コラム
京都大学名誉教授 前田達明〔Maeda Tatsuaki〕
第1 本稿の目的
(一)近時、本誌631号・632号に「権威への挑戦」と題して、主張責任と証明責任(1)について拙見を申し述べさせていただいたところ、早速、恩師であり最高裁判事を務められ現在は学士院会員でいらっしゃり、文字通り「権威」のお一人である奥田昌道先生から反論をいただく光栄に浴した(本誌634号30頁)。
(二)奥田先生との出会いは、学生時代に先生の初講義に参加させていただいたことに始まり、京都大学法学部助手になって以来、今日にいたるまで、公私にわたって常に御助力いただいている。
この師恩に報いるには、奥田先生の玉稿に対して、拙見を申し上げる以外にはないと考え、ここに再度、筆を執り、本誌に誌面の提供をお願いした次第である。以下、奥田先生のお考えを「奥田説」、拙見を「前田説」として、検討を行う。
第2 奥田説の概要
(一)司法研修所が証明責任と主張責任とは同一当事者に帰属するはずのものである、という根拠として、奥田説によれば「事実を主張する者がその事実の存在を証明しなければならない。もし証明できなければ彼は『嘘つき』ないしは無責任な人間とみなされる」のである、「つまり、各人は自分の言葉に責任を持たなければならないのである。これが基本である」、そして、「無い」ことは証明が困難であることが多く、むしろ、「在る」と言う側に証明させるのが適切なことが多い、そこで、「法律上も、主張することはできても証明することが困難もしくは不可能なことについては、『主張する』ことをも免除しているものと考えられないだろうか(法は不可能なことを強いるものではないから)」、とされる(本誌634号31頁)。
(二)その顕著な例として、民法第415条の「履行をしない」とか、あるいは、自己の債務が不作為である場合(不作為債務を負う)、その履行を証明することは困難なことが多いと思われる。例えば、隣家の息子の受験勉強期間の2週間の間、私(X)がピアノを弾かないこと、その謝礼として金○○円をもらうという契約を結んだ。そして、金○○円を支払えと請求するとき、2週間の間ピアノを弾かなかったということ、すなわち、自己の不作為債務を履行したことの証明は不可能ないし困難であろう。だから、不作為債務者(X)は、契約の締結と受験勉強期間の経過したことを主張・証明すれば足りる、何月何日何時から何月何日何時までピアノの音が聞こえたという不作為債務の不履行事実の主張・証明は相手方(Y)にさせるのが適切である、とされる。すなわち、「履行をしない」とか不作為債務者が自己の不作為の証明は不可能ないし困難であるために、その不履行については相手方が主張・証明責任を負う、とされるのである(本誌634号32頁)。
第3 司法研修所の見解
(一)まず、司法研修所の見解として、「主張責任」とは法律効果発生(民法第415条の場合は損害賠償請求権)のために法律が定めた法律要件(民法第415条の場合は“債務者が債務の本旨に従った履行をしない”)に該当する事実(要件事実)を主張しないと「不存在」とされて法律効果が発生しないという「不利益」、「証明責任」とは要件事実の真偽(存否)が争われ真偽(存否)不明に終ったときは(2)「偽(否)」とされて法律効果が発生しないという「不利益」(本誌631号60頁)であり、それを「不利益」とするのは法律効果発生を望む当事者であるから、両責任(不利益)を負うのは、その者であり、したがって、両責任の所在が一致する(両責任が同一人に帰属する)のは両責任の概念から導き出される当然の帰結である、とする(司法研修所『増補 民事訴訟における要件事実 第1巻』(1985年。法曹会)[以下、司研・前掲書という]21頁)。このように司法研修所の立場は“うそをついてはいけない”ということには、まったく言及せず、この「徳目」とは無関係なのである。
(二)次に不作為債務については、確かに、司法研修所も、かつて債務不履行(民法第415条)について、その債務不履行の主張・証明は、債権者でなく、「逆に債務者が履行(あるいは提供)の事実を主張・証明すべきもの」とし、「ただ、不作為債権の場合は、不作為の状態が続くかぎり債務は履行されているのであるから、不履行の事実は債権者が主張・証明しなければならない」としていた(司法研修所民事教官室編『民事訴訟における要件事実について』[1977年。司法研修所]42頁)。しかし、現在は「その立証の難易などが総合的に考慮されなければならない」(司研・前掲書11頁)としながらも、右のような説明は消えて、履行の有無については「本来、履行すなわち弁済が債務消滅原因であることからみて、履行遅滞の発生要件とすべきでなく」「弁済の提供」(民法第492条参照)を抗弁とみるべきである、とする(3)。
他に、現在、司法研修所の見解として主張責任や証明責任について作為債務と不作為債務において差がある、ということは、浅学にして、聞いたことがない。
以上、いずれにしても、奥田説は司法研修所の見解を擁護するものではない。
第4 奥田説と前田説の関係
(一)奥田説のいわれる“嘘をついてはいけない”ということは、洋の古今東西を問わず、最大の徳目の一である。例えば、仏教の「徳目」である八正道(4)の1つに「正語」(5)といって、“正しいことば”(嘘、粗暴なことば、中傷の悪口、くだらないおしゃべりという4つを断つ)を求めているし(6)、ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教(7)の「徳目」である「モーセ(前13世紀頃)の十戒」でも「隣人に対して偽証してはならない(Du sollst nicht falsches Zeugnis reden wider deinen Nächsten)」とされている(出エジプト記20章16節)(8)。さらに、儒教の聖典「論語」にも「子以四教。文・行・忠・信」(孔子は4つのことを教えた。古典の講義、行[徳の実践]、忠[心の持ち方。誠実]、信)(述而第7 172)とあり、「信」すなわち「他人を欺かない信義のまこと」を孔子は教えた(9)と説かれている。「信」とは「人」と「口」と「辛」から成り、“発言にうそがあれば入墨刑を受けることを誓う”様子を表し、そこから、“まこと”という意味になり、さらに、“信じる”という意味になった、とされている(10)。勿論、前田説も、それに賛同するものである。しかし、それは、司法研修所のいう「証明責任」ではなく、自己の主張する事実が真(存在)であると証明すべき責任、すなわち、民訴学界にいう「主観的」証明責任である。これについて、通説は、次のように述べている。各当事者は自己に有利な裁判を受けるためには、真偽不明になれば自己に不利に判断される事実(証明責任を負う事実)について、各自がこれを証明しなければならない立場に立たされる、そして、この不利益を免れるために事実を証明しなければならない負担ないし行為責任が「主観的」証明責任なのである、というのである。この説明から明らかなように、通説は”事実を証明しなければならない負担ないし行為責任、すなわち「主観的」証明責任は証明責任から派生する(三木ほか・前掲書261頁)と把握している。この点、前田説は、この「主観的」証明責任を民事訴訴訟法第2条を法的根拠とする(11)「真実義務」に根拠を求める。すなわち、弁論主義は、当事者に自己の認識に反して虚偽の事実、証拠を提出する自由まで認めているわけではない、言い換えれば、「当事者は自己が真実に反すると知りながら、事実を主張したり証拠を申し出ることは許されない」、このような当事者の訴訟上の義務を「真実義務」という(中野ほか・前掲書208頁)。
このように、通説は「主観的」証明責任の根拠を当事者の“訴訟に勝ちたい”という功利主義に求めているが、前田説は徳目の1つである“うそをついてはいけない”を法的に表現した民事訴訟法第2条を根拠とするものである。いずれの立論が妥当かは、読者諸賢の判断に委ねたい。
このように、前田説においては、主張責任と「主観的」証明責任の所在が一致する。
(二)奥田説のいわれる「証明の容易」な方に証明責任を負わせるということは、前田説も賛同するところである(本誌632号46頁)。そして、憲法第14条第1項に基づく民訴法第2条の「公平」に基づくものといえよう(12)。
以上、いずれも、奥田説は前田説を擁護するものである。
恩師とは、いくつになっても、有り難いものである。
(1)証明責任というのはドイツ語のBeweislastの訳語で、挙証責任、立証責任などとも訳されている。むしろ証明(結果)の負担というほうが適切であろうが、本稿では証明責任に統一する。
(2)そのような事態が発生するのは「当事者の努力や裁判所の努力に限界があり」(新堂幸司『新民事訴訟法 第5版』[2011年。弘文堂]602頁)、「事実の認識手段ないし能力に限界」(中野貞一郎ほか編『新民事訴訟法講義 第2版補訂2版』[2008年。有斐閣]365頁)があり、当事者と裁判所が最大の努力を尽しても「裁判所が心証形成できない場合がある」からである(三木浩一ほか『民事訴訟法』[2013年。有斐閣]258頁)。
(3)司研・前掲書22頁。司法研修所の教官も務められた練達の裁判官の御教示によれば、実務の立場と考えられるのは、請求原因として、①XとYの契約の締結、②Xはピアノを弾かなかった、③2週間の経過、であり、Yの「Xは何時にピアノを弾いた」というのは積極否認である、とのことである。なお、ドイツにおける通説は、ドイツ民法第345条が“債務不履行に基づく違約金請求について不作為債務のときは債権者が不履行を証明すべき”とし、ドイツ民法第358条が“債務不履行に基づく解除権について不作為債務のときは債権者が不履行を証明すべき”としているのを類推解釈し(倉田卓次訳『ローゼンベルク 証明責任 全訂版』[1987年。判タ]408頁。その理由は証拠提出の困難である。同書405頁)、全ての債務不履行において債権者が不作為債務違反の主張・証明責任を負い(同書106、408、425頁)、作為債務のときは主張責任は債権者、証明責任は債務者が負う、としている(同書64頁)。日本でも債務不履行(民法第415条)の履行遅滞について同旨の学説がある。すなわち、不作為債務の場合は「不履行の事実」について債権者が主張・証明責任を負うが、作為債務の場合は「不履行の事実」の主張責任は債権者が、「履行の事実」の証明責任は債務者が負う、それは「主張を整えるためにやむを得ない」とする(倉田卓次監修『要件事実の証明責任 債権総論』[1986年。西神田編集室]34頁[倉田卓次・山田卓生・国井和郎・春日偉知郎])。ただし、並木茂説は、民法第415条の請求権は本来債務の履行請求権とは別個の請求権であることを理由に、不作為債務と作為債務を問わず、債権者が不履行の事実の証明責任を負うとする(同書35頁)。さらに、田村幸一(『債務不履行関係訴訟の証明責任・要件事実』[実務民事訴訟講座 第3期]第5巻[2012年。日本評論社]212頁)説は、かつての司法研修所の見解と同旨である(理由は証明困難)。なお、前田説には、双務契約において相手方に履行請求する場合は、契約締結という要件事実の存在によって(法律要件充足)履行請求権が発生(法律効果発生)するのであるから、請求原因としては、契約締結の事実について主張責任を負う(司研・前掲書138頁。ただし、証明責任については証明責任分配基準による)。そして、自己の債務の履行については、相手方の積極否認あるいは同時履行の主張(民法第533条)に対して「履行した」ことの主張責任を負う(証明責任については証明責任分配基準による。例えば、作為債務の場合は自らが「履行」の証明責任を負い、不作為債務の場合は相手方が「不履行」の証明責任を負う)。
(4)八正道とは、「正見」(正しい見解)、「正思」(正しい思惟)、「正業」(正しい行い)、「正命」(正しい生活)、「正精進」(正しい努力)、「正念」(正しい思念)、「正定」(正しい精神統一)、そして、「正語」である。 中村元訳「ブッダの真理のことば。感興のことば」(1978年。岩波書店)37、48頁。中村元=三枝充悳「バウッダ・仏教」(1987年。小学館)140頁。
(5)中村元訳『ブッダのことば スッタニパータ』(1984年。岩波書店)39頁。
(6)インドでは、さらに『マヌ法典』(前2世紀頃)において、“嘘を避けるべし”とされているし(渡瀬信之『マヌ法典』[1991年。中央公論社]69頁)、「偽証」については「敗訴の原因」(同書239頁)や「罰金」の原因(同書248頁)とされている。
(7)井筒俊彦訳『コーラン(上)』23頁、「同(中)」251、299、344頁、『同(下)』101、145頁(1957〜58年。岩波書店)。
(8)「偽証」については、出エジプト記の「契約の書」の中で禁止されている(出エジプト記23章1〜3節)。中東では、さらに、『ハンムラビ「法典」』(判例集。紀元前18世紀)第1条に“他人を殺人罪で告発したが、証明しなかったら、告発者は殺されなければならない”とされていた(他にも、第2条、第3条、第4条、第127条などに「偽証」についての記述がある。中田一郎訳『ハンムラビ「法典」』[古代オリエント資料集成1][1999年。リトン]9、10、113、158、163頁)。なお、現在、世界最古の法典とされる『ウルナンム「法典」』(紀元前21世紀)にも「偽証」についての記述があり(同書187頁)、次の『ピト・イシュタル「法典」』(紀元前20世紀)においても「根拠のない告発」についての記述があるとのことである(同書191頁)。なお、ハンムラビ「法典」と出エジプト記の関係については、同書200頁参照。
(9)吉田賢抗『論語』(新釈漢文大系Ⅰ)(1960年。明治書院)169頁。もっとも、「子曰、吾未見好徳如好色者也」(子罕第9 223、衛霊公第15 391)とあって、“色を好むほど道徳を好む人は見たことがない”と孔子様も二度も嘆いておられる。
(10)白川静『新訂 字統』(2004年。平凡社)279、489頁。
(11)民事訴訟法第2条「裁判所は、民事訴訟が公正かつ迅速に行われるように努め、当事者は、信義に従い誠実に民事訴訟を追行しなければならない」。この条文は平成8(1996)年に制定された。その起草担当者の解説によれば、“民事に関する紛争を訴訟を通じて公正かつ迅速に解決することを理念とし、そのために裁判所には訴訟が公正かつ迅速に行われるように配慮すべき努力義務を負わせ、当事者に対しては相手方の立証妨害、訴訟の引き伸ばし等の当事者の不誠実な訴訟活動が公正かつ迅速な訴訟の運営の妨げになるから、このような不誠実な訴訟活動を防止して、法の理念が適切に実現するように信義誠実義務を負わせた”、としている(法務省民事局参事官室編『新民事訴訟法』[1996年。商事法務]29頁)。
さらに立法に参画した人々の座談会である『研究会新民事訴訟法 立法・解釈・運用』(竹内昭夫ほか編・ジュリスト増刊(1999年。有斐閣)によれば、「公正・迅速・信義則」という最も基本的なルールは、本来、“日常生活と訴訟に共通するものである”、この規定は“ボクシングのボディーブローみたいなもので、やはり、きいてくるのではないか”(松浦馨発言21頁)、この規定は、いわゆる“フェアプレーの精神”を規定したもので、“当事者は自己に不利な事実まで訴訟上陳述する必要はないが、自己の主張を基礎づける間接事実などを開示して相手方の反駁の機会を保証することが要求されている(古典的弁論主義からの理念の転換)”(伊藤眞発言21頁)、とある。
(12)本誌632号46頁の証明責任の分配基準を、第1に公平原則を具体化した個別的証明法規範(例えば、民法第32条の2)、第2に公平原則を一般的に規定した「信義則」規定(民事訴訟法第2条。例えば、禁反言、証拠隠滅、民事訴訟法第224条)、第3に憲法第14条第1項に基づく民事訴訟法第2条の「公正」(例えば、証明の容易さ、証拠の近さ)、と説を改める。