書評
『現代日本の「社会の心」――計量社会意識論』
「社会の心」のココロとは
東京大学大学院総合文化研究科教授 佐藤俊樹〔Sato Toshiki〕
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社会学者をやっていると、必ず聞く悪口がある。「社会学って役に立たない」「社会学が良い社会をつくれるわけじゃない」「やれるのはデータを調べるくらい」。
たしかに、目に見えて「役に立つ」とはいいにくい。社会学者に社会をつくらせたら、トンデモナイものができそうだ。けれども「データを調べるだけ」と言われると、とても変な気がする。まるで石ころのように、データが転がっているみたいだからだ。
もちろん、意図的にそう見せているものもある。TVや新聞が「緊急調査!」と銘打ってニュース代わりに使うものなどは、良い例だろう。「安倍内閣を支持しますか支持しませんか」「原発再稼動に賛成ですか反対ですか」。ときどきの話題や事件に絡ませて賛否をきけば、答えは返ってくる。おかげで、世論を「棒グラフや円グラフで表しうるソリッドな意見の塊」(本書4頁)のように思っている人も少なくない。
でも、もしあなた自身がきかれたらどうだろう? 「賛成」にも「反対」にもいろんな意味がある。「ここは賛成、あそこは反対」もめずらしくない。2、3文字の言葉でも、いやだからこそ、人それぞれに意味がある。それが人間の心というものだろう。
世論や社会意識の調査は、それらを集めたものにあたる。その集計結果をさらに、語る人と眺める人が自分なりの賛成と反対の意味で、つまり自分の心のフィルターを通じて解釈しているわけだ。
だとすれば、それは一体何を語っていることになるのだろうか。調査をやったり結果を読んだりすれば、誰もが1度は抱き、そして忘れていく、そんな疑問。本書が答えようとしているのは、まさにその問いである。
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ただし、とりあげた質問は内閣支持でも原発再稼働でもない。もっと軽くて、かつ重いものだ。「世の人々はしばしば自分を上や中や下だと語りますが、あなた自身はどこにいると思われますか」。専門的には階層帰属意識と呼ばれる質問項目である。
階層帰属意識は一見わかりやすい。だから世の中的にも話題になる。「日本は総中流社会だ」「いやそうじゃない」といった議論でも、よくひきあいに出される。
ところが、階層研究の専門家の間では、実は人気がない。むしろ敬遠されてきたといっていい。
意外に思うかもしれない。でも例えば、もしこの質問への「上/中/下」の回答で階層や格差が大体わかるならば、学歴や職業や収入や資産や人間関係を細かくきく必要は少なくとも半減する。苦労して調査する意義が疑わしくなるのだ。
もっと厄介なことがある。この「上/中/下」は、学歴や職業や収入や資産などからあまり説明できないのだ。重回帰分析という手法で関連度を測っても、ほぼ半分ぐらい。もちろんだからこそ、それぞれ質問してきたわけだが、裏返せば、学歴や職業や収入や資産って何なの? 上/中/下って何なの? という気になる。
要するに、真面目に考えれば考えるほど、そこで一体何を調べているのかという問いをつきつけられる。いうまでもなく、そこには最初に述べた、あの「心」が深く関わっている。忘れたはずの「心」の問題を、鋭利な刃のように、喉元に突きつけられるのだ。
そんな階層帰属意識を、専門家のなかでも専門家といえる著者が、徹底的に真面目に考えてみた。そしてそれを通じて、世論や社会を調べるとは何なのか、自分自身に問いかけた。一言でいえば、そういう本である。
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目次の構成にそって、もう少し紹介していこう。
序章は、著者の考える「社会の心」を測る=計量社会意識論の立ち位置が述べられる。短いが、とても重要な文章だ。ここだけでも定価に見あう価値がある。
経験的データにもとづく社会学がどんなものかが、簡潔に描き出されているだけでない。世の中で思われている「社会学」像と実態のちがい、いわば社会学の他画像と自画像のずれも、短い言葉で、あざやかに浮彫りにされる。「論客たちが、特段の理念も理論もなく
第Ⅰ部は社会意識論の系譜をたどる。第1章は主に戦後の研究の流れ、第2章は現代の、特に計量での展開だ。少し専門的なので、とっつきにくいかもしれないが、私自身は1番面白く読んだ。
特に、第1章の実現しなかった社会意識論の可能性の1つが示されているところは、いろいろ考えさせられた。たしかに、社会意識論は1980年代以降「空白の時代を迎える」(32頁)。何が起こったのか? 著者もいくつか推測しているが、もしかすると気づいていないかもしれない事実を1つ指摘しておこう。高橋徹教授の退官である。東京大学の「本郷学派」と「駒場学派」の乖離(42頁)も、これが大きなきっかけだった。
実は高橋徹自身も、城戸浩太郎と社会意識研究会を立ち上げた頃の回顧を書いている(私の指導教員の指導教員にあたる方なのだが、学術書の書評なのであえて敬称は省略させていただく)。戦前からの“social psychology”研究の系譜も、彼によってまとめられている。私の知る範囲では、著者と1番近い問題意識をもっていた人だと思う。そのお名前が全く出てこないのは、無理からぬこととはいえ、少しさびしい気がした。
第2章では、現代における社会調査や計量分析の位置づけが論じられる。この章で特に魅力的なのは、著者が位置づけに使う図式や言葉だ。構造と意識、時代性と階層性、演繹と帰納といった
第Ⅱ部では、日本で10年に1度実施されているSSM(社会階層と移動)全国調査のデータなどをもとに、階層帰属意識の具体的な変遷が分析され、説明が試みられる。先に述べたように、世の中的にも話題になるテーマなので、幅広い読者が興味をもてるのではないか。学術研究としても1番読み応えのある部分だ。
そして、もちろん本書の題名でもある「社会の心」が正面から取り上げられる部分でもある。「上/中/下」がどのように答えられてきたのか。それぞれの時期の、それぞれの回答の意味を勝手にきめつけるのではなく、そう答えた人々の「心」のしくみを、計量データとの整合性を保ちつつ、著者は推測していく。
第Ⅲ部ではその応用的なひろがりが描かれ、終章では本書の思考の軌跡が簡潔にまとめ直される。図解も楽しくてわかりやすい。学術的にはかなり高度でハードな議論も少なくないので、図を見ながら少しずつ読み進めていくのがよいだろう。
結論として提示される「社会の心」のしくみがどんなものかは、あえて省略する。そこはやはり読者が自分自身の目で、予断なく、読んでほしい。ただ、著者の仮説は説得的だと、今のところ私は考えている。実はなかで、私自身の論考も批判されているのだけれども。
ここではむしろ、その結論にいたる「前」と「後」について、ぜひふれておきたい。
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「前」というのは、調査データがどのように出現してくるかのプロセスだ。この点は特に踏み込んで、率直に書かれている。例えば、過去のSSM調査では「中」または「中流」かどうかを訊ねる質問の形式が、各調査年でちがっていた(110〜4頁)。
初めて知る方には衝撃的かもしれない。日本語圏の社会学の計量調査で、SSMは1つの範型になってきたからだ。けれども、これが事実なのである。調査は滅菌された実験室とはちがう。いわゆる統計的誤差、すなわち統計学的な検定や推定で制御できる誤差以外の、ぶれや歪みや偏りを免れない。
そこから引き出される教訓は2つある。
1つは、だからこそ、できるだけそれらを小さくする必要がある。標本抽出の方法、調査票の配布の仕方、質問の文面と配置、調査員への指示……。継続的に実施される調査では、これらをできるだけ変えないのが望ましい。最近公表されたNHKの「日本人の意識」第9回調査(2013年実施)の回答と回答率をみても、やはりそれが正解だったようだ。
もう1つは、だからといって、調査しないのは1番愚かだ。世論は決して「ソリッドな塊」ではないし、測定には「天使の分け前」がつきまとう。でもTVや映画、ベストセラーの書籍、さらには身近な出来事から、現代社会を診断したり分析したりするよりは、適切に実施された調査の方がやはり信頼性は高い。「
そういう、ある意味で最も基本的で最も大事なことを、本書は明確に教えてくれる。そして、それはそのまま「後」の話にもつながる。
最初に述べたように、本当は、データは自分では何も語らない。データに語らせているのは、分析する人間の「心」であり、解釈である。だから、やはり統計学的には制御できないずれや偏りが、必ずつきまとう。それらを無視するのは愚かだ。でも、それらを怖がって解釈しないのは、すなわち「ソリッドな意見の塊」のようにあつかうのは、もっと愚かである。
なぜなら、そうやって逃げても、何も変わらないからだ。その結果を読んだ人たちが、自分の「心」で勝手に解釈する。そうならないケースはただ1つ、他人の興味を全くひかなかったときだけだ。そんな調査はお金と時間の無駄である。
社会調査の報告や分析は、真空のなかで行われているわけではない。その報告や分析がさらに他の人々に読まれ、受け取られ、解釈されて、影響をあたえていく。そうした社会的なプロセスの内部に、つねにすでに巻き込まれている。終章でも述べられているが、現在の社会学ではこれを「再帰的な社会」と呼ぶ。専門的な学術調査にかぎらず、私たちは自分たちの社会を日々観察し解釈し、その結果をふまえて社会を運営している。
本書のもう1つ重要な主張の柱であり、貢献でもある論点がそこにある。そうした再帰的な解釈のプロセスを、ぶれや歪みや、あるいは素人の誤解として片付けない。そのなかで、社会学の計量調査とその分析はどうあるべきか、どうあるのがより良いかを著者は真面目に考えて、書いている。「社会」と「心」という、日常的な、でもふだんはあまり出会わない2つの言葉を題名にもってきたのは、そんな理由もあったのではないか。
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そういう意味では、本書は純粋な学術研究であるとともに、社会的な実践でもある。社会の調査とその分析は、再帰的な社会の解釈のプロセスにつねにすでに巻き込まれている。そのなかで調査をする人間、その結果を読む人間は何をすべきか、何が求められているのかを考えて、そして実行したものとして。
言葉でそれが簡潔に表現されているのは序章だが、第Ⅱ部と第Ⅲ部の具体的な分析ももちろん不可欠な一部になっている。さまざまなゆれや偏り、調査以外のデータなどの材料や論点を、1つ1つ慎重に検討しながら、「社会の心」の軌跡を1つの仮説として描き出す。できれば描かれた内容だけでなく、描く手つきや距離感も大事に読んでほしい。
私の理解が正しければ、具体的な分析以上に、そこから学べるものは多いはずだ。データに寄りかからず、でも決して離れずに、データから「社会の心」の全体像を解釈し再構成していく。それは知識と訓練を必要とする熟練の技だが、同時に、再帰的な社会を生きる現代の私たち全てが、より良い社会を生きていくために、程度の差こそあれ、身につけなければならない智恵でもある。
そういう意味では、社会学は「役に立つ」。「良い社会をつくれる」。「データを調べる」ことで、そしてその結果を専門家にも、そうでない人々にも、見せてそして考えてもらうことによって。
それこそが、著者の掲げる計量社会意識論の1番大切な技であり、「心」なのではなかろうか。読み終わって、そんな風に私には思えた。