連載
失敗は成功の元? ―― ベルリン滞在記
第3回 ベルリンは自転車にやさしい(?)
東京大学社会科学研究所教授 中川淳司〔Nakagawa Junji〕
ベルリンでの通勤手段は自転車と決めていた。ベルリンに限らずヨーロッパの都市は自転車通行のインフラが整っており、快適に走れると聞いていたので、自分も経験してみたかった。東京と同じように自宅と勤務先の研究室を往復する毎日を送るつもりだったので、自転車で通えば運動不足の解消にもなると考えた。到着早々に教務補佐のフローリアン君にお願いして自転車購入につきあってもらった。最初に案内してもらった自転車店で、これはというモデルには1000ユーロ近い値札が付いていた。5か月しか使わないのにと思うとちょっと手が出ない。そこで、フローリアン君がスマホで見つけてくれた中古の自転車店にバスを乗り継いで行ってみた。心身障害者の授産施設を兼ねたその店で手ごろなものが見つかった。いささか古びてはいるが、錆は丁寧に落としてあるし緩みやがたつきもない。変速機もブレーキもちゃんと作動するようによく整備されている。値段は80ユーロ。ヘルメットと後部キャリアに取り付ける大きめの荷物かご、日本ではバイクにしか使わないようなごついチェーン錠(これらはいずれも新品)も買うことにして、〆て130ユーロで愛車を手に入れた。
自転車通勤を始めてみると、確かに快適だった。ほとんどの車道の右側に専用レーンが設けられており、自動車や歩行者をあまり気にしないですいすい走れる。宿舎から研究室までは6キロ。宿舎の最寄り駅と研究室の最寄り駅を4駅で結ぶ地下鉄(Uバーン)3号線の線路にほぼ沿ったルートである。途中緩やかな上りがある。最初は息が上がっていたが、だんだん脚力がついてくるとさして苦にならなくなった。沿道はベルリン南西部郊外の落ち着いた住宅街である。一番気に入ったのはルートのちょうど中間あたりの1キロ余り。豚を放し飼いにした牧草地を右手に見ながら、新緑が映える自転車専用の並木道を全速で走り抜けるのは本当に気持ちがよかった。日に日に緑が濃くなり、春から初夏へと季節が移っていくのが実感できた。6月初めには往きルートの最短記録(12分!)を達成した。平均時速30キロということになる。ちなみに、地下鉄を利用すれば通勤時間は片道25分から30分。自転車通勤は時間の節約にもなった。
しばらくして、気になることが出てきた。専用レーンの左側を自動車が通る。無理な追い越しや幅寄せは決してせず、安全に追い越しができるところまではこちらの速度に合わせてゆっくり走行するのがこちらのドライブマナーである。しかし、必死にこいでもせいぜい時速35キロか40キロの自転車でぞろぞろ後続車を従えて走っていると、だんだん申し訳ない気持ちになってくる。後続車が目に入ったところでこちらがレーン右側に幅寄せして「お先にどうぞ」とやりたいではないか。5月に入り、なじみになった市内プレンツラウアーベルク地区の自転車店でバックミラーを購入し、ハンドルの左右に取り付けた。スピードメーターを兼ねたトリップメーター、LEDの前照灯と尾灯も。こういうチューンアップを自分でするのは苦にならない
ベルリンの春から初夏にかけてはサイクリングに最適な季節だ。日も長いし、暑からず寒からずの気持ちの良い陽気が続く。基本的に平坦な地形なので、都内を走るようにアップダウンで苦労することもほとんどない。週末には市内をあちこち自転車で探索するのが楽しみになった。とはいえ、東京23区よりも広い(891.82平方キロ)ベルリン市内を自転車で縦横に移動するのはいささか骨が折れるし、宿舎や勤務先のあるダーレム地区はベルリン市内中心部からはかなり離れている。そこで、200円足らずの追加料金を払って宿舎や勤務先の最寄りの地下鉄駅から自転車で乗り込み、よく発達した地下鉄や国電(DB)を利用して適当な駅で下車して自転車散歩を楽しむことにした。駅には自転車用のエレベーターが完備されている。車両の妻側の壁には自転車をチェーンでしっかり固定するバーが付いている。こういうインフラは日本では珍しいが、ベルリンではよく利用されていた。帰宅途中の食糧の買出しでも自転車は威力を発揮した。重い買出し荷物も後部キャリアの荷物かごに載せて運べば苦にならない。ときどきは愛車を磨いてたっぷりオイルをくれてやり、タイヤに空気を補充して労をねぎらった。
日本でも自転車はごくありふれた乗り物だが、しばらくすると彼我の違いに気が付いた。1つはサドルの高さである。脚の長さの違いだけではない。競輪選手を思い浮かべてほしい。ペダルが低い位置に来たときに脚をしっかり伸ばし、適度な前傾姿勢でこぐのが一番効率的な走り方なのだ。日本でよく見る、低いサドルにふんぞり返るようにしてこいでいる人はついぞ見かけなかった。道路に障害や段差がほとんどなく、一定の速度でスムースに走れるので、走行中に頻繁に脚を地面に付ける必要がないこともあるのだろう。日本に帰国してしばらくは、街で見かける自転車のサドルの低さが気になって仕方がなかった。乳幼児のキャリアも日本とは違っていた。ベルリンで多かったのはリヤカートだ。乳幼児を乗せたフード付きのカートを自転車の後部に取り付けて引いてゆく。後部キャリアにチャイルドシートを取り付ける日本式のキャリアはまず使われていないようだ。こぎ手の親と乗り手の乳幼児にとってどちらが安全で快適かは明らかだろう。専用レーンをはじめとする自転車走行インフラがよく整備されていればこそである。最大の違いは自転車乗りのマナーだった。ルールを守って正しいレーンを走行し、信号では必ず停まる。日本でよく見かける、歩道を結構な速度で飛ばしてゆく自転車乗り、信号を無視し車道を逆走する自転車乗りにはついに一度も出会わなかった。
こう書いてくると、ベルリンは自転車にやさしく安全な街、自転車乗りにとっての理想郷と思われるかもしれない。実際、自転車が絡む事故はごく少ないようだ。滞在中にただ一度目撃したのは、自転車と歩行者の接触事故だった。日本からの友人を案内してベルリン大聖堂(今年の初めにワイツゼッカー大統領の葬儀が執り行われたベルリンの名所である)を訪問したときのこと。大聖堂脇の歩道を渡る途中で信号が赤に変わり、私たちは歩を速めて渡りきったが、渡りきれなかった歩行者の女性に車道を走ってきた自転車が接触、乗り手の中年男性が避けきれず転倒した。脇見をしていたわけでない。「自分はルールに従って正しく走行していたのであり、ルールを守らなかったあなたが悪い」と彼はまくしたてた(ように思う)。通りすがりのドライバーが「まあまあ、そのくらいにしておけよ」とたしなめて(いたように思う)一件落着した。「何だかなあ。いかにもドイツ人らしい杓子定規だよなあ」というのが同行の友人の感想だった。
ベルリン滞在も終わりに近づいた8月の末に、宿舎でムービングセールをした。愛車には50ユーロの値をプライスリストに書き込んで宿舎の担当者にメールで流してもらったところ、瞬時に買い手が付いた。その後も引き合いが相次いだ。値付けがちょっと安過ぎたようだ。買ってくれたのはイタリアから来ている若い歴史学者だった。「リヤカートを取り付けて愛児を保育園に送迎することにする」とうれしそうに話してくれた。トリップメーターは1000キロに少し足りないところで引き渡して帰国した。
あれから半年。愛車はベルリンの街を元気に走っているだろうか。ベルリンの冬は長く、街を吹く風は冷たい。凍えそうになりながら愛児を保育園に送り届けるパパの姿が目に浮かぶ。