連載
東京大学大学院法学政治学研究科教授 中谷和弘〔Nakatani Kazuhiro〕
ロンドンのメイフェア地区にあるクラリッジズ(Claridge’s)は、「王様お願いします」と電話すると「どちらの王様におつなぎしましょうか」と電話交換士に問い直されたとのエピソードがある最高級ホテルである。ここにはかつて1日だけユーゴスラビア領となった部屋がある。ユーゴスラビア王国の国王ペータル2世(Peter II)は、第二次大戦時には枢軸国の侵入によりロンドンに亡命し、Claridge’sに居住した。1945年7月17日、アレクサンドラ(Alexandra)王妃はClaridge’sの212号室で男児を出産した。このアレクサンダー(Alexander)皇太子がユーゴスラビア国籍を取得できるよう、チャーチル首相は一計を案じ、212号室を同日に限ってユーゴスラビア領とするという「発明」をした。そして、ジョージ4世がそのように宣言した。ギリシャの王女でもあったアレクサンドラ王妃が「ユーゴスラビア領」に入ったのは生涯この1日のみだけであった。212号室は今日ではPrince Alexander Suiteとして一般の宿泊が可能である。
もっともこのような「発明」はこれが初めてという訳ではない。1943年1月19日にオランダのユリアナ(Juliana)王妃はマルグリート(Margriet)王女をオタワの病院で出産したが、これに先立つ1942年12月26日に、カナダ政府は「王妃と生まれてくる子の所在する病室はカナダ領域外である」との布告を発した。オランダは血統主義ゆえ、オランダ国外での出生の場合にもオランダ国籍の取得は可能であったが、カナダは生地主義ゆえ、王女がカナダ国籍も取得することは法的には可能であった。そこで、王女からこの可能性を排除して純粋にオランダ国籍のみを有するようカナダが配慮して、このような宣言がなされたのであった。
領土の「発明」は現代でも存在する。1988年12月に発生したパンナム機爆破事件(リビアが関与した国家テロであった)については、1998年9月18日の英国とオランダの合意により、オランダ・ユトレヒトのZeist元米軍基地内にスコットランド(パンナム機はスコットランド上空で爆破した)の刑事法廷が設置され、国連とリビアの合意によりここにリビア人容疑者2名が移送されて刑事裁判が行われた。「国外」刑事裁判所は異例中の異例だが、関係国が合意すれば不可能ではないことをこの実例は示している。また、国際宇宙ステーションに関しては、宇宙基地協定において「浮かぶ領土」を擬制する方式がとられ、たとえば日本が提供する実験棟「きぼう」内では日本法が適用されている。
ホテルにはしばしば亡命政府がおかれる。オランダは、第二次大戦中はドイツの侵攻に伴い、亡命政府をロンドンのBrown’s Hotelにおいていた。オランダ政府はここから1941年12月10日に日本に対して宣戦布告をした。また、同ホテルではギリシアの王室が1924年から1936年までの12年間、亡命生活を送っていた。1990年8月のイラクによるクウェート侵攻後、クウェート政府は、サウジアラビアのTaifにあるシェラトンホテルを全館借り上げ、またインターコンチネンタルホテルの一部も借りて、亡命政府をおいた。
大使館には時に亡命者が「滞在」する。大使館が亡命者を匿う外交的庇護(diplomatic asylum)は国際法違反となって認められないものの、大使館側に亡命者の身柄を接受国に即時引渡する義務までが生じる訳ではなく、また大使館は不可侵であるため接受国の官憲は勝手に大使館内に入り込むことはできない。そのため、膠着状態となって亡命者の「滞在」が長期に及ぶこともある。
これまで大使館に最も長期間「滞在」したのは、ハンガリーのミンゼンティ(József Mindszenty)枢機卿(1892–1975)であった。ブダペストの米国大使館には、「合衆国政府は、1956年11月4日から1971年9月28日までJoseph Mindszenty枢機卿に避難場所を与えた」とのプレートがある(写真、在ハンガリー米国大使館のホームページから)。1956年10月のハンガリーにおける民主化運動(ハンガリー動乱)の中でミンゼンティ枢機卿は釈放された(彼は共産党に対する反逆罪ゆえ終身刑を宣告され17年間投獄されていた)が、11月4日にソ連軍がハンガリーに侵攻した。身の危険を感じた枢機卿は米国大使館に駆け込み庇護を求めた。その後、ハンガリー政府の許可の下に車でオーストリアに向けて出国するまでの約15年間、彼は米国大使館から一歩も出られなかった。1967年9月から1969年2月までハンガリー駐在の米国大使であったMartin Hillenbrandの回想録 Fragments of Our Time (1998)によると、ウィーンの米国大使館の医師が定期的に枢機卿を診断していたが、大使が常に懸念していたのは、枢機卿の健康が急変した場合にハンガリー政府に医療支援を求めるか否かであった。入院は庇護の終わりを意味するからである。枢機卿は毎週日曜に大使館内でミサを挙行した。また、1969年5月から1973年9月まで米国大使であったAlfred Puhanの回想録 The Cardinal in the Chancery and Other Recollections(1990)によると、1971年の出国に際して(本人の身柄以上に)最ももめたのは、枢機卿が執筆した回想録の草稿の「出国」の扱いについてであった。枢機卿はニクソン大統領に書簡を送って「草稿を安全に管理して出国後に枢機卿に渡す」との書面による保証を求めたが、大統領から返書が来ないことに立腹し、大使による口頭の保証では満足しなかった。Puhan大使は自身の車で草稿をウィーンの米国大使館に運んだ。枢機卿の回想録はMemoirs として1974年に刊行された。枢機卿の母には、3カ月に1回、大使館を訪問して息子に面会することがハンガリー政府によって許可された。母の訪問は1960年2月の死去の前年のクリスマスまで続いた。なお、枢機卿が投獄されていた17年の間には母は計22回枢機卿に面会した。
国際司法裁判所判決があるため国際法の世界ではMindszenty 枢機卿よりも有名な大使館長期「滞在」者は、ペルーのアヤ・デ・ラ・トーレ(Víctor Raúl Haya de la Torre, 1895–1979)である。反体制派のリーダーであった彼は1949年1月に首都リマのコロンビア大使館に庇護を求めて駆け込んだ。彼の大使館「滞在」は1954年4月にメキシコに向けて出国するまで5年余に及んだ。Life 誌(1954年5月3日号)には、My Five-Year Exile in My Own Country と題する本人の手記が写真とともに掲載されている。それによるとペルー当局による嫌がらせとして、夜になるとサーチライトが大使館に向けて照射され、そのような状態で睡眠をとれるようになるまで何日も要した。館外から唯一訪問が許されたのはGuillermo Vale-nciaという理髪師であり、2週間おきに散髪がなされた。
ここで話は脱線するが、非常時の散髪といえば、1923年9月1日の関東大震災発生時に首相臨時代理であった内田康哉(明治・大正・昭和の各時代に外相をつとめた唯一の人物であり、加藤友三郎首相急逝後の10日間は首相臨時代理であった)は、理髪店で散髪中であった。内田の当日の日記には「散髪将ニ髯剃リニ移ラントスルトキ、大地震起ル。暫クシテ店主ノ強請已マサルニ依リ、階下ニ至リ群集ト面談後、広場ニ出テ暫ク待チタルモ、地震収マラズ。ユリ返シノ虞アルニ依リヒゲソリ中止」とある(小林道彦他編『内田康哉関係資料集成 第1巻』2012年)。
「ホテルに生まれ、大使館に暮らす」といえば「甘い生活」(dolce vita)の代名詞のように聞こえるが、現実は厳しく、名画座でのイタリア映画2本立てのように「苦い米」(riso amaro)とセットになっているのかもしれない。大使館での食事ということでつくづく感心したのは、1990–91年の湾岸危機の際に片倉邦雄駐イラク大使が、長期にわたる籠城生活を覚悟して、バグダッド市内のトリ市で金曜毎にニワトリ、ホロホロ鳥、ウズラ、ウサギなどを買ってきて公邸中庭で飼い、自給自足体制を整えたことである(片倉邦雄『人質とともに生きて』)。
メイン・ディッシュの国際法は「苦い」話題に満ちており、せめてデザートだけはと思って「甘そうな」話題を探してきたが、果たして読者のお口に合っただろうか。
それでは私は、「ゴッドファーザー」に登場したシチリアの菓子「カンノーロ」(cannolo)を頂くことにしよう。