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書斎の窓

コラム

先行研究を読むとはいかなる営みなのか

――大学院新入生への1つのアドバイス(中)

神戸大学大学院法学研究科教授 曽我謙悟〔Soga Kengo〕

3.どのように読むのか(1)――先行研究は作品か科学の成果か

 それでは、1つ1つの文献をどのように読んでいくのかを考えよう。そこでまず問題となるのは、先行研究を執筆した人の作品としてとらえるのか、それとも科学の成果としてとらえるのかという点である。古典を読むべきか、それとも古典については教科書を読めばそれで足りるのか。あるいは、文献の解釈は読み手の自由であり多くの解釈を引き出すような文献が望ましいのか、それとも読み手によって解釈が異なることは望ましくないと考えるのか。さらに、その文献はその筆者でなければ書けないものだと考えるのか、そうではないと考えるのか。これらの一連の問いは、いずれもこの問題にかかわるものである。

 先行研究を科学の成果と考えるのであれば、最新の成果を知ることが重要であり、古典を読む必要はない。現在、生物学の研究を進める上で、ダーウィンの『種の起源』を読む必要はもはやないが、たとえば、『基礎から学ぶ遺伝子工学』や『バイオ実験に使える統計の基本』に書かれている内容を十分に理解しておくことは重要である。文献に挙げられている証拠に基づけば、誰もが同じ結論に至ることが重要であり、そこに読者による違いがあるべきではない。それは、定められた通り手順を踏んで実験を行えば、同じ実験結果が再現されなければならないことと同じである。そして、材料が同じであれば誰がそれを書いたとしても、そこに書かれているものに大きな違いはないはずである。

 これに対して、先行研究を執筆者による作品としてとらえるのであれば、先行研究をよりよく理解するためには、多くの文脈的知識が求められる。その文献が書かれた時代背景や、その文献を書いた執筆者の置かれていた境遇、その人間がいかなる人生を歩んできたのかが、文献の内容を理解する上で重要な要素となる。そういった文脈的な情報や知識をどの程度、どのような形で取り入れるかによって、読み方は異なってくる。したがって、読み手の数だけ文献の読み方は存在する。

 やや極端な形で定式化したものの、ここに示した、作品と科学のどちらの見方をとるかは、結局のところ、その学問のあり方、すなわち、研究の独自性はどこにあると考えるのかによって規定されるものである。もちろん、それぞれの学問のあり方は十分に幅広く、そのどちらもがありうるし、どちらが正解といったたぐいのものではない。そのことを十分に踏まえた上で、少なくとも筆者が専門とする政治学においては、科学の成果として先行研究を読むことを基本とするのがよいと考える。

 政治とは規範性を強く帯びた営みであり、それは何を価値とするか、するべきかという問題と切り離すことはできない。政治のそうした性質が、学問にも強く影響しかねないだけに、研究を研究それ自体として扱うことが、政治学ではなおさら重要になる。そのためには、書かれたものを書かれたものだけから理解すること、裏を返せば、書かれたものと書いた人間を区別することが望ましい。書いた人間についての知識や情報が、書かれたものを深く理解するために資することを否定するわけではないが、そこまでしなければ理解できないものを必ずしも読み取る必要はないであろう。

 そして、誰がやっても同じ証拠から論理をもってすれば同じ結論が得られるとしても、何を題材として取り上げるのか、どのような理論を構築していくのか、どのようなデータを集めていくのか、そのデータをどのように処理していくのかといったあらゆる側面において、それぞれの研究は十分に独自のものとなりうる。政治とはそれだけの多様性をもつ営みである。

4.どのように読むのか(2)――文章と構成部品の検討

 1つ1つの文献の具体的な検討作業としては、文章レベルの要素についての検討と、章や節といった構成部品についての検討の2つがある。

文章レベルの要素の検討

 第1に、文章レベルの要素には、文章そのもの、図表、注という3つ、そして書籍の場合であれば索引を加えて4つがある。文章そのものについては、誤字脱字は論外であるが、一読して文意が取れない文章に注意をしたい。意味が取れない文章の大半は、筆者がその考えを明晰に言語化できていないことに、その原因がある。どのような筆者であっても、考えていることを100%伝え切ることは不可能に近い。書き直しや校正、他者の目にさらすことを繰り返すことによってその比率を上げていくことはできるが、かける時間と労力に比して上昇する限界伝達効率は逓減していく。どこまで歯を食いしばってその作業を行えるかということ自体、書き手の1つの力量を示す。将来書き手になる読み手として、その力量を評価し、改善策を検討できるようになってもらいたい。冗長な部分、言葉が足りない部分、違う言葉が適切な部分の3つを探し出してみるとよいだろう。また、接続詞は過不足ないか、段落分けは適切か、段落内での文章の順序は適切かといった点にも注意を払ってほしい。

 図表は概念の整理やデータならびに分析結果の提示に用いられるもので、文献の最も重要な部分ともいえる。どのような概念を行と列、あるいは縦軸と横軸に設定するのか、どれだけ多くの情報を図表の中に凝縮できるのかは、筆者がどれだけそのテーマについて深く検討できているのか、どれだけ効率的に読者に情報を伝えることができるのかを示す。図表づくりはそのような意味での「センス」がよく表れる部分であり、そのセンスのよしあしを判断できるようにしたい。

 注もまた、学術文献ならではの重要な部分である。本文に対する根拠の提示が主たる役割である。したがって、本文の記述を裏づける参考文献や資料、データの出所などが示される。注によって記述の検証が可能となるのであり、その意味で、科学実験における再現可能性を担保することと同様の機能が注にはある。2つ目の用い方としては、本文に対する補足を行うというものがある。本文の流れからはやや外れるものの、述べるに値する事柄を取り上げたり、さらにはちょっとした書き手としての「遊び」を入れたりすることもある。その意味で、図表が筆者の抽象化のセンスを示すものだとするならば、注は筆者の事実のディテールについてのセンスを示すものでもある。これもまた味わえるようになってほしい。

 索引は書物にしかついていないが、それは分量が多くなることで点在するようになる概念や事象についての記述を集約するものである。その機能は、文献の補助線を示すところにある。論文であればその分量の制約から、基本線をしっかり描くことが大事になる。主張とその根拠が明確に示されているかどうかが論文の鍵となる。書物の場合でも、基本線が1つ存在することに変わりはない。分量が増えたからといって基本線が何本もあるのでは、1つのまとまった研究とはいえない。研究書はエッセイ集とは違うのである。しかしその分量を生かして、さまざまな補助線を引くことを書物は許容する。多くの補助線を引ける豊かさこそが書物の意味でもある。索引にどのような項目を拾っているのか、その項目のどの頁を拾っているのかは、その筆者が考える補助線を示唆するものなのである。たとえば、政治制度の構造的な理解を基本線とする書物の索引中に、アメリカといった項目があれば、その頁を拾っていくことで、アメリカ政治を政治制度の視点からとらえた姿が浮かび上がるはずである。

章や節の検討

 第2に、章や節といった構成部品については、導入部分、先行研究の検討部分、分析や記述の部分、結論部分といった主要な4つの部品が、それぞれの機能を十分に果たしているかを検討する。

 まず、タイトルおよび文献冒頭の導入部分では、なぜ読者がこの文献を読まなければならないのか、的確に説明できているか、導入部分以降を読み進んでいくことに読者を誘い、読み進む上での道しるべを提示しているかが検討のポイントである。

 研究はそれを読者が受け取って、更なる研究につながってこそ意味をなす。読者にとって、その文献が読むに値するものであることを説明する責任は、筆者の側にある。読者にとってそれを読む意義が大事なのであって、筆者にとってそれを書く理由や事情、筆者の問題関心の由来などは意味をもたない。この読者に対する説得が十分なものとなるためには、そもそも読者が誰であるかが筆者によって明確に意識されていなければならない。読者の想定が最も容易なのは、学術雑誌に掲載される論文である。この場合、読者は専門分野を同じくする研究者に限定される。彼・彼女らにとっての意義は、当該分野の研究の蓄積を踏まえた上で、それに何か新しい知見を付け加えることである。したがって、それが書かかれていれば十分であり、扱っているテーマが社会的にも重要な問題であることや、隣接分野への示唆があるといったことを書く必要はない。他方、書物の場合は、読者としてより広い層が想定されている。したがって、そういった意義についても言及がなされてしかるべきである。

 導入部分に書かれるべきもう1つの点は、読者をそれ以降に誘導することである。誘導するとは2つの意味においてであり、1つは、それ以降を読みたいと思わせるという読者の意欲を高めることである。もう1つは、以下ではどのように議論が展開していくのかをあらかじめ説明することである。前者の点については、導入部分で主張の根幹を伝え、「面白い主張だな。なぜそのようなことがいえるのだろうか」と読者の興味や関心を惹いていくことが重要である。「ちらりと見せる」ことにより、その先に何が書かれているかを知りたいという欲求をもってもらえるような工夫が必要になる。

 導入部分以降の議論の道筋を示すことは、読者を迷子にさせないために必要である。議論の展開があらかじめ与えられていなければ、個々の議論が全体の主張とどのような関係にあるのかが、読者には見えなくなってしまう。分量が少なく、フォーマットが定式化されている論文の場合は、こうした道案内は簡潔で十分、あるいは不要なことも多いが、分量が多い書物の場合には必ず必要である。「なぜそういう主張が成り立つのだろう」という読者の興味に対して、このような手順で答えていくということが示されているかに注意しよう。

 次に、先行研究の検討部分において重要なのは、先行研究の単なる紹介にとどまっていないか、先行研究と筆者の研究の関係を位置づけられているかということである。往々にして、筆者の「お勉強の成果」、すなわち、筆者がこれまでいかに多くの文献(とりわけ外国語の文献)を読んできたのかを誇るかのような先行研究の紹介がなされることがある。しかし研究者であるならば「お勉強」をするのは当たり前である。特段誇ることではない。そこに書かれるべきは、筆者が個々の先行研究の関連性をどのように理解し、その中に自身の研究をどのように意義づけようとしたのかということである。したがって、そこでは先行研究の単純な要約が求められているわけではない(ただし、レビュー論文や教科書の場合は別である)。先行研究として、どういった文献を取り上げ、どの順番で議論しているのかに読者は注意しなければならない。その上で、それら先行研究に対して筆者の研究がどのような「立ち位置」にあると論じているのかが重要である。先行研究との関係、たとえばその否定、継承、補足、発展をどのように築こうとしているのか、それを通じて、先人への敬意を払いつつ何をそこに付け足そうとしているのかを示せているかを読み解くことが大事である。

 分析や記述の部分について、どのような点に注意して読むべきかは、分析や記述がいかにしてなされるべきかを理解することそのものである。この点については、久米郁男『原因を推論する』(2013年)のような優れた教科書が公刊されているので、そちらに譲ることとする。

 最後に、結論部分においては、そこまでの議論の要旨、議論の限界、今後の研究への展望といった3点が明確に書かれているかを点検するとよいであろう。議論の限界を示し、ありうる批判に対して一定の回答がある程度なされているか、今後の展望のところで、どれだけ多くの示唆が検討されているかを見ていくとよいであろう。

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