実に詳細で精緻を極めた実証的な調査研究からなっている。それらがもたらしている知見には高い発見的な意義を有するものが少なくない。しかし、それらは対象事例の具体的で個別的な問題状況の個性を大切に考えるあまり、より一般的な言葉を用いて、より広い学問共同体における共有の知的財産として構成していこうとする試みに乏しいという傾向がある。数理社会学は、そうした実証的研究と手を携える形で、数理モデルという分析用具を駆使して、解明されるべき経験的な現象に肉薄することをめざしているのである。
そうした観点から、本書は、社会学が日常的に探求のテーマとしている権力、差別、社会的不平等、社会的ジレンマ、協力の条件、相対的剝奪などの問題を中心的にとりあげて、それぞれに関する数理モデルを紹介したり新しく展開したりして、現象に潜む論理的な構造を解明することに資することを企図したのであった。本書の狙いは、たんに数理モデルを紹介することにあるのではなく、まさに、数理モデルを用いることによって、当該の現象についてより深い理解が得られることをデモンストレートすることにあった。
実を言えば、これまでにも数理社会学のテキストはさまざまに刊行されてきた。しかし、われわれの観点からするとそれらにはいくつか問題があった。第1のそして最大の問題は、社会学的探求一般との関連性を考慮することなく、すでに数理モデルとして開発されたものの紹介に重点をおいたり、現象の周辺を数学的に表現しただけに留まったりする傾向があったことである。要するに、単に数学を用いて現象を記述して見せただけという感じで、それでは、社会学を勉強しようとしている学生たちに向けて、数理社会学の意義を伝えることはできない。数理モデルを用いてこそ実際に現象についてのより深い理解が得られて知的関心が満たされる、ということが実証されなければならないのである。
第2の問題は、数理モデルの構築とそこからのさまざまな展開や定理などの導出に関して、必ずしも丁寧で分かり易い記述がなされていないことが多いことである。数理モデルを活用することの「意義」は、モデルがどのような論理や仮定の上に構築されているかを明確に理解し、そこから具体的に数式の展開を追っていきながら、数学的に正しい帰結が導出できることを自ら確認していくことで体得される。テキストとしての説明に、手抜きや曖昧さがあってはいけない。とくに、すでに述べたように、主な受講者である社会学部系の学生のほとんどは、数学が苦手である。少なくとも、一を聞いて十が分かるというわけにはいかない。そのことを前提に考えれば、数式の展開は「高校生にも分かる」ようでなければならない。
以上の2つの点を改善することこそが、われわれの共著においてこれまでの数理社会学のテキストにはない特性としてめざしたポイントであった。
社会的不平等やジレンマの問題に関心を抱く多くの学生が、本書を通じて、そうした問題に潜む論理的な構造のエッセンスを数学的に解明していくことの知的な喜びと意義とを感得してくれればありがたいと思っている。