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連載

公共政策を考える

第10回(最終回) リスク管理のプラットフォーム

京都大学大学院法学研究科教授 真渕勝〔Mabuchi Masaru〕

 われわれは常に様々なリスクに囲まれ、ときにそれが現実化したとき危機に遭遇する。日本は、過去何度も大地震と大津波に襲われ、20世紀中に3度のインフルエンザ・パンデミックの災禍に巻き込まれ、戦前・戦後には金融機関の取り付け騒ぎが起こり、戦後には連続企業ビル爆破事件(1974年)のようなテロリズムの恐怖に陥った。

 リスクが現実化した直後、各種の対応策を検討し、その一部を実行に移す。しかし、時がたてば事件・事故は静かに忘れさられ、対応策もおざなりにされる。そのようなことをわれわれは繰り返してきた。リスクはあくまでも確率として把握されるために現実感に乏しく、危機は滅多に起きないために緊迫感が薄いためである。そして、いつ現実化するともしれないリスクへの対応策は、政治家には「票」に結びつかず、官僚には「予算」に結びつきにくい。その結果、過去からの学習が十分に行われない状況が続いてきた。

インフルエンザ・パンデミック

 20世紀のインフルエンザ・パンデミックは、1918年に世界中で猛威を振るったスペイン風邪が最初である。これによって、世界人口約20億人のうちの6億人が感染し、死者は4,000万人とも1億人とも言われている。世界人口の30%が感染、2%から5%が死亡したことになる。1920年のマックス・ヴェーバーの死も、スペイン風邪によるとされる。日本でも2,000万人以上が感染し、38万人以上が亡くなった。当時日本の人口が約5,500万人であったことを思えば、どれほどの猛威を振るったかがわかる。

 流行した当時、原因は不明であり、病名も決まっていなかった。そのために世界各地で様々な名称がつけられた。日本では理由は不明であるが「相撲熱」と呼ばれた。しかし、多くの国々では、原因をもっぱらスペインに押しつけ、疫病が収束するまで「スペインの貴婦人」と言い続けた(リチャード・コリヤー 2005『インフルエンザ・ウイルス スペインの貴婦人――スペイン風邪が荒れ狂った120日』11頁)。流行の初期、症状が軽かったことから冗談めいた名前をつける余裕があったのであろう。

 しかし、スペイン風邪の発生源はアメリカだと考えられている。1918年は第一次世界大戦の真只中にあり、「兵士たちは銃器のほかにインフルエンザウイルスを抱えて転戦したために」被害が世界中に拡大したのである(河岡義裕 2005『インフルエンザ危機クライシス』 11頁)。しかし、参戦国は国力・戦力の低下を示す被害状況を隠蔽していた。参戦していなかったスペインだけがインフルエンザ被害を公式に発表したために、不名誉にも名前をつけられてしまったのである。

 スペイン風邪に続いてパンデミックを起こしたのは、1957年のアジア風邪、1968年のホンコン風邪である。その被害はスペイン風邪ほどではなかったが、それでも日本においても、アジア風邪は98万人が罹患、7,700人以上の死者、ホンコン風邪は14万人の罹患、2,000人以上の死者を出した。

21世紀の新型インフルエンザ

 ホンコン風邪の後、パンデミックを起こすようなインフルエンザは20世紀の間は登場しなかった。しかし、1990年代後半から、鳥インフルエンザウイルスが人間に直接感染する事態が起きている。さらに、そのウイルスが豚などを媒体にして変化(不連続変異:antigenic shift)することによって、人間から人間に感染する可能性が高まっていた。そしてついに、2009年、それが現実のものとなる。

 日本において、その衝撃が走ったのは2009年4月である。メキシコ政府が同年2月から同国で広がっていた呼吸器障害や高熱の症状を新型インフルエンザによるものと正式に認め、4月27日、世界保健機構(WHO)が警告段階(フェーズ)をそれまでの「フェーズ3」から「フェーズ4」に引き上げた。すなわち、鳥や豚から人へと感染する段階を越えて、人から人へと感染する段階に、地域的に限定されているとはいえ、突入したと警告したのである。

 ちなみに、いつまでたっても「新型」インフルエンザと呼ばれるのは、国名などをつけるのを避けるためである。

 4月28日、フェーズ4への移行を受けて、日本政府は「新型インフルエンザの発生」を宣言、内閣総理大臣を本部長とする全閣僚からなる「新型インフルエンザ対策本部」を設置した。さらに、メキシコを対象に、不要不急の渡航延期を求める感染症危険情報を史上初めて出した。緊急記者会見では、厚生労働大臣が「ウイルスの国内への侵入を阻止するため、水際対策の徹底」を表明した。その翌日の29日、WHOは、2カ国以上に感染が拡大していることから、警告段階をフェーズ4からフェーズ5に引き上げた。そして、6月12日、WHOは、ついに複数の国に感染が拡大しパンデミックは不可避であるとして、警告段階を最上位のフェーズ6に引き上げた。

 しかし幸運なことに、日本では、検疫の強化やタミフルなどの抗インフルエンザ薬の活用などが作用したためか、被害は沈静化していき、2009年6月28日、厚生労働省は季節性インフルエンザと同様の扱いとすることにすることに方針を転換した。恐れていたほどに被害は拡大もせず、深刻化もしなかったのである。しかし、専門家は、スペイン風邪がそうであったように、第2陣以降が危険であると警告している。それにもかかわらず、何事もなかったように新型インフルエンザの脅威は忘れられている。

首都直下地震と首都機能移転論

 首都機能移転とは、現在東京に集中している立法、行政、司法という国家機能を別の場所に移すことである。かつて遷都といわれたが、東京都が首都であることを明記した法令が存在しなくなったことから(「首都建設法」1956年廃止)、次第に首都機能移転と言われるようになった。東京都が首都であるか否かは議論の余地があるが、東京都が首都機能を担っていることは疑いないからである。

 首都機能移転は戦後繰り返し論じられてきたところである。意識されてきた課題は時代時代によって微妙に異なる。しかし、強弱はともかく常に意識されてきたのは東京を襲うおそれのある大地震であった。国会においても、行政部においても、大地震に備えるために何らかの形で首都機能を移転する必要が指摘されてきたのである。

 1977(昭和52)年の「第三次全国総合計画(三全総)」には「首都機能の移転問題」という項目が立てられている。そこでは、移転の方法として遷都と分都をあげ、それぞれの長所と短所とを検討している。10年後の1987(昭和62)年、「第四次全国総合計画(四全総)」においても首都機能の移転が言及されている。しかし、言及の仕方は「三全総」に比べて軽い。首都機能に関する項目は立てられておらず、「東京に立地する既存の政府機関の一部の移転等」を検討すると記されているにとどまる。三全総と四全総との間の温度差がなにに由来するのかは不明であるが、三全総の発表された前年1976年に「東海地震説」が唱えられたことが関係しているのであろう。

 その後も、行政部には1990(平成2)年、国土庁に「首都機能移転問題に関する懇談会」、そして内閣総理大臣が主催する「首都機能移転問題を考える有識者会議」がそれぞれ設置された。対応する行政組織も室として設置された。国会には 1991(平成3)年8月「国会等の移転に関する特別委員会」が設けられ、翌1992年には「国会等の移転に関する法律」が成立した。

 1995年1月17日、兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)の発生によって「東海地震」への恐怖が蘇った。そして、大地震への関心がまたもや醒めた頃、2011年3月11日、東日本大震災が起こった。

目途のないプロジェクト

 政治家が首都機能の移転に関心をもつことは難しい。官僚にとっても事情は同じである。

 確かに、地震予知が可能であるとして、そのための研究予算を獲得することは官僚にとって魅力がある。しかし、地震に備えて首都機能を移転するための計画を練るとなると事情は変わってくる。政治家が本気で取り組む気はない、有権者からの支持も得られにくい、見通しのつかない仕事である。自由に関心を移動することのできる政治家とは異なって、担当部署に配属された官僚は、遅くとも途中から、左遷されたことを悟るにちがいない。フィクションの形式をとってはいるが、1990年代初めの状況も素材にした物語のなかで、高嶋哲夫は首都機能担当部署の責任者に次のように語らせている(高嶋哲夫 2014『首都崩壊』82頁)。

 

 上は首都機能移転なんて、はなから考えてはいないってことに気づいた。世論を中心にそういう風潮だったので、いずれ解散することが分かった上で作った組織だった。国民にとっては税金の無駄。私にとっては人生の無駄ってわけだ。

 

 官僚が問題の先送りをするかどうかは問題の性質による。喫緊の課題であれば、それを放置すれば自分の評価が下がるので少なくとも対外的に説明のつく対応策は講じるものである。しかし、中長期の目途も立たない問題であれば、放置しておいても誰にも迷惑をかけず評価が下がるわけでもない。リスク管理はそのような問題である。「左遷」された自分の前途に不安を感じながら、漫然と過ごす可能性は高い。

プラットフォームの効用

 リスクが危機として現実化したときマスメディアは大量のニュースを流し、政治家と官僚は緊急時対策、そして復旧対策を講じる。しかし、関心はどうしても一時的になる。繰り返すが、リスクは確率として把握され、危機は滅多に起きないために、実感が伴いにくいのである。

 他方、それぞれの分野の専門家は関心を継続させ、研究を続けている。問題はその成果が公共政策として実現されにくいことである。国民やマスメディアの関心が持続せず、したがって政治家もまたその場しのぎの対応に終始する。そして、各分野の専門家の間に意思疎通がないことも問題である。

 だが、それぞれの分野での危機は(幸いなことに)滅多に起きないが、分野を横断すれば(不幸なことに)相当な頻度で起きている。地震、津波、豪雨、大規模火災、新型インフルエンザ、食中毒、食糧不足、金融危機、テロリズム……。

 これらのリスクと危機に対する対応策を分野横断的に、「リスク回避」、「リスク移転」、「リスク低減」、「リスク分散」および「リスク保有」などの観点から整理して、リスク管理のプラットフォームを作るようにすれば、次のような効用が得られるはずである。すなわち、第1に専門家の間で相互学習が行われ、第2に国民のなかで関心が継続され、第3に政治指導者においてリスク管理の(マニュアルほど詳細ではない)レパートリーを把握することができる。要は、落ち着いた関心を継続させることができるということである。

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