連載
第6回(最終回) 日独関係のターニングポイントをどう考えるか
千葉大学専門法務研究科名誉教授 手塚和彰〔Tezuka Kazuaki〕
はじめに
2011年3月11日の東日本大震災・福島第一原発事故は日本の国内だけではなく、国際関係においても多大の影響を与えた。2011年3月から2年間余の期間、ドイツ現地で痛感したことは、大震災・原発事故が、日独関係においても決定的な影響を与えたことである。以下、筆者の私見ではあるが、折から日独交流150周年事業を実施した中で、日独文化交流を中心に少しく述べたい。
2011年は、1861年、日本が当時のプロイセン王国と交わした修好通商条約から150年を迎え、日独両国で多数の交流事業が計画され、実施された。国際交流基金ケルン文化会館は、この計画の立案に携わり、表に掲げた多数の事業を実施した。そのスタート直後に東日本大震災に見舞われたが、その計画の企画、実施の中で、ドイツ側に震災そのものの理解を求め、アピールすることも加わって、当初の計画を超える多面的なものとなった。その大要は、表に示したように、極めて広い企画が文化面を中心に展開されることになった。
この中で、ドイツおよびドイツ人の日本に対する理解、関心、さらには両国関係が従来と全く異なってきていることが顕著となった。その点では、日独関係が歴史的に新たな段階となり、その意味において、日独交流が変わらざるを得ないことを痛感したのである。また、東日本大震災後のドイツとの関係、その中での日独交流のありかたも考察してみた。
日独交流150周年事業(国際交流基金/ケルン日本文化会館関係事業)集計表
(2012,ケルン日本文化会館)
日本研究・知的交流 (講演・シンポジウム等) |
文化 芸術 |
日本語 |
その他 |
合計 |
||||||||
音楽 |
舞台 |
展示 |
映画 |
小計 |
各種交流 |
その他 |
小計 |
|||||
企画数 |
46 |
48 |
26 |
52 |
33 |
159 |
12 |
31 |
2 |
33 |
250 |
|
基金の関与 |
主 催 |
8 |
8 |
1 |
7 |
6 |
22 |
2 |
5 |
0 |
5 |
37 |
共 催 |
19 |
1 |
21 |
18 |
40 |
5 |
13 |
13 |
77 |
|||
助 成 |
13 |
37 |
25 |
17 |
8 |
87 |
3 |
7 |
7 |
110 |
||
後 援 |
1 |
1 |
2 |
0 |
2 |
|||||||
協 力 |
6 |
1 |
6 |
1 |
8 |
2 |
6 |
2 |
8 |
24 |
||
主催(共催)者の別(延べ) |
(i)基金/当館 |
27 |
9 |
1 |
28 |
24 |
62 |
7 |
18 |
0 |
18 |
114 |
(ii)大使館/総領事館 |
11 |
3 |
6 |
9 |
4 |
4 |
24 |
|||||
(iii)ドイツ側文化機関・大学 |
40 |
40 |
25 |
42 |
25 |
132 |
13 |
19 |
2 |
21 |
206 |
|
(iv)州・市町村 |
1 |
0 |
2 |
2 |
0 |
3 |
||||||
(v)独日協会・日本人会等 |
3 |
1 |
1 |
2 |
2 |
2 |
7 |
|||||
(vi)日本側機関 |
3 |
36 |
36 |
3 |
3 |
42 |
1 ドイツでの150周年事業を通じての考察
多数の事業の中で、テーマ別に見ると、第1のテーマは、日本の明治大正期を回顧するものや、それ以前の江戸時代の文化の紹介であった。その一部は、ドイツ人が相変らずエキゾチックな日本像を持ち続けていることがうかがえることもあって、現代の日本の理解にいかほどの積極的な役割を果たし得るのかという疑問が残った。
日本の歴史の中で、江戸時代には、現代と関連づけて未だ解明し尽くされていない面が多いのだが、この中で次の例を見てみたい。江戸時代に日本全国に普及したからくり人形は、その起源が安土桃山時代の西欧への開国期に日本に入ってきた西洋の人形にある。しかし、重要な内部の部品である「ばね」や歯車を作る金属の輸入、製造が途絶した江戸時代、代替材料である「クジラのひげ」や「べっ甲」などで、これを代替したのである。2011年10月に、「からくり人形レクチャー・デモンストレーション」(玉屋庄兵衛〈9代目〉と末松良一〈名古屋大学名誉教授〉氏による)のケルン、デュッセルドルフでの開催には、多数の子供たちが詰めかけ、さらに、大人をも満足させるものであった。その際、オープニングの挨拶で、私は、この「からくり人形」を幕末に作ってきた久留米のからくり人形製作者であった田中久重が、後に、芝浦製作所(現東芝)を創設し、実業家となることにふれた。日本のマイスターシャフトが江戸時代の不自由な原料や資材で、世界最高水準に到達していたことが、明治維新後の急速な技術革新につながったのである。同様に、ベルリンで開催された「北斎大回顧展」は、墨田区や津和野市の有力なコレクションを中心に、永田生慈氏の監修にて画期的なものとなり、これに関連するシンポジウムも加わり、会期の延長をするほどの多数の参加者を得た。この中で、後に西欧の印象派以降に決定的な影響を与えてきた北斎の芸術が、逆に鎖国の中で、西欧からの影響も受け、その画材をも含み、相互の交流があったことも知ることができた。さらには、ここにまとめられた北斎漫画によって、参加者は今日の日本アニメが世界に冠たるものとなったそのオリジンを知ることができたと考える。これらの企画は、意図するところはそこになかったけれども、日本の近現代の文化・芸術がその後のドイツとの交流などを経て、現在のハイテクにまで及んでいることを強調したのである。
第2のテーマは、日本の第二次大戦後の復興から現在までの姿を、映像、写真、さらには展示によりアピールした。その中で、ドイツ人ブルーノ・タウトの見出した桂離宮(石元泰博氏)や京都庭園の四季(水野克比古氏)などの写真と、「戦後日本の変容」をテーマとした田沼武能、多田亜生氏をはじめとする、日本写真家協会の方々の展示と講演が、東日本大震災の実情を伝えるものも加わって、アピールすることができた。さらには、「荒木経惟&辻村司朗――ワーク・イン・プログレス」展(ケルン東アジア美術館)での荒木氏の写真と辻村氏の陶芸は、圧倒的な現代を押し出すようなアピールと静寂の中の見事な沈思とを表現できたとの評価がある。
第3のテーマは、日本を含む東アジアの文化・文明の将来を照らすシンポや講演である。
青木保氏による「グローバル化する現代日本文化と東アジア文化圏の挑戦」の講演(ケルン、デュッセルドルフ)は、当時から現在なお続いている日中、日韓の相互の緊張関係は一時的なもので、過去、現在、将来にわたって東アジア文化圏は1つになり、様々な分野で西欧文明・文化に影響を与えてきたし、また、与えるだろうという趣旨がドイツ側の多大の理解を得ることができたと思われる。
最後のテーマは、福島第一原発事故とエネルギーに関するシンポである。この企画を立てるにあたって、共催者であるアクセル・フライムート・ケルン大学学長(彼自身有力な原子力研究者である)との準備の過程で、福島第一原発事故後1年位のタイムラグを経て、客観的な議論の場を日独両国の最高権威を招致して行うのが良いとの話し合いもあって、この企画は、2012年5月、9月、2013年3月の3回にわたり行われた。第1回の小宮山宏氏は「省エネ技術と代替エネルギー」について、日本の省エネ技術の優秀さについてデータにより論じられた。日本の環境問題への世界に先駆けての対応、資源のリサイクル、21世紀に入ってますます進展した省エネ技術など、今後の世界のリーダーとしての地位の解明と強調には、ドイツ側も納得し、日本側は勇気づけられて今後の両国の協働が行われるだろうとの結論に達した。第2回の田中伸男氏の「世界のエネルギーの将来像」についてでは、2035年までのエネルギーの将来の供給と需要に関し詳しく分析し、中国とインドなど非OECD諸国のニーズの圧倒的な大きさを示しつつ、非OECD諸国では今後も原発の設置が続くこと、東欧を含み、エネルギーの自給率の低い国での原子力が重要なオプションであることは否定できず、安全文化の確立、シビアアクシデントや複合災害などへの対処が日独などに求められていることを強調された。
第3回の畑村洋太郎氏は、福島第一原発事故の原因に触れながら、人為的な災害の様相のあった事故からの教訓を、失敗の中で見出すことを提唱された。この講演は、ケルンとベルリン[大使館]で開催され、特に、ベルリンではベルリン工科大学の専門家の参加を得て、興味あるものとなった。
ところで、福島第一原発事故直後には、従前原発についての研究もなかった素人の集まるシンポがあり、そこでは、日本は原発即時廃止すべきという結論が先立つ、論議がなされた。不思議なことは、ドイツからEUの機軸国である隣国フランスに対しては、こうした発言が一切なかったことである。事故直後にタクシーに乗ると、運転手が「日本の技術は、ドイツより低いのであの事故が起きた」というのを聞きつつ、右のシンポの素人談義の根底には、未だドイツから見て日本が後進的な国であるというイメージ、さらには、そこにノスタルジーとエキゾチックジャパンをみるというドイツ人の一部の傾向をみる思いが強かった。
2 おわりに――日独の文化・学術交流の今後
最後に日独関係の今日を、一言でいえば、第二次大戦前の日独関係を想起させるところがある。すなわち、中国の市場を巡って、諸列強が争い、ドイツは蒋介石政権に対し、軍事顧問団を送り、さらにはドイツ製の兵器の輸出にも積極的であり、日中戦争の初期、日本軍は自らの旧式かつ貧困な装備で苦戦を強いられた時代があった。
アンゲラ・メルケル首相の現政権は、その時代の再現ともいうべく、毎年2〜3回は、首相自身が多数の経済人を率いて、訪中している(なお、彼女の9年近い在任中、日本訪問は洞爺湖サミットの際のわずか1回である)。彼女の中国訪問の際に、中国の抱える環境問題、人権問題、さらにはエネルギー問題が論じられたという情報は伝えられていない。今後、地球環境、エネルギー、さらには人権問題の山積みする中国に対し、これらの問題解決のために日独が協働するという提案すら見られない。もっぱら、自国の経済(貿易)を志向しているとしか思えない現政権に対して、日独学術・文化交流を通じて積極的な提言をすることも重要である。
ケルン文化会館は、2011年9月8日、当時連邦政府から日独学術交流の代表として、その権限(予算)を委ねられていたケルン大学のフライムート学長と共に「日独交流150周年記念シンポジウム『変転する世界における伝統的な研究社会』」の開催をし、日本の18有力大学学長、副学長と、各分野の代表的な研究者250名が集まり、その後2日間の討議を得て、今後の日独学術交流の方向を見定めた(ⅰ)。その後の進展を見ると着実に両国の文化・学術交流は進展していると言えよう。最後に、この困難な時期に、ケルン文化会館の副館長以下の協働と、努力によりこれらの事業が成ったことも記して筆をおきたい。
また、すべての事業について触れることができなかったが優れた事業も多数あったと言え、詳細は他日を期したい。
(i)この結果は、Universität zu Köln/Japanisches Kulturinstitut Köln(HRSG), Beiträge aus dem Symposium:Japan and Germany-150Years of Cooperation Dynamics of Traditional Research Sosieties in a Rapidly Changing World (judicium 2013), 2 Bändeとして公刊されている。