自著を語る
立教大学経済学部教授 池上岳彦〔Ikegami Takehiko〕
財政の役割と民主主義
なぜ『現代財政を学ぶ』のか。もちろん、公務員志望の学生が採用試験のことを考えて、という例もあるだろう。しかし、大事なのは、あらゆる人が公共サービスを受け、またその財源となる租税を負担している、すなわち財政が国民全体の問題であることだ。
「世の中のルールはどのように決められ、守られるのか」「経済のグローバル化が進むなかで、外国の人々とどう交流していくのか」「道路などを今後どれだけ整備するのか」「貧困に陥った人や病気・怪我に苦しむ人をどのように援助すべきか」「将来世代のことを考えて環境保全にもっと力を入れるべきではないか」等々、課題は尽きない。
それらに対処するために、財政は、国家としてのルールと秩序(政治システム)、家族や地域という共同体的な生活の場(社会システム)、そして財・サービスを生産・分配する場(経済システム)を同時に維持して、国民を1つの社会としてまとめ上げなければならない。これを社会統合という。
ただし、それぞれの国には、いろいろな考えを持ち、利害の異なる人々がいるので、国民の合意をつくりだすのは容易ではない。議会制民主主義をとる諸国でも、性別・納税額・人種などで制限されていた選挙権が、男女平等の普通選挙制へ発展してきたのは、ここ百年ほどの話である。日本では、その選挙権年齢が20歳以上から18歳以上に広げられたばかりだ。これを機会に、選挙権の歴史を振り返り、その重みを考えてみるべきである。
民主主義を財政の面からみてみよう。予算と税制は議会で決定される。国民は選挙をはじめとする政治参加によって、財政上の意思決定に影響を及ぼす。もし国民の多くが「政治家や官僚は勝手に増税し、予算を無駄遣いする」と考えているとすれば、財政民主主義はうまく機能していない。そうならないように、財政に関する議論の「輪」を広げなければならない。
このたび11名に上る気鋭の研究者の参加を得て私が編んだ『現代財政を学ぶ』は、
序 章 現代財政を学ぶ視点(池上岳彦)
第1章 現代財政の課題と特徴(池上岳彦)
第2章 財政思想と財政社会学(赤石孝次・井手英策)
第3章 近現代財政の展開(根岸睦人)
第4章 財政の政策決定過程――予算と税制改革(池上岳彦)
第5章 経費(関口浩)
第6章 租税の理論(関口智)
第7章 税制の国際比較と日本税制(関口智・根岸睦人)
第8章 公債(水上啓吾)
第9章 政府間財政関係(谷達彦)
第10章 日本の地方財政(沼尾波子)
第11章 公企業と財政投融資(木村佳弘)
第12章 社会保障と教育の財政制度(池上岳彦)
第13章 経済政策と財政金融(佐藤滋)
第14章 グローバル化と財政(高端正幸)
終 章 現代社会と財政の課題(池上岳彦)
という構成をとる。
財政学の教科書は、財政政策の制度内容、理論的根拠、歴史的展開などを解説する。通常の場合、そこでは将来展望などは語られない。しかし、あらゆる分野の科学は、真実の探究を基盤として、人類の発展に資することを課題としている。そこで本書の終章では、どのような財政制度・政策が将来へ向けた社会統合に役立つのかを論じ、地域政策、少子高齢化対策、教育・文化政策、経済政策と環境政策の連携、租税国家の再建、世界規模の生存権保障、そして財政の持続可能性を取り上げた。
以下、その一例として、社会保障財政について、あらためて課題をまとめてみたい。
普遍的給付と選別的給付
人は、自分がいつまで生きるか知らないし、老後に寝たきりや認知症になるかもしれない。また、いつどこで怪我をするか、病気になるかわからない。勤めている会社が倒産するかもしれないし、貧困に陥るかもしれない。そのようなとき、人々が生存する権利を保障するために、社会保障制度が整備されてきた。
一方で、所得・資産を問わずに国民すべてを対象とする普遍的給付として、保健医療、保育、介護などのサービス現物給付と年金、雇用保険、休業手当などの現金給付が行われる。国民は「自分も公共サービスの受益者だ」との認識をもてば、租税負担を肯定的にとらえやすい。普遍的給付に対する国民の評価は重要である。
たとえば、国民全体を対象とする公的医療制度が私的医療保険より低コストで運営されれば、家計の負担は低下する。そのようなサービスを支える租税負担であれば、国民の合意を得やすい。また、児童手当(子ども手当)が、貧困世帯の子育て支援策だとすれば、所得制限が設けられるだろう。しかしそれが「子は親の付属物ではなく、子自身が社会で育つ権利をもつ」との趣旨を体現する制度であれば、給付を普遍的に行う論理が成り立つ。
他方で、生活条件の不利な者を対象とする選別的給付による生存権保障と社会参加支援も行われる。貧困世帯に対する生活保護や就労・就学支援などがこれに当たる。とくに「所得・富の格差は、各人の努力だけによるのではなく、むしろ家庭事情、運などによるところが大きい」と国民が思っていれば、「機会の平等」の見地からも再分配は正当化される。
日本では、ときに「生活保護の不正受給」が大きく報道されると、世論は「制度縮小」の方向に流れることがある。実際には「不正」はまれである。逆に、福祉受給資格のある人が利用できないケースもある。福祉制度運営の実態調査を積み重ねることが重要である。
社会保障をめぐる世代間関係
世間には、社会保障制度のうち年金・医療のみを取り上げて「高齢者のために現役・若年層が損をしている」と世代間対立を煽るような議論もみられる。しかし、少し考えればわかるように、世代間移転は双方向で起きている。前世代から後世代への移転は、子育て、教育、小児医療、科学技術・自然環境・交通体系の継承などの形をとる。逆に、後世代から前世代へは、賦課方式年金、高齢者医療・介護などの形で移転が行われる。いずれも社会システム維持には不可欠だ。
長寿化の実現と合計特殊出生率の低下は、先進国に共通する傾向である。それに対して、移民の流入に寛容な政策をとる国では、少子高齢化の傾向は緩和される。 ただし、移民とその子孫が増えれば、社会の民族的・文化的多様性も高まり、その調和をはかる社会サービス・現金給付の増大について国内の合意を保つ必要がある。また、不況に際して若年者の失業率が高まると、高齢者福祉批判や移民排斥の主張にもつながりかねない。そこで、高齢者の生活保障と同時に、子育て支援や教育・雇用対策の充実も課題となる。
なお、相続・贈与による家族内の世代間資産移転は、若年者同士の間の資産格差を拡大させてしまう。さらに、高齢者同士の間の所得・資産格差は大きいことも考慮すれば、所得税・相続税及び贈与税の役割は重要である。
財政民主主義と社会保障改革
本書が重視する財政民主主義の視点からは、社会保障改革について実質的な影響力を持つのは誰か、という問題もある。
確かに「一人一票」の普通選挙権は存在する。しかし、国民すべてが同じように政策決定に関与するわけではない。政策を立案する政府部局、意見を述べる審議会・利益団体のメンバー、そして法律と予算の決定権を持つ議会の議員は、経済的に安定した立場にある者が多い。逆に、失業者や公的扶助受給者あるいはホームレスの人たちは審議会メンバーの中にはみられず、強力な利益団体もない。政治的影響力は「有力者」に集中している。
そこで、ジョン・ロールズが『正義論』で述べたように、すべての人が基本的自由に関する平等な権利を持ち、かつ公正な機会の平等が存在するのであれば、最も恵まれていない人の利益を最優先すべきだ、という「格差原理」が重要になる。さらに、アマルティア・センが「潜在能力」の平等を唱えたように、人種・性別・健康状態・居住環境などを考慮して、各人が良い生活を送る権利・自由の平等を達成することも目標である。
このような考え方が国民の多数意見となるか、またそのための条件は何か、これが財政民主主義の焦点である。さらに、財政政策が国民自身の利益と合致する、との理解があれば、政治システムは安定する。そのために、社会保障及び財政制度・政策の研究と教育の役割はきわめて重要である。
社会保障と「財政健全化」
現代財政の将来を語るとすれば、その持続可能性の議論を避けて通るわけにはいかない。
少子高齢化と家族の分散が進む現在、社会保障の水準を引き下げて家族・地域もしくは個人のリスクを増やす基盤は失われている。それにも拘わらず、家族や市場に過度の期待を抱いて増税を回避すれば、社会保障給付を支える税収を確保できない。とくに、政府に対する国民の不信が強い国では増税への抵抗が強く、財政赤字が急増する。
もちろん、財政が赤字でも、直ちに体制が揺らぐとは限らない。日本はGDPの2倍を超える膨大な政府債務を抱えているが、その9割以上が国内で保有され、また長期金利が抑えられて公債の利払い費が急増しなかったため、現在でも財政危機の実感に乏しい。しかし、少子高齢化と人口減少により貯蓄率は低下し、経常収支黒字も減少しており、公債消化の余力は落ちている。また、金利が上昇すれば、公債利払い費は急増する。現在は日本銀行が国債を大量に購入・保有しているが、インフレ懸念が生じても日銀が財政赤字補てんのために国債を購入し続ければインフレが激化してしまう。そこで「財政健全化」が課題となる。
社会保険の形式を重視する日本の社会保障財政にあっては、社会保険料の引上げが繰り返されてきた。ただし、社会保険料の負担は逆進的である。それに対して租税負担は、所得税・消費税とも先進国のなかでは軽い。そこで増税が課題となる。ただし、消費税率を引き上げるだけでは、財政制度全体を逆進的な方向に導いてしまう。むしろ税制改革は、現代税制の中軸である所得課税に加えて資産課税と消費課税を総合的に拡充して、はじめて「財政健全化」につながる。
最初の問いに立ち帰ろう。なぜ『現代財政を学ぶ』のか。それは、社会を統合する公共サービスと租税のあり方及びその民主主義的な政策決定過程に対する理解を深めて、明日を今日より良くするためだ。