連載
東京大学大学院法学政治学研究科教授 中谷和弘〔Nakatani Kazuhiro〕
今回は「ドルチェ(dolce) 国際法」よりも「デセール(dessert) 国際法」と題したほうがよいかもしれないが、フランスにまつわる話題をいくつか。
モナコはフランスとの間に国境を感じさせないほどであるが、1962年には両国間に危機があった(ニコール・キッドマン主演の映画「グレース・オブ・モナコ」でご存知の読者も少なくないかもしれない)。同年1月、モナコのレーニエ3世公は、ラジオ・モンテカルロ(RMC)のパリ証券取引所での株取引を停止することによって、フランスの国営企業によるRMC買収(RMCは北アフリカ在住のフランス人への放送手段としても価値の高い企業であった)を防衛しようとした。ドゴール大統領はこれに激怒して撤回を求めたが、レーニエ公は応じなかった。ドゴールはまた、裕福なフランス人やフランス企業が「フランスから逃れて」租税回避地(tax haven) であるモナコに資産を移していることにも激怒した。フランスは、モナコによるRMC買収阻止とtax havenが、1918年に両国間で締結されたパリ条約1条の「モナコ政府は、主権の権利の行使にあたっては、フランスの政治的・軍事的・経済的利益に完全に合致して行動することを約束する」という規定に反するとした。3月には、ドゴールは1951年に両国間で締結された相隣及び相互行政支援協定をフランスに有利に改訂することを要求し、4月には「フランスに協力しなければ6カ月後にモナコ国境を封鎖する」旨の警告を発した。レーニエはドゴールの要求を拒否し、国際裁判への提訴の可能性も検討したようである。10月12日夜には、フランスの税関吏がモナコ国境に集結し、モナコに出入りするすべての車輌を停止させてパスポートをチェックする措置をとり始めた。さらにモナコへの電気と水道の供給の停止をするとの威嚇もなされたようである。ジェームズ・スパダ『グレース・ケリー』(仙名紀訳)によると、全く信じられないことだが、「モナコでは、フランスの軍艦が港を砲撃してくるだの、ドゴールが反抗的なモナコを核爆弾によって抹殺したがっているなどといった、恐ろしい噂が広まった」。1963年5月18日、両国の合意によりこの危機は終了した。RMC買収阻止は撤回され、両国間の財政協定では7条において、「モナコにいるフランス人・企業は、1962年10月12日の時点で5年以上モナコに常在していることを証明できない場合には、フランス所在のフランス人・企業と同様の条件でフランスの課税対象となる」と規定し、また2条1項では、「モナコ国外での売上高が25%以上となるモナコ企業にはフランスと同率の法人税が課される」と規定した。もはやモナコはフランスの企業や富裕層にとっては魅力的なtax havenではなくなった。
「フランスから逃れて」をめぐる興味深い国際判決として、2007年のユーロトンネル事件仲裁判決がある。英仏両政府による国際共同事業として、ドーバー海峡に鉄道用のユーロトンネルが建設されることになり、ユーロトンネル・グループの2社が実際の建設と運営にあたった。ユーロトンネルは1994年5月に開通し、同年11月にはユーロスターが開業したが、1999年にフランス政府はトンネルのフランス側入口の近くのSangatteに不法滞在者収容施設を設置し、イラク、アフガニスタン、イラン、コソボ、クルド等から逃れてきた者を収容した。同年末から同施設に所在する不法移民が施設から脱出して隠れて列車に乗り込んで英国を目指すという事件が多発し(2001年夏には月間1万件)、列車の運行には支障が生じ、両社には多額の損害が生じた。両社は英仏両政府とのコンセッション協定に基づき両政府に損害賠償を求めて提訴した。判決では、両政府はコンセッション協定に違反する(協定では「両政府は不要なコスト及び遅延の回避を含む事業者の合理的な商業目的に妥当な考慮を払う」旨、規定していた)として両社の請求を認めた(賠償額は事後の判決で定めるとした)。英仏両政府が共同敗訴したという点で画期的な(?)判決であった。ユーロトンネル・グループ側の代理人をつとめた英国のHerbert Smith法律事務所はlandmark arbitrationだと表現する。この判決に基づき、フランス政府はユーロトンネル・グループに2400万ユーロを、英国政府は同グループに800万ユーロを支払うことで、合意に達した。トンネルの近くにこのような施設を設置したこと自体がこのような事態の発生に寄与したことは否定できず、フランス政府が責任を負うことは自然に理解できるが、英国政府も責任を負うことになったのは、端的に言えばユーロトンネルという国際共同事業に関与したためであった。この判決からは、「先端科学技術等の国際共同事業の実施においては、分割責任を徹底させる特段の合意がない限りは、他の参加国に懸念すべき事項があれば積極的に口出しして改善させないけない。そうしないと、結局自国にツケの一部が回って来てしまうのでご注意を」という教訓が引き出され得る。
次に、「フランスに逃れて」の方だが、Merhan Karimi Nasseriというイラン人はフランス入国もトランジットも認められず、パリのシャルル・ドゴール空港に1988年8月から2007年1月まで住み着いた。彼はトム・ハンクス主演の映画「ターミナル」のモデルだとされる。自らをSir Alfred Mehranと名乗り、『ターミナルマン』という著書もあるNasseriは、イランで反政府運動に関与したとして拷問を受けた後に国外追放されたと主張し、紆余曲折の末、ベルギーで難民認定されて居住していた。その後、英国への移住を希望してベルギーを出国したが、難民認定書を喪失し、身分証明がなされないとの理由で英国入国を拒否されたためフランスに向かい、長期空港生活者となったようである。さらなる紆余曲折の末、彼は2006年夏に健康を害して空港内の病院に入院した後、2007年1月に空港を出て福祉施設に入った。難民にはどこかの国で確実に受け入れてもらえるという現実の保証はなく、このケースは国際法における個人の地位の脆弱さを象徴するものでもあったといえよう。世界人権宣言14条1項「全ての者は、迫害からの庇護を他国に求め、かつ享受する権利を有する」は彼にはどう映ったのであろうか。
もう1つの「フランスに逃れて」は、レインボー・ウォーリア号事件である。1985年7月、フランスの南太平洋での核実験に抗議していた国際環境保護団体グリーンピースの船舶がニュージーランドのオークランド港に停泊中に爆破された。フランス対外諜報機関(DGSE)の女性大尉及び男性少佐が容疑者として身柄を確保され、フランスのファビウス首相が事件へのフランスの関与を認めた。ニュージーランドでの禁固10年の有罪判決の後、経済的圧力を背景に2名の引渡を求めるフランスとニュージーランドの間でこの問題を国連事務総長の裁定に委ねることで両国は合意した。1986年7月、デクエヤル国連事務総長は2名を仏領ポリネシアのHao島に3年間「島流し」にすることを決定した。しかしながら、3年の刑期を終えないまま、女性大尉は妊娠(彼女の夫は「島流し」への同行を認められていた)及び父親の危篤を理由として、男性少佐は健康状態悪化ゆえの検査・治療を理由として、「フランス本土に逃れて」来てしまい、Hao島には戻らなかった。ニュージーランドは国連事務総長裁定の不履行を理由としてフランスを国際仲裁に訴えた。1990年4月の仲裁判決では、妊娠や親の危篤や病気といった純粋に個人的事項が国家の国際法上の義務不履行を正当化する違法性阻却事由(不可抗力、遭難、緊急状態)に該当するか否かが検討され、結果として各事由の要件を満たさないとされ、フランスの国際法違反が認定された。何か現実離れした、模擬裁判の問題みたいな(?)、不思議なケースである。
最後に、日本政府及び東京市(都)が「フランスから逃れられなくて」難渋した2つの事件について。帝国政府四分公債事件及び東京市五分公債事件がそれであり、いずれも第一次大戦後のフランス・フランの暴落を背景とするものであった。前者は、1910年に日本政府がフランスで起債した公債の償還額をめぐる事件であり、「258フランにつき100金円」で元利払するとの記載が金約款である(フランスの公債保有者の主張)か否(日本政府の主張)かという対立が第二次大戦後まで尾を引いた。結局、Nils von Steyernが調停人となって1955年3月に500フラン額面当たり12倍の返済を勧告した。後者については、1911年に東京市がフラン債を発行し、そこには「400万ポンドに相当する1億88万フラン」との記載があった。第一次世界大戦後にフランはポンドに対して暴落した。フランスの破棄院は1933年に「ポンド相当額で支払え」との判決を出したが、これに対して日本の大審院は1934年に「支払時のフラン価値で支払えばよい」との判決を出した。1939年に日仏間で和協協定が成立したが、第二次大戦ゆえに履行されなかった。戦後、フランスの公債保有者達は、協定の無効を主張した。この問題は結局、世界銀行総裁Eugene Blackによる調停に委ねられることになった。Blackは1960年4月に500フラン額面当たり252.57新フランの支払を勧告し、これに従った解決がなされた。今日では両事件は忘れられてしまったが、日本の政府及び自治体が当事者として関与した国際問題について調停(conciliation) がなされたケースとしても注目されるものである。