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コラム

比較法国際アカデミーの大会について

慶應義塾大学法務研究科教授 金山直樹〔Kanayama Naoki〕

 それは、私がぎりぎり30代だった頃の話である。星野英一先生からだったと記憶している。ギリシャで開催される比較法国際アカデミーの大会のため、「消滅時効」に関するナショナルレポートを書くように頼まれた。ただし、実際に大会が開かれるギリシャまで行く必要はない、とのことであった。私は妻が初めての子を妊娠中だったので、レポートを提出するに留まったが、学会終了後、ギリシャの大会に行かれた能見善久先生から、「君のレポートは座長を務めたホンディウスに評価されていたよ」とのお褒め(慰め?)の言葉を貰って、素直に嬉しかったことを覚えている。日本の時効法について、他国の研究者と共通の問題意識を持つことができたと思えたからである。私のナショナルレポートは、その後に、時効部会の報告集の中に収められた(Ewoud H. Hondius (ed.), Extinctive Prescription / On the Limitation of Actions: Reports of the XIVth Congress, International Academy of Comparative Law, Kluwer Law International, 1995*)。

 それから、20年余りが経過した昨年の7月、今度はウイーンで開催された本大会に、初めて参加することができた。本大会というのは、近時、4年ごとの大会の間に中間大会が開催されるようになったからである。実際、2年前に台湾で中間大会が開催され、私も「法典」に関するナショナルレポートを書いて参加した。そこで少しは大会の雰囲気が分かったつもりでいたが、今回参加した本大会はやはり違っていた。それとともに、いろいろと考えさせられた。以下において、若干の感想を記して、若い人たちへのアドバイスとするゆえんである。

1 学会

 比較法国際アカデミー(International Academy of Com-parative Law, Académie internationale de droit comparé)は、世界各国の研究者を中心に構成される学会であり、この分野で最大規模の「比較法国際大会」(International Congress of Comparative Law, Congrès international de droit comparé)を4年ごとに開催している。アカデミーの歴史は古く、1924年、オランダのハーグにおいて発足している。それは、同地の常設国際司法裁判所や国際法アカデミーの設立とほぼ同時であり、いずれも、第一次大戦後、国際平和を求める気運の中で誕生したものといえよう。現在、日本では、国内委員会の事務局が東京大学法学部内に置かれており、会長は北村一郎氏、幹事は淺香吉幹氏である。

 比較法国際アカデミーの公用語は、定款上、英語とフランス語である。サイトも、2か国語で表示されるようになっている(http://www.iuscomparatum.org)。もちろん、現在では基本は英語である。実際、学問的議論の90%以上は英語でなされている。しかし、公用語としてのフランス語は不滅である。フランス語は、教養の証として、多くの人がその発言の一部に用いているからである。要するに、学問は英語で、教養はフランス語で、というわけである。

2 大会

 本大会は、1週間開催されるのが通例のようである。今回は、日曜日夕方の開会セレモニーに始まり、土曜日の市庁舎の絢爛豪華なホールで催された──ノーベル賞受賞式後の夜会の法学版ともいうべき──閉会ディナーまでの間、連日、多種多様なテーマに即して報告と議論が展開された。その内容については、紙幅の関係でサイトに譲るほかない(http://www.iuscomparatum.org/141_p_30597/vienna-congress-2014.html)。

 1週間という長丁場なので、毎日参加していれば、自然と他の国からの参加者の顔ぶれも少しずつ覚えてくるので、話しやすくもなる。また、各セッションごとに雰囲気は一変するので、飽きることもない。

 各セッションは、通常、議長と全体報告者が仕切る形になっている。全体報告者は、大会の半年以上前に自分で作成した質問項目を各国のナショナルレポータに送付する。これを受けて、各国のナショナルレポータは自国法の状況についてテクストを作成し、大会の約2か月前までには提出する。全体報告者は、それを踏まえて当日のセッションに臨み、問題に関する総括的な報告をする。ナショナルレポータにも若干の補足的発言が認められるが、これがあまりに過ぎると、各国法の羅列に終始して、議論の時間が十分に取れなくなってしまう危険がある。各ナショナルレポータに敬意を表しながらも、いかにして議論を噛み合わせることができるかは、議長の手腕によるところが大きい。

3 報告

 今回、私は、「法学教育」の部会のナショナルレポータとして、3分ほどの発言が許された。そこで、私は、日本のロースクール制度が、いくつかの英語論文において(しかも、日本人の手によって!)、failureと評されていることに反論を試みて、「現在、既修者70%代の合格率を誇るロースクールも存在しており、そこで学生は安心して試験科目以外のグローバル時代に有用な科目を勉強し、成長している。これは、合格率3%の旧司法試験時代と比べると、量的にも質的にも格段の進歩というべきである。にもかかわらず、これを失敗と評するのはいかがなものか」と述べた。案の定、あるアメリカからの参加者から、司法試験の合格率の低さが日本のロースクールの足を引っ張っているのではないか、という指摘がなされた。それに対しては間髪を入れずに、合格率はロースクールによって異なっており、トップランキングのロースクールであれば、その既修者の合格率は、アメリカの幾つかの州のBar examと余り変わらないので、合格率の低さが理念実現の足かせになっているというのは当たらない、むしろ、外国法科目や英語科目等の非試験科目の充実といった──旧司法試験制度の下ではおよそ考えられない──ポジティブな面に光を当てるべきだ、という趣旨の反論をした。

 国際会議においては、黙っていれば、行為能力はおろか、権利能力さえ否定されかねないのが現実である。私の上記反論については、セッション終了後、見知らぬ2、3の参加者から「君の発言は面白かった」と言われて、自分の存在が何らかの形で認知されたように感じた。セッションに来ていた学会事務局長のバゼドー教授から、大会中に、アカデミーの会員にならないかという誘いを受けたのも、その延長線上かもしれない。

4 課題

 参加者の中には、自分の報告の時だけ会場に来て、それが終わると帰ってしまう人がいる。しかし、それでは余りにもったいない。せっかくの機会であるから、自分の報告以外のセッションにも参加して、「発言すべきことは発言する」、という積極的な態度で臨むべきである。とくに、公費によって大会に来た者には、全参加義務があるというべきではないか(もちろん、別の公務が重なっている場合には、全参加というのは難しいが)。

 また、日本のナショナルレポータは、そもそも大会に来ない人が多い。それぞれ事情はあるだろうが、これほど惜しいことはないと思う。ナショナルレポートを書いたならば、大会に参加する楽しみ(苦しみ?)や充実感は、手ぶらで行く場合とは比べものにならない。大会の現場で、報告の内容について、また、その他のテーマについて、世界の風に吹かれてみるべきである。日本の国内委員会事務局の方でも、ナショナルレポートを依頼する際には、これまでのように、「大会に参加する必要はありません」というのではなく、今後は、「せっかくですから、可能であれば、ぜひ大会にも参加して下さい」とエンカレッジするようにして頂きたいものである。私は、今回大会に参加して、約20年前にギリシャに行かなかったことが本当に悔やまれた。もしあの時、ギリシャに行っていれば、私の研究者人生も、そしてフランス法との接し方も、変わっていたかもしれない。その苦い思いを、ぜひ若い人たちに伝えたい。

5 檄文

 右のような経験を踏まえて、後進の人たちに向けて、以下の檄文を掲げたい。

 英米法を学ぶ者よ、比較法国際アカデミーの大会は君のためにある。そこで、君はグローバル時代の標準語、英語の汎用性を肌で感じとるだろう。日本国内においては、英米法を学ぶ者は、民法の分野では決して多くはない。その意味で、君は日本においては光が十分に当たっていないかもしれない。けれども、比較法国際アカデミーの大会に行けば、事態は逆転する。英語も十分に話せない者を後目に、輝くのは君だ。

 ドイツ法を学ぶ者よ、比較法国際アカデミーの大会は君のためにある。第二次世界大戦の敗戦国ドイツは、戦後はもっぱら学問による世界貢献を国是としてきており、その法学分野における成果が比較法国際アカデミーの大会においても表れている。現在、大会の学問的メインストリームを形作っているのがドイツの学者たちだといってもよいからである。ドイツ人との議論は、セッション中は英語になるだろうが、君はそれ以外の自由時間においてドイツ人と心ゆくまでドイツ語で話すことができる。ドイツ語を話せない参加者を後目に、輝くのは君だ。

 フランス法を学ぶ者よ、比較法国際アカデミーの大会は君のためにある。たしかに、フランス語は、学問的議論をする言語としては地位が低下している。しかし、オープニングセレモニーや各種の挨拶は、そのほとんどすべてが、一部フランス語によってなされている。この部分は、学問的には余り意味を持たないかもしれないが、まぎれもなく大会の重要な要素である。教養ある君であれば、この部分も含めて、大会を100%楽しむことができるだろう。フランス語を解さない参加者を後目に、輝くのは君だ。

 最後に、未だ英仏独のどの言語も不十分な者よ、比較法国際アカデミーの大会は君のためにある。たとえ、外国語が下手でも、大会に参加しさえすれば、世界を自分の目で見ることができるからである。そこで刺激を受けて、今後がんばろうという気持ちになれば十分である。法律に関する外国語は、その国の法律を勉強している者にとっては、マスターするのが極めて容易である。使用する語彙数は限られているし、使用法も法文や判例によって管理されているからである。

6 おわりに

 次回の大会は、アカデミー理事の河野俊行氏の統括の下、2018年3月に福岡において開催される。そこで扱う個別テーマの募集は、今年の6月頃から始まり、11月23日にパリで開催される理事会にて決定される予定である。これまで日本の研究者から提案されたテーマが採択される率は必ずしも高くなかったと聞いている。次回は、地の利もあるのだから、日本発のテーマが多く採択されることを願っている。せっかく、日本で開催されるのだから、とくに若い人にはぜひとも参加して欲しい。グローバル化が進む中、比較法の現状と議論の諸相を体感することは、何ごとにも代えがたい経験になるだろう。

 なお、余り知られていないかもしれないが、アカデミーには法人会員の制度がある。年会費は250ユーロであって、たとえばIBAなどとは比べものにならないくらい安い。私は、グローバル対応を標榜する日本の法学部やロースクールがこぞって会員になれば良いと思う。

 今回のウィーンの大会において、全体報告者としての活躍が光っていたのは、小塚荘一郎および西谷祐子の両氏であった。彼らに続く者が次々に現れることを祈りたい。また、中田邦博、山本敬三、鹿野菜穂子の各氏には、アフターも含めて大変お世話になった。記してお礼申し上げたい。

 

*後に、この補正版を、Recent Developments Regarding Extinctive Prescription in Japan, Himeji International Forum of Law and Politics, no.2, 1995として公表している。

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