巻頭のことば
第4回 経済学と生物進化
武蔵野大学経済学部教授 奥野正寛〔Okuno-Fujiwara Masahiro〕
ダーウィンの生物進化論では、環境により適した変異種がより適さない種を淘汰する(あるいはより適さない変異種より、より適した種が選択される)という、環境適合度を巡る生物進化の競争を通じて、生物は進化してゆくという考え方が示されている。もちろんここでいう「進化」とは、より高等な生物に進化するという意味ではなく、環境により適した生物に進化するという意味だし、生物の進化によって環境自体も変化するから、進化の過程がどこに行き着くかは、事前には明らかではない。
とはいえ、既存の種と変異種の間で環境適合度という尺度を通じた競争が行われ、それによって新たな世界が生まれてくるという考え方は、実は経済学とも相通じるものが多い。経済活動を活性化させるものは競争である。競争があるからこそ、価格は下がり、品質は改善し、新たな商品が生まれ、新たな組織が生まれる。競争のない社会では、人々は結託してカルテルを結び、経済活動は停滞してしまう。このことを最初に指摘したのは、アダム・スミスであり、彼の国富論には、商人の結託(カルテル行為)が如何に経済活動にとってマイナスかが、強い説得力を持って説かれている。
30年以上前、ある経済学会議で著名な経済学史の専門家と深夜に談笑しているとき、このような意味での経済学と生物進化論の類似性が話題になった。学問の歴史に疎い私は彼に、「アダム・スミスはダーウィンの進化論に影響されたのかもしれませんね」と言って、馬鹿にされてしまった。ダーウィンの『種の起源』が出版されたのは1859年であり、アダム・スミスの『国富論』が出版されたのは、その一世紀近く前の1776年である。要は、ダーウィンの進化論の方が、経済学に影響されたのである。ダーウィンが影響されたのは、スミスだけではない。特に影響されたのは、何の制約もなければ生物の人口は等比級数的に拡大することを指摘した、マルサスの「人口論」である。生物の繁殖には希少な資源が必要不可欠であり、だからこそ、資源環境に適した変異を持つ個体は生き延び、適さない変異を持つ個体は死に絶える。結果として、環境適合的な変異が遺伝を通じて繁殖し、新たな種として固定されるからである。
とはいえ、突然変異と競争が作り出す自然選択の仕組みは、経済学でしばしば強調される単純な価格の引き下げ競争や品質「改良」競争、あるいは偏差値を通じた受験競争のような、「単線的競争」とは全く異なる。突然変異によって生まれた変異種が、あるいは彼ら同士で、あるいは既存の生物種と、環境適合度を争う。このような自然選択の結果、全く新たな生物種群が生まれ、それが従来から存在する種とは異なる特質や性質を生み出すことによって、生物生態系を拡大し、場合によっては適合度を失った生物種を駆逐してゆくのである。単線的競争ではなく、このような「多元的な競争」こそが、新たな製品や新たな組織、新たなビジネス・モデルを生み出すという考え方は、経済学でいえば20世紀中葉に活躍したシュムペーターの考え方に最も近い。
シュムペーターが強調したのは、全く新しい製品や組織形態を発明し、異なる製品や異なるアイディア、異なる組織形態を新しい形に組み合わせるという新機軸と新結合によって、イノベーションが生まれるという考え方である。このような、従来存在しなかった製品やビジネス・モデルなどの新しいアイディアこそが、正常利潤を越えた超過利潤をもたらすのであり、それこそが「資本主義のエンジン」なのだと考えたのである。
「失われた20年」と呼ばれる90年代と00年代の日本経済は、不況とデフレを背景に、価格切り下げ競争や品質改良競争などの単線的競争に落ち込み、新たな製品や仕組みづくりを基にした、新陳代謝による経済活力を失った20年だったのではなかろうか。現代の日本が必要としているのは、シュムペーターがいうような様々な新機軸や新結合を基にして、アニマル・スピリッツを通じて超過利潤を得ようとするベンチャーや、今まで冷遇されていた女性や非正規労働者が活躍できる場を作ること、さらには1度失敗しても2度、3度と新たな挑戦機会を作ることではなかろうか。それでこそ初めて、資本主義のエンジンが始動すると考えられるからである。